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8、大きな掌
次の日、須能は東京にある須能流の鍛錬場で、三味線を奏じていた。
誰を相手にしているわけでもないため、須能は自由気ままに弦を叩き、目を閉じてその音色に浸っていた。この身を動かして舞を舞う瞬間もすこぶる心地の良いものであるが、こうして自ら弦を弾いて音色を奏でることもまた、須能の身体に馴染んだ行為だ。古典楽曲の世界に浸りながら一つの旋律をを奏でてゆく楽しさに、ついつい時間を忘れていた。
一汗かいた後、須能はふと、有栖川が襖の隙間から顔を覗かせていることに気づいた。小首を傾げつつ手招きをすると、有栖川がすっと襖を開く。
「お取り込み中失礼します。あのお……」
「何や、どうしたん」
「実はですね、先ほどから新藤虎太郎さんがお見えでして……」
「え……えっ!? 虎太郎くんが?」
昨日のパーティの折、虎太郎は『俺があんたを守ってやる』と言った。あの台詞は、その場の勢いに任せて口にした言葉ではなかったのか……と、須能は少なからず面食らってしまい、しばし返事に窮してしまった。すると有栖川は、ごほんと咳払いをしてこんなことを言う。
「実はもう……ここにいらっしゃってますけど」
「えっ? いつからおったんや」
「もう二十分ほど前から……。須能さんが熱心に三味線弾いてらしたので、それが終わるまで待つとおっしゃって」
「ええ?」
須能は畳の床にそっと三味線を寝かせ、腰掛けからふらりと立ち上がった。すると、すっと襖が大きく開き、有栖川の隣に立つ虎太郎の姿が目に飛び込んでくる。
「あ……ええと。ほんまに来てくれはったんやねぇ」
今日の虎太郎は制服姿だった。淡いグレーの生地に細いチェック柄の入ったスラックスに、白い半袖シャツという格好を見ていると、本当に虎太郎は高校生なのだなぁという、妙な現実感が湧いてきた。虎太郎は昨日と同様ちょっと怒ったような顔をしていたが、須能の姿を見ると、大きな目が微かに揺れた。
「……来ちゃ悪ぃかよ」
「あ、いや……そんなことないで。ありがとうな」
「ていうか、座ってて良いのに」
「うん、昨日病院行って湿布もろて、痛み止めなんかももらったりしたから、だいぶ調子いいねん」
「ふうん……そうなんだ」
気づけば、有栖川の姿が消えている。どこぞで出歯亀でもしているのではなかろうかと視線を巡らせつつ、須能は虎太郎を鍛錬場の中へと促した。虎太郎は興味深そうに部屋の中を見回しながら、足元に置いていた大きなスポーツバッグを肩に引っ掛け、須能のそばへ近づいて来た。
「日舞って、こう言うところで練習するんだ」
「うん、普通の人はあんまり見る機会ないやろなぁ」
「剣道場とちょっと似てるかも。木の匂い、落ち着くよ」
「ふふ、そぉか」
一段高くなった舞台の上は、六畳ほどの広さの板の間である。その舞台の下に置いていた腰掛けに座りなおし、須能は三味線を片付け始めた。虎太郎は障子を開いて庭の方を眺めたり、練習用に使っているステレオや古いレコードをしげしげと見つめたりと、稽古場の中を自由に見て回っていた。
「あんた、三味線も弾けるんだな」
「ん? まぁね。お弟子さんに稽古つけるとき、たまに僕が弾いたりもするからな」
「そ、そうなんだ。……す、すげぇな。…………か、か、か」
「ん?」
何か物言いたげにしているものだから、須能は三味線を片付ける手を止めて、虎太郎のほうをじっと見上げた。すると虎太郎はさらに怒ったような顔でプイと目をそらしつつ、ぶっきらぼうな口調でこんなことを言う。
「弾いてる時のあんた、すげ……すげえ、かっこよかった」
「……へっ?」
「お……俺は音楽なんて全然できねーし! ガキの頃に習わされてたピアノも全然うまくなんなくて辞めちゃったくちだから。……なんていうか、ほんと、すげぇなって……」
そう言って、虎太郎はふいと須能に背を向けてしまった。最初は虎太郎が何を言いたいのかよく分からなかったが、その広い背中を見上げているうち、どきどきと鼓動が高まっていく。
これまで、須能を口説こうと迫って来たアルファ達から、聞こえのいい甘い言葉を贈られたことは何度もあった。しかし、こんなにも尖った口調と表情を向けられながら、不器用に褒め言葉を贈られたのは初めてのことだ。
言葉を飾るということをまだまだ知らない純粋な虎太郎の姿に、胸の奥が、きゅんと疼く。
須能は着流しにした深みどり色の着物の胸を、そっと押さえた。
「あ……ありがとう」
「……」
やや震える指先で、使い込まれた黒皮のケースに三味線を仕舞い込み、蓋を閉じる。そして改めて虎太郎を見上げると、虎太郎はちょっと頬を赤らめたまま、またぷいと目線をそらしてしまった。その反応が初々しくて愛らしく、須能はくすりと笑ってしまった。
「な、なんだよ」
「ううん。……ほんまに、僕のボディガードに来てくれはったん?」
「そうだよ。ていうか、こんなところで一人でこもったりして、不用心すぎんだろ」
「んー……でも、隣の部屋には有栖川がおるし、ここはお弟子さんの出入りも多いからなぁ」
「じゃあ、逆に言えば、誰でもあんたの私物を持っていけるってことだな」
「まぁ、そうなるわな。……じゃあやっぱり、ストーカーは僕の近くにいる人間てことで、間違い無いんやろうな……」
須能に不審な封書が届き始めたのは、ここ最近のことだ。しかし、新しく入った弟子の顔を思い浮かべてみても、そんなことをしそうな人物は思い当たらない。弟子だけではなく、京都の稽古場には衣装を取り扱う業者も出入りするし、音楽を担当する地方(じかた)の出入りも多い。
だが、その全ての人々との付き合いは長く、人によっては先代の頃から懇意にしているものもいる。顔見知り以上の信頼関係で結ばれている——少なくとも須能はそう思っている——人間たちを疑いの目で見ることは、なかなかどうして気が滅入ることである。須能は目を伏せてため息をつき、三味線のケースを床に置いた。
すると、虎太郎が須能のそばへ歩み寄り、すっと大きな手を差し伸べた。
年下のものとは思えないくらい、男らしく厚みのある手のひらだ。たなごころが広く、長い指。薬指と小指の付け根に見えるのは、竹刀だこだろうか。すでに硬くなり、皮膚の一部となっているそれは、虎太郎が真摯に剣道に向き合って来た証のように思え、とても好ましく思えた。
「……大きい手ぇやな」
「えっ?」
「あっ……あ、いや。なんでもあらへん。ど、どないしたん?」
「ええと……庭とかさ、案内してよ。そうすりゃ、ちょっとは気分も晴れんじゃねーの?」
「あ……」
「べ、別に、俺が見たいだけだけどな!! すげぇ広い庭だから、珍しいっていうか!」
「う、うん、ええよ」
おずおずと手を伸ばし、やがて虎太郎の指に指先が触れた。肌と肌が触れ合う瞬間、虎太郎はぴくりと指を揺らしたけれど、ためらいがちな須能を手繰り寄せるように、すぐにぎゅっとその手を握りしめる。
虎太郎に握り込まれた自分の白い手を見ていると、大きなものにしっかりと抱かれている安心感のようなものを、ふと感じた。虎太郎の手は少し熱くて、ほんのりと汗を含んだ指の感触がみずみずしく、そしてとても、力強かった。
「……きれいな手だな」
「っ……」
「こんな小さな手で、あんたは……」
須能の手を撫でる指先の熱さと、まっすぐな眼差しが須能を射抜く。
不意に大きく高鳴る拍動が、須能の本能を激しく揺さぶった。
――あ、あかん……落ち着かなあかんで、僕……。
虎太郎にとって、須能は単に、初めて目の当たりにしたオメガにすぎない。虎太郎は若く、オメガフェロモンに耐性がないのだ。彼が須能に興味を持っている理由は、きっとそういう類のものだろう……と、須能の理性はそう囁く。
だが同時に、美しく逞しいアルファの少年に、須能の本能が惹かれているということもまた事実だ。虎太郎は良家の子息らしく紳士的で、不器用だがとても優しい男である。こんなにも素晴らしいアルファに関心を抱かれて、不愉快なわけがない。
願わくば、この逞しい肉体にしなだれかかり、甘い言葉を囁き合ってみたい。虎太郎だけのオメガになりたい、深く深く、愛してもらえたならば、どんなにか幸せだろう……。須能の本能は、そういう夢物語を望んでいる。
しかしきっとこの先、虎太郎には、良家のオメガとの縁談が山のように持ち込まれることだろう。優秀かつ硬派な高校生である虎太郎の相手に、芸能の世界に身を置く自分が相応しいとは思えない。
須能はぎゅっと唇を引き結び、ぎこちない笑みを浮かべて、虎太郎を見上げた。
「と、年上に向かって、小さいとか言わんといて欲しいもんやな」
「……あ、あぁ、うん。てか、小さいもんは小さいんだから、しょーがねーじゃん」
「君がちょっとでかすぎるんと違う? 最近の子ぉは発育がいいんやね」
そんな須能の台詞に、虎太郎はかすかに眉を寄せた。明らかな子ども扱いを、きっとひどく不愉快に感じたことだろうが、それくらいでちょうどいいのだと須能は思った。
しかし虎太郎は何を言うでもなく、立ち上がろうとする須能の手を頼もしく引っ張り上げる。そして少し距離の縮まった須能の目をじっと覗き込みながら、こんなことを言った。
「そーだよ。発育良くて、あんたよりもずっとでかい」
「えっ? う、うん、せやな……」
「あんたは確かに年上だ。それに、なんかすげぇ流派の家元で、有名人で、いろいろプライドとかあんだろうけど」
「……うん?」
虎太郎の言わんとすることがよく分からず、須能は虎太郎を見上げたまま小首を傾げた。虎太郎はあいも変わらず怒ったような顔で、ぎゅっと須能の手をもう一度握り直す。
「俺は、あんたが世間でどういう顔してんのか知らねーよ。だからさ、怪我してストーカーに狙われてへこんでる時くらい、俺みたいのに寄っかかってもいいんじゃねーの?」
「……え」
虎太郎のまっすぐな視線が、眩しい。
どきどきと高鳴る鼓動に合わせて、須能の熱も高まっていくような気がした。
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