65 / 115

6、いい出会い?

 その青年から注がれる視線はあまりにも眩しいのに、どうしても目を逸らすことができない。青年もまた、そんな須能の目線を真正面から捉えて、しばらく無言でじっとしていた。  ――綺麗な目ぇや。それに、めっちゃいい匂いする……。  葵や蓮と雰囲気は違えども、その青年から漂う芳しいアルファフェロモンに、須能の本能が反応している。美しく、逞しい妙齢のアルファを目の前にして、須能は久方ぶりに胸が高鳴るのを感じていた。  須能の瞳に見入っていた青年は、ふと、はっとしたように瞬きをした。そして、須能のひどいなりを見て事情を察したのか、硬い口調でこう言った。 「裏のドアが開けっ放しになってたから、気になって入ってみたんだ。……立てるか? すぐ裏に医務室があるから、そこ、連れてってやるよ。すぐに警察も呼んで……」 「……ん? け、警察?」 「襲われたんだろ? だったら、警察呼んで犯人捕まえないといけねぇだろ」 「犯人て……、ちょ、ちょい待って。今日は新藤様の大事なパーティや。警察なんか呼んで騒ぎを起こすわけには行かへん!」 「……新藤様? え? あんた親父の客なの?」 「親父?」  ――新藤氏の息子さん? ってことは、子どもが生まれたばっかりの……。  胸を高鳴らせた矢先に突きつけられた現実に、須能はふらりとめまいを覚えた。が、ここ最近の己の不運を思えば、これくらいの落胆など取るに足らないものだ……と思おうとした。こんなにも紳士的で素晴らしい美丈夫が、自分などの手に入るわけがないのだと。  須能は痛む足首と心を叱咤して、その場で深々と頭を下げた。そしてよそゆきの声で、祝いの言葉を述べる。 「この度はおめでとうございます。お子様の健やかなるご誕生、心よりお慶び……」 「え? 子どもが生まれたのは俺じゃねーよ。兄貴のほう」 「……え?」  青年のその台詞に、須能はがばりと顔を上げた。青年は突然須能と間近に目が合ってしまったことに照れているのか、ちょっとばかり頬を赤くしてこう言った。 「俺は次男。今日の主役は兄貴の、新藤龍太郎だよ」 「あ、ああ……そうでしたか」  ――次男坊のほう、か。てことはフリーなんやろか…………って、あかんあかん。浮かれたらあかん。大物政治家のジュニアで、しかもこんなええ男や。フリーなわけあらへん。あかんなぁ、あんなことのあとに優しくされたら、ふらっとなってまうわ……。  と、須能は浮かび上がりそうになる己の心を戒め、冷静な表情であろうと努めていた。すると青年は気恥ずかしそうに須能から目をそらしつつ、ぶっきらぼうな口調でこう言った。 「俺は新藤虎太郎(こたろう)。あんた、あれか。親父が最近惚れ込んでる、日舞の……」 「あ、はい。須能流二十六代目家元をやらしてもろてます。須能正巳と申します」 「い、家元? こんなに若いのに?」 「……若い言うても……僕は今年で二十三ですし」 「年上……」 「え?」 「あっ……いや、なんでもねーけど」  新藤虎太郎は顔を赤くしたまま、ゆっくりと須能の肩に手を触れた。肩からずれたジャケットを直してくれようとしたらしい。しかし須能が反射的にビクッと肩を揺らすと、虎太郎ははっとしたように手を止めて、「あ、わり……」と呟く。 「あんた、誰かに襲われたんだろ? なのにパーティを優先するとか……それでいいのかよ」 「構いませんよ。新藤様は僕の大事な友人が信頼してるお大尽や、こんなことで、おめでたい席を邪魔したくないんです」 「……こんなことって」  須能の言葉に、虎太郎はやや目を見開いた。痛ましげな表情はそのままに、虎太郎はもう一度須能の肩に触れてきた。 「……とにかく、医務室に行こう。そこ、いつでも人がいるわけじゃないし、ちょっとは休めんだろ」 「あ、はい。……痛っ……!」 「え?」  虎太郎に肩を支えられて立ち上がろうとした途端、痛めていた左足首が激しく痛んだ。  須能が思わず崩れ落ちそうになるのを、虎太郎は咄嗟に支えた。逞しい肉体と力強い指の感触に、須能の胸は、否応無く高鳴ってしまう。  ――あかん、あかん……絶対フリーとちゃうもん、この人……。浮かれてる場合とちゃうで……。 「足……やってもたみたいですわ」 「おい……こんなんじゃ、踊りなんて無理だろ。やっぱり今日は、」 「いや、大丈夫や。今から冷やして、ちょっと休めば……」 「……はぁ? 何言ってんだよあんた! そこまでして親父喜ばせなくたっていいいんだよ! こんな足で、どうやって踊るつもりだ?」 『いついかなる時も、自分自身の都合でお座敷を退いてはならない』——これは、祖母から受け継いできた硬い理念のひとつである。だからこそ、須能流の踊り手は、発情期であろうがなんだろうが、抑制剤を用いてまで舞台に立ち続けていた。その結果、アルファの客に襲われる結果になろうとも、舞台に穴を開けることは許されないのである。  そういう思想が身に染み付いている須能にとっては、足の怪我など休む理由にもならない。だが、虎太郎は凛々しい瞳に怒りさえ滲ませて、じっと須能を睨みつけているのだ。 「……痛いの無理して踊られたって、なんも嬉しくねーんだよ。こっちだって気ぃ遣うだろうが」 「……けど」 「けどもクソもあるかよ。襲われたってのは隠してやってもいいけど、この足で無理なんかしてみろ、あんた、今後踊りなんか踊れなくなるぞ」 「……」  黒いスラックスの裾から覗く足首は、確かにぱんぱんに腫れ上がっている。まともに立ち上がれさえしない状態だが、須能は痛み止めを飲んででも舞台に立とうと考えていた。数日後に予定されている別の舞台にも、同様に。 「でも……」 「あーもう。じゃあ、俺があんたにぶつかって、あんたがうっかり転んで怪我したってことにしといてやる。それならいいだろ」 「えっ!? でも、そんな、」 「つべこべ言うんじゃねぇよ。ほら、医務室行くぞ」 「ちょ……!!」  虎太郎はじれたようにそう言うと、ひょいと須能を横抱きにした。慌てて虎太郎の首に腕を絡めて身体を支えると、虎太郎はまた気恥ずかしげに目をそらした。  そしてそのまま、つかつかと早足に舞台袖の方へと歩き出す。  ――な、なんなんやこの人……。  あれよあれよという間に医務室に連れてこられ、須能は虎太郎の手当を受けることになった。  壁際に一つだけ置かれた硬いベッドの上に腰掛けていると、虎太郎は鈍色のキャビンから湿布や包帯の入ったケースを取り出し、須能の前に跪いた。そして、須能の靴と靴下を脱がせて、スラックスの裾を少しずつまくりあげていく。  伏せた瞼と、長いまつげ。  こうして明るい場所で見ると、虎太郎の髪の毛は明るい栗色をしている。アルファに跪かれることも初めての経験な上、瑞々しい指先で腫れ上がった足首を撫でられて、その不慣れな感触に須能は小さく息を飲んだ。 「……っ……」 「えっ!? い、痛いのか!?」 「あ……いや、ちょっと」 「ちょ、ちょっと待ってろ。すぐ終わるから」  虎太郎は手慣れた手つきで湿布を取り出し、須能の足首を手当してゆく。その手際の良さに感心しつつ、須能は虎太郎に話しかけてみた。 「……な、慣れてはるね。この部屋のこともよう知ったはるみたいやし」 「このホテル、親父の行事ごとでよく使うから、ガキの頃からよく探検して遊んでたんだ。それに、部活で怪我の手当てとかもたまにするしな。テーピングとかも得意だし」 「ぶ、部活?」 「うん、剣道部。割と怪我する奴多いんだよな。だから自然と身につくっていうか」 「……あ、あのさ……。君、いったいいくつなん?」  若いであろうとは思っていたが、外見を見る限り、二十歳は超えているだろうと思っていた。だが、部活があるということは、ひょっとして……。 「十七。高三」 「こっ……高校生……」  ――高校生、やと……!! そ、そんなん……あかんのちゃうん!? 僕もう二十歳超えとるのに、高校生に手ぇ出したら犯罪者なんちゃうの……!? って……いやいやいやいや!! 手ぇ出すとか出さへんとか、そういう関係になるわけやないけどもやな、でも、でも……!!  須能が黙り込むのを見て、虎太郎は慌てたようにこう言った。 「あっ、でも、もうすぐ十八だし! 俺、十一月生まれだから!」 「……あ……そうなんや。ええ時期に生まれはったんやね……。スーツやし、身体大きいから、もっと年上かと思てたわ」 「まぁ、年上に見られることの方が多いけど……。てか俺だって、あんたのこと同い年くらいだと思ったし」 「えええ? 僕が未成年に見えたん?」 「だって細いし、きれぃ……」 「ん?」 「なっ、なんでもねえよ!! お、俺、家族や親戚以外のオメガ見るの初めてなんだよ! だからその……歳とかよく分かんねぇっていうか、なんていうか……ええと……」  虎太郎はなぜか怒ったような口調で早口にそうまくし立てつつ、ぐるぐると須能の足首に包帯を巻きつけた。大きななりをしてうぶな表情をしている虎太郎が可愛らしく見え、須能は思わず少し笑ってしまった。すると、ぎろりと下から睨まれる。 「あ? 何笑ってんだよ」 「いや別に、なんでもないよ。ていうか、学校にオメガはいいひんの?」 「あぁ、オメガがいると学業に専念できないからって。うちの学校、生徒も教師も全員アルファなんだ」 「うわぁ、すごいなぁ。それってめっちゃ名門ってこと?」 「そんなことないんじゃね? 蓮さまや葵さまが通われてる学校には、普通にオメガいるって言ってたし」 「ん? 葵くんらとも知り合い? ……ああ、そらそうか。家族ぐるみでお付き合いしてんねもんな」 「葵くん? なんだよ、仲良いの? ……ひょっとしてあんた、葵さまの……」  虎太郎の表情が、さっと冷えて強張っていくように見え、須能は慌てて首を振った。 「いや、ちゃうで。僕は、国城兄弟とはただの幼馴染みたいなもんで」 「……本当かよ。蓮さまも葵さまもアルファなのに、浮いた話とか全然聞いたことねーし。……あんたがどっちかの番、とかってオチじゃねーだろうな」 「えぇ? それはないて。僕はほんまにただの友人」 「……ふーん。ってことはあんた、フリー、ってこと?」 「ま、まぁ……そう、やけど」 「ふ、ふうん……そうなんだ」  ――あれ、この子ひょっとして……僕のこと意識してはる……?  分かりやすい反応だ。  あまりにも率直に好意を滲み出している虎太郎を見ていると、これまですっかり恋愛に萎縮して、疑心暗鬼に囚われていた須能の心が、ほんわりと暖かくなっていくような気がした。しかし。  ——けど、未成年やで? 今の僕には色々と世間の目も向いとるし、未成年に手ぇ出したとかって騒がれんのは、困るんと違うか……?  ようやく良い出会いに恵まれたような気がするのだが、素直にときめくこともできない状況だ。  複雑な感情に頭を悩ませながら、須能は虎太郎の熱っぽい視線を受け流しつつ、曖昧に微笑んだ。

ともだちにシェアしよう!