66 / 102

7、厚意

 結局一人で歩くこともままらなず、須能は車椅子でパーティに参加することになった。ちなみに、車椅子を押しているのは虎太郎である。  せめて松葉杖にしてくれと頼んだのだが、『立ちっぱなしのパーティなんだから、こっちの方が楽だろ』と押し切られてしまったのだ。和服姿で車椅子、しかもそれを押すのは主賓の息子とあっては、目立って目立ってしようがない。須能は居心地の悪さに耐え忍びつつ、愛想笑いを振りまいていた。  表向きは虎太郎とぶつかって階段から落下したことになっているため、新藤氏は平伏す勢いで須能に深く謝罪した。そして息子である虎太郎にきつい一喝を与えたあと、『責任持って、須能様の身の回りのお世話をしなさい!』と命じたのである。  そして須能には『こんな不躾な息子でよければ、いくらでもこき使ってやってください。本当に本当に、申し訳ありません』と平謝りされ、この怪我にかかる医療費等は全額新藤氏が持つと言い張るのだ。  まさか金銭面まで世話になるわけにはいかないと、須能は硬くそれを断ったのだが、新藤氏はどうしてもといって聞かない。どう断ろうかと考えあぐねている間にパーティが始まってしまったのである。  そして、車椅子で現れた須能に、蓮と葵も仰天している。二人はすぐに須能のそばへやってきた。 「そんなにひどいのか? 関東公演もあるのに」 と、葵はすっと膝を折って、痛ましげな顔で須能の顔を覗き込んだ。 「い、いやいや、そんなひどないから。ちょっと捻挫しただけや。関東での舞台はあと一つやし、まだ日もあるから、出れると思うしな」 「……そうか。でも、これじゃ何かと不便だろう? こっちにいる間は、僕らの家で過ごしたらどうだ」 と、蓮もあたたかな声をかけてくれるものだから、須能は思わず恐縮してしまった。 「い、いやいや! そこまでしてもらえませんて。それに……葵くんらのこともあるし」 「あぁ……」  須能の言葉に、蓮と葵が目を見合わせる。  結糸の発情期が近いのだ。もう諦めた恋とはいえ、葵と結糸がすぐそこで愛し合っている中、国城邸で過ごすことなどできるわけがない。  ――僕がおることで、二人に気を遣わせたくないしな……。  須能は葵に向かって微笑みかけると、軽い口調でこう言った。 「マネージャーとか付き人の子ぉらもおるし、僕は何とでもなるから、大丈夫やで」 「……そうか」 「ま。今日は代わりに弟子が舞うわけやし、僕はのんびり美味しい料理を堪能させてもらいますわ」 「大丈夫ですよ、須能さんのことは、責任持って俺がちゃんとお世話しますから。葵さまたちは、ゆっくりパーティを楽しんでください」  不意に、頭上からそんな声が聞こえてくる。ビシッとスーツを着こなし、きびきびした口調でそんなことを言う虎太郎の姿は、さっきよりもずっと大人びて見える。ついさっきまでの高校生らしい顔とのギャップが激しく、須能はやや面食らってしまった。 「俺のせいで、須能さんは怪我をしたわけですし」 「まぁ、起こってしまった事故は仕方ない。須能を頼むぞ」 と、蓮に声をかけられて、虎太郎は深く頷いた。 「お任せください、蓮さま」 「しかしほんとに背が伸びたな。俺より大きいんじゃないか?」 と、今度は葵が虎太郎に声をかけている。虎太郎は生真面目な顔のまま、「こないだ測ったら、百八十になってました」と言う。  若く見目のいいアルファ三人が語り合う姿は、なかなかどうして麗しい。須能がぼんやりと三人を見上げていると、蓮らのもとに他の招待客が挨拶に訪れた。  ふと気づくと、蓮と葵の周りには、例によって人だかりができはじめている。そんなところに車椅子の自分が混じり込んでいるのは居心地が悪いため、タイミングを見計らい、須能は蓮たちのそばを離れようと思った。須能は車椅子を押す虎太郎を振り返り、こう声をかける。 「なぁ、舞台が始まるまで、ちょっと隅っこの方へ行きたいんねんけど」 「え? そうか? そういうえば、あんた何にも食ってねーだろ。適当に料理取ってきてやろうか?」 「いや、僕のことはええから、君も自由に楽しんでおいでや」  須能が微笑みを浮かべつつそう言うと、虎太郎はちょっと怒ったような顔で須能を見下ろした。さっき蓮たちに見せていた生真面目な表情が嘘のように、憮然とした顔である。 「はぁ? 何言ってんだよ。ついさっき襲われてたあんたを、ひとりでほっとけるわけねーだろ」 「あ……うん。けど、君もお父さんについて回って挨拶せなあかん人とかおるんちゃうの。政治家のジュニアなんやし」 「俺は親父から、あんたの世話係を命じられてるんだ。それに、今日は兄貴がいれば十分だし」 「まぁ……そうかもしれんけどもやな」  虎太郎は須能の車椅子を押しながら、白い皿に料理をいくつか盛り付け、半ば押し付けるように手渡してくる。戸惑いつつもそれを受け取りながら虎太郎を見上げると、すぐにするりと目をそらされた。  怒ったような顔をしていても、相手は十七歳の高校生だ。それに、須能を目の前にして照れているのが丸わかりという素直な反応を見てしまえば、どうしてもこの少年のことを愛らしいと感じてしまう。  だがそれは、幼気な子どもを相手にしている時に湧き上がる感情に似ているような気がした。いくら相手がアルファとはいえ、相手はまだまだ子どもなのだから。 「……ありがとう」 「えっ……おう」 「美味しそうやな。向こうで、君も一緒に食べへん?」 「……いっ……いいけど」  須能は虎太郎に料理をリクエストし、少し人気の少ない壁際の方へと車椅子を押してもらった。そして虎太郎と並んで、皿に盛られた食事に箸をつける。 「……なぁ、あんたさ」 「ん?」 「心当たりとか、あんのかよ」 「心当たりって……あぁ、さっきのこと」 「犯人かばって黙ってるとか……」 「いやいやいや、それはないわ。僕は純粋に、今回のお祝いの席を邪魔したくなかったんや」 「……。ひょっとして、ストーカーに何かされたの、これが初めてじゃねぇってこと?」 「……直接襲われたんは初めてやし、同一犯かどうかは分からへんけど……」  須能は、これまで手元に送られてきた白紙の手紙や髪の毛のことを、虎太郎にかいつまんで話をした。虎太郎は険しい表情で須能の話を聞きながら、「……不気味だな」と呟く。 「あと、空港で嫌な視線を感じたっけ。……京都からついてきたんやろか」 「すげぇ執念だな。……明日は何してんの?」 「明日はオフやから、一人で舞の稽古しよと思っててんけど……これじゃ無理やから、多分宿にこもって書き仕事やな」 「書き仕事?」 「女性向けファッション誌の連載持ってんねん、僕」 「え、まじで?」  皮肉なもので、須能が担当している記事は、若い女性たちからの恋愛相談を受けてアドバイスを語るというものである。アドバイスを施す自分が、まるでいい恋愛に縁がないという残念な状況であるが、須能の記事はいつも好評で、記事とともに掲載される須能の洋装ショットなどはとても人気が高いらしい。  記事を書きながら自嘲の笑みが止まらないと言った状態に陥る仕事ではあるが、そんな実情を年若い虎太郎に聞かせることなどできるわけがない。「色々すげぇんだな、あんた」と純粋に目を輝かせている虎太郎に向かって、須能は微妙な笑みを浮かべて見せた。 「まぁ京都帰ったら、ストーカーのことはきちんと警察に話そうと思てるから。君はそんな心配せんでもええよ」 「京都帰ったら? ……ていうかあんた、いつまでこっちにいんの」 「えーと……、あと十日くらいやなぁ。最終日には一回公演もこなさなあかんし、怪我、頑張って治さなね」 「……十日か」  須能のその台詞を聞くや、虎太郎の表情が寂しげに曇った。こうまでも分かりやすい反応を見せられてしまうと、須能のほうもどうしていいか分からなくなってしまう。  須能が声をかけあぐねていると、パーティ会場の入口から、見慣れた顔が現れた。マネージャーの有栖川と、護衛の黒服が一人、そして須能の代打を務める弟子の、ベータの少女である。 「須能さーん! どうしちゃったんですかこれぇ!!」 と、有栖川は車椅子に座る須能を見るなり大騒ぎだ。軽い捻挫と伝えていたのに、須能が車椅子に乗っているので仰天しているらしい。須能は有栖川を宥め、車椅子は虎太郎の厚意だと伝えてやる。すると有栖川はじっと虎太郎の方を見上げて、「おお……」と謎めいた感嘆の声を漏らした。 「……ほぉ……君がアルファですね。須能さんにぶつかったっていう」 「はい。この度は、多大なる御迷惑をおかけして、大変申しわけありませんでした」 「えっ、あっ、いや、事故なんだから仕方ありませんよ。須能さんもほら、ぼーっとしてるときありますしね!」 「はぁ? 僕がいつぼーっとしてたっていうんや!」 「まぁまぁ、パーティの後、すぐに病院行きましょうね。応急処置はちゃんとしてあるみたいだし、今はちゃーんと新藤様との交流を深めておいてくださいよ」  有栖川は須能と虎太郎を見比べて、やたらと愛想のいい笑顔を浮かべた。その後、須能の弟子を虎太郎に紹介したりしているうち、あっという間に舞台の時間が迫ってくる。  緊張のあまり震えている弟子の手をしっかりと握り、「君なら大丈夫やから。一番得意なやつ舞ったらええ」と伝えた。弟子の少女――名を紗波(さなみ)という――は、何度もこくこくと頷きながら「は、はい……がんばります!!」と答え、護衛役と連れ立って舞台裏の方へと消えていく。  震える少女と、大柄な黒いスーツの男(しかも強面にサングラス)という絵面はそこはかとなく怪しげだ。  打ち合わせをしていた須能らに遠慮してか、虎太郎は少し離れた場所で、数人の招待客と何やら愛想よく会話をしている。そうしていると、虎太郎の姿はやはりとても大人びて見えた。  すらりとした長身に、少年らしさを残す美しい体型。オフィシャルな場に慣れた、余裕のある態度。そういう姿を見ていると、彼はいずれ大物になるのだろうなぁ……という確信が湧いてくる。  須能がぼんやりと虎太郎を眺めていると、ふと、ばっちりと目が合った。頬を赤らめつつ、さりげなく目を逸らす虎太郎の姿になんだか照れてしまい、須能はどぎまぎしながら目を泳がせる。すると、有栖川がニヤニヤしていることに気づき、須能は咳払いをした。 「裏の準備はもう万端か?」 「ええ、みんな揃ってますよ。……ねえ、須能さん」 「ん?」  有栖川は須能の隣に座り込み、こそこそとこんなことを言った。 「その男の子、まだ若そうですけど、さっきからずーっと須能さんのこと見つめちゃってますよ」 「……うん」 「ねぇねぇ、すごいイケメンじゃないですか! どうするんですか!? 逃すには惜しい逸材のような気がするんですけど!」 「ちょ、声でかいて!! こっちはもうええから、有栖川は裏行って紗波を励ましてやりや」 「あっ、はぁい」  ――逃すのが惜しい逸材て……。そんなん、分かってるわ。けど十七歳やで? 高校生やで? そんなん……あかんやろ。  そんなことを思いながら有栖川の背中を見送っていると、不意に、ぞわりと全身が粟立った。  さっとあたりに視線を巡らせるが、そこには華やかなパーティを楽しむ人々の笑顔しか見つけることはできない。  しかし、確かに感じる。  須能の肌にねっとりと絡みつくような、あの視線だ。  襲われた時に痛めた足首や、胸を舐め上げられたときの感触が急にじわじわと蘇り、須能はぎゅっと羽織の裾を握りしめた。 「どうした?」 「……えっ……?」 「顔、真っ青だぜ。どうしたんだよ」 「……あ、いや……」  虎太郎は須能の前に回り込むと、すっと膝を折って顔を覗き込んだ。気遣わしげな凛々しい瞳が、まっすぐに須能を見つめている。 「どうしたんだよ」 「……なんか……視線、感じて……」 「えっ!? あのストーカーのか!?」 「ま、待っ……!」  すぐにでもストーカーの正体を暴いてやろうという勢いで立ち上がりかけた虎太郎の手を、須能はとっさに掴んでいた。虎太郎はもどかしげに須能を振り返ったが、不安に揺らめくその表情を見て、はっとしたように目を瞬く。  虎太郎はもう一度須能の前に跪くと、堅く握られた須能の手を、大きな手で包み込んだ。そのぬくもりに気が緩み、須能の唇からは思わず細いため息が漏れてしまう。 「もう大丈夫、やから……」 「大丈夫なわけねぇじゃん。怖かったんだろ? なんで素直に認めねーんだ」 「……怖い?」  男に襲われかけ、祖母に頬を張られたあの日からずっと、『怖い』という言葉を使ってはいけないような気がしていた。アルファから押し付けられる行為を、オメガは甘んじて受け入れるべきだという祖母の思想が、思っている以上に深層心理に食い込んでいたらしい。 「……怖い、か……せやな。怖かったわ。真っ暗な中、いきなりあんな……」 「そりゃそうだろ。カッコつけなくてもいいのに」 「や……かっこつけてたわけやないねんけど」  言葉を濁す須能の手を、虎太郎はさらに強く握りしめた。そして熱のこもった真摯な眼差しで、まっすぐに須能を見つめている。 「……ったく、ほっとけねぇな、あんた」 「え……?」 「あんたがこっちにいる間、俺がそばについててやるよ」 「……えっ!? そ、そんなん、あかんて! 君はまだ高校生や、こんなことに巻き込むわけには、」 「そんなの関係ねーだろ。あんた、放っといたら危なそうだし、俺が守ってやるって言ってんだよ」 「……」 『守ってやる』そんな台詞を投げかけられたのは、生まれて初めてだった。  虎太郎の瞳には熱がこもっていて、声色には決然とした響きがあり、それが本心であるという想いが伝わって来る。 「……あ……ありがとう」 「べ、別に、いーよ。夏休みだし、部活も引退したばっかだから、暇だしさ」 「……うん」  怖かった、いつも。  アルファフェロモンが立ち込める舞台の上で、色気を振りまきながら舞うことが。そのあとに伸びて来るいやらしい男の手に、体のそこここを触れられることが、恐ろしくてたまらなかった。  しかし、自分は古典芸能を守っていかねばならない身だ。そんなものに動揺していては、家元は務まらない。  いつでも妖艶な笑みを絶やさず、アルファ達の性的な誘いをのらりくらりとかわしながら、余裕のあるふりをして……。 「……ありがとう」  須能は俯いたままもう一度そう呟き、虎太郎の手をぎゅっと握り返した。

ともだちにシェアしよう!