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9、飾らない言葉

 その次の日から四日の間、虎太郎は毎日のように須能のもとを訪れた。  最初は緊張のせいか、言葉少なであった虎太郎も、この四日間に少しずつ寛げるようになってきたらしい。  二人で庭を散歩をすることもあれば、須能が書き仕事をしている間、虎太郎は参考書を開いていたり……など、互いを意識しつつも、同じ空間で時間を過ごすこともあった。  そういう時間は、思いのほか居心地が良かった。  二人きりで部屋の中にいても、虎太郎は須能に何をしてくるでもなく、何を求めるでもなく、ただただ自然にそばにいてくれる。いやらしく迫ってきたり、薬を盛ってまで須能を我が物にしようとする卑しいアルファもいたというのに、虎太郎はどこまでも清廉で、純粋だった。同じアルファでも、まるで違う生き物のように思えたものである。  そして夕飯時には律儀に帰っていく虎太郎を見送るたび、あたたかなものが胸の中に育っていく。    明日も会いたい。  明日もそばにいて欲しい……そういう想いが大きくなりつつある自分の心に、須能は敢えて気づかぬふりをしていた。  そしてその日は、須能は松葉杖を使わず、虎太郎の腕を支えにしながら庭を歩いていた。  関東の稽古場は緑が多く、土塀に囲まれた広々とした庭園の中は、さながら高級な料亭や旅館のような趣である。ここに人を招いて宴席を設けることもあるため、いつでも美しく整えられているのだ。  砂利の敷かれた小径や、あおあおとした苔の瑞々しい築山、鯉の泳ぐ広い池。虎太郎は須能に腕を貸しながら、興味深そうに辺りを見回している。盛夏とは思えぬ涼しい風が、さわさわと笹の葉をそよがせる中、須能はそっと虎太郎の横顔を盗み見る。  ――見れば見るほど、華のある顔やなぁ……。社交界へ出たら、絶対に周りがほっとかへんやろうに。今もほっとかれてへんのかもしれんけど……。 「なに?」 「えっ!? い、いや……何でもあらへんよ。今日も制服やけど、夏休みやのに学校やったん?」 「あぁ、うん……ちょっとな。担任に質問したいことがあって」 「へぇ、えらいなぁ。受験生やもんね」 「いや……大学は、もう推薦で決まってる」 「え? そうやったん? どこいかはんの?」 「フォートワース学園大。蓮さまが卒業された大学だ。葵さまは休学されてるらしいけど」 「へぇ、すごいやん! 君、頭もいいんやなぁ」 「まぁ……一応な。剣道の試合でいい成績も残せたし、ガキの頃から、勉強のことは親父がうるさかったから」  虎太郎は頬を赤らめて、またぶっきらぼうな口調でそう言った。  フォートワース学園は、全国きっての名門校で、幼稚舎から大学までエスカレーター式だ。虎太郎は外部の高校から大学に合格したということになるため、かなりの学業成績が求められたことだろう。父親の新藤氏も、さぞかし鼻が高かろうと須能は思った。  ――しかし、関東か……。 と、須能は虎太郎の進学を喜ばしく思うと同時に、一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。 「あんたは、学校とか行ってたの? なんか浮世離れしてる感じするけど……」 「はは、よう言われるわ。僕も、高校まではちゃんと出たで。成績はそんなにやったけど」 「そうなんだ。へぇ……」 「君を見てると、詰襟を着とった頃が懐かしくなるわ」 「詰襟? 学ランってこと?」 「そうやで」 「学ラン……」  虎太郎はそう呟いて、しばし須能のことをじっと見下ろしていた。須能が小首を傾げると、虎太郎はまたぷいと目をそらし、池にかかった赤い橋の方へと須能を誘う。 「その頃からずっと、日舞やってたんだ」 「まぁね。物心ついた時には、もう舞台に立ってたし」 「へぇ……すげぇな」 「君は? お父さんの跡を継いで、政治家になるん?」 「いや、俺はならねーよ。親父の地盤は兄貴が継ぐから、俺は自分のやりたいことやっていーんだとさ」 「へぇ、よろしいやん。何になりたいん?」 「建築士」 「へぇ……、建築士か。かっこええなぁ」 「なんかさ、バーンとでけぇもん作りたいんだよな。それこそ、歴史に名前が残るくらい、すげぇやつ」 「ばーんとでけぇもんって……ふふっ」 「な、何笑ってんだよ!」 「ううん、素敵な夢やなと思て」 「……」  虎太郎はどことなく気恥ずかしげな横顔のまま、池の中を泳ぐ鯉を見下ろしている。  数ある可能性の中から、自分の進むべき道を選び取る虎太郎の姿が、須能の目にはあまりにも眩しく思えた。須能の前には、常に一本の道しか存在しなかったからだ。  選ぶまでもなく貫き通してきたこの道に、もちろん後悔などは存在しない。幼い頃から踊ることが好きだったし、自分に才能があることも、幼い頃から理解していた。  だからこそ、自分の意思で人生を決める虎太郎のことを、とても頼もしく感じる。  須能は無意識のうちに、虎太郎の芯の強そうな大きな目をじっと見つめていた。  無言で自分を見上げている須能の視線に気づき、虎太郎はぽっと頬を赤くする。そして怒ったような口調でこう言った。 「な、何だよ。俺なんかへんなこと言ったか?」 「ううん……若いってええなぁ、て思ってな」 「はぁ? 何言ってんだよ、あんたも十分若いじゃん」 「まぁ……そうかもしれへんけど」  年齢だけを見るならば、須能はまだ二十三だ。世間的に見ても、当然若者の部類に入る。しかし、オメガの踊り手として舞台に立ち、家元を継ぎ、若輩でありながらも弟子を取るようになってからこっち、須能はあまりにも色々なものをその目で見てきた。見たくないものも、たくさんあった。  これまで育った環境やそういう経験のせいか、須能には一般的な若さというものがどういうものかよく分からない。だからこそ、余計に虎太郎のまっすぐさが眩しく、心を惹かれるのだろう。 「今みたいに和服だと、ちょっと年上っぽく見えるけどな。最初に会った時は、同い年くらいに見えたけど」 「そうやろうか。最初……あぁ」  最初に虎太郎と出会ったときというと、須能が何者かに襲われかけた瞬間のことだ。その時のことを思い出し、須能は無意識のうちに表情を強張らせていたらしい。すると虎太郎は、慌てたようにこう言った。 「あっ……悪い……! 思い出させるようなこと言って」 「いや……大丈夫やで」 「大丈夫じゃねぇだろ。ごめんな」 「い、いいよ、そんなん……」  気遣わしげな表情で須能の顔を覗き込む虎太郎と、間近に目が合う。こんなふうに優しく接せられてしまうと、須能のほうもどうしていいか分からなくなるのだ。  赤い橋の上、青空と笹の葉を背にした虎太郎の姿が、妙に須能の胸に迫って来る。  凛々しい瞳はあまりにも美しい。その視線に射抜かれてしまうだけで、須能の本能はざわざわと激しく騒ぎ立てるのだ。須能はなんだか急に落ち着かない気分になり、虎太郎の眼差しから逃げるように目を伏せた。 「大丈夫やから、な。そんな顔せんといてくれへんかな。ああいうの、初めてじゃないし……」 「初めてじゃない? え? なんだよそれ……」  虎太郎の表情がより一層険しいものに変化する。これは失言であったと後悔する間も無く、虎太郎はぐっと須能の肩を掴み、じっと顔を覗き込んできた。 「どういうことだよ」  さらに語気を強めて問いかけられ、須能は諦めたように肩をすくめた。 「いやまぁ……。僕はオメガやからな。アルファを誘ってまうのはどうしようもないことや。しかも僕は、舞台に立って舞を披露する芸人やし、色々と……あんねん。あ、でも、最後までされたことはないで。せやし、頼むからそんな顔せんといてよ」 「……最後までって……そういう問題じゃねぇだろ」 「まぁ……そうやねんけど。僕らのひと世代前なんかは、もっとひどい事件も結構あったらしいからなぁ。今は時代が変わって、だいぶマシになったと思うねん」 「でも……!」 「こう見えて、僕はそこそこ武道も嗜んでる。自分の身ぃは自分で守るためや。せやからほら、今回だって何とかなったやろ」  須能はそう言って、虎太郎に笑いかけた。しかし虎太郎の表情は険しいままで、むしろさっきよりも怖い顔になっている。今、手で触れている虎太郎の素肌も、かすかに震えているようだ。須能は、戸惑いながら虎太郎の顔を見つめることしかできなかった。  すると虎太郎は、腕に触れている須能の手に、そっと自分の手を重ねた。 「……俺が……」 「……ん?」 「俺がもっと、大人なら」 「え?」  虎太郎の声は、何かを抑え込んでいるかのように、低く重い。精悍な瞳に悔しげな色を浮かべて、虎太郎はこう言った。 「俺が、親父みたいに権力のある大人なら……すぐにでもあんたを番にして、そんなやつら、追い払ってやるのに」 「えっ……」  ――つ、番……?   虎太郎が言い放ったその言葉に、須能の胸が激しく高鳴った。須能の動揺に気づく様子もなく、虎太郎は悔しげに唇を引き結び、池の方へ目線を落とす。 「だってそうだろ。影響力のある強いアルファがあんたの番なら、そんなふざけた奴ら寄ってこねぇだろ」 「……ま、まぁ……そうかもしれへんけど」 「くそっ……」 「ちょ……ちょお待ってや。君は……何を言って」 「え? ……あっ……!」  虎太郎は、つい今しがた自分が言い放った台詞の意味に、ようやく気がついたらしい。かぁぁぁと分かりやすく顔が真っ赤に茹で上がり、じわりと肌が熱くなる。  虎太郎が自分に関心を抱いていることには気づいていたものの、まさか『番にしたい』とまで言われるとは思ってもみなかった。須能のほうも負けず劣らず真っ赤になって、指先が震えてしまう。  ――お、落ち着け……浮かれるな。僕は大人や。こういうときは、僕がちゃんとしなあかんやろ……。  須能は密やかに深呼吸して、舞台で磨き上げて来た艶のある表情を浮かべようと、顔を引き締めた。  そして真っ赤になって池を見下ろしている虎太郎の腕をぽんぽんと軽く叩きながら、笑みを浮かべてこう諭す。 「……君は、まだ若いアルファや。僕のようなオメガと出会うんも、初めてやったんやろ?」 「……そうだけど」 「慣れへんオメガフェロモンに煽られて、うっかりそういう気持ちになってまうこともあるやろし、」 「……ちょっと待てよ」  須能の言葉を、虎太郎が低い声で遮った。  そしていつになく本気で怒ったような目つきで、じっと須能を見つめている。 「俺は……そんなんじゃない」 「……で、でも、君はまだ高校生で」 「年なんか関係ねーだろ!」 「……あっ」  虎太郎の右手が、須能の腰に回った。  ぐいと力強く引き寄せられ、身体と身体が密着し、吐息を感じるほどに虎太郎との距離が近くなる。若く逞しい肉体と熱い体温を否応なく感じさせられ、須能は思わず息を飲んだ。  腰に回された大きな手。虎太郎に抱き寄せられた己の身体が、急に頼りないものに思えてくる。  まだ若い、まだ高校生だ、まだ子どもだ……と虎太郎との距離を保とうと頑張って来たけれど、須能を包み込む身体は頼もしく、芳しく香るアルファフェロモンには、紛れもなく雄の気配がした。 「……俺は、本気だよ」 「ほ……本気いうても、まだ出会って三日四日のもんやし……」 「時間なんて関係ねぇよ! 俺は……初めてあんたを見た時から、ずっと……ずっと」  その次の瞬間には、虎太郎に全身を強く強く抱き締められていた。  肩口に顔を埋めていると、どくん、どくん、と早鐘を打つ虎太郎の拍動が、すぐそばで聴こえた。  その鼓動があまりにも愛おしく、胸がぎゅっと締め付けられるように甘く疼いてしまう。 「虎太郎く……」 「……あんたが好きだ」 「っ……」 「あんた以外のオメガはいらない。あんたのことを、誰にも触らせたくない。あんたを……俺だけのものにしたい」 「え……?」 「好きだ。……好きなんだ」 「……」  何も飾らない愛の言葉に、須能の全身が甘く痺れた。  まっすぐ心を射抜かれて、どんな言葉も返せなかった。  須能は震える腕を持ち上げて、虎太郎の背中に手を回し、ぎゅっと制服のシャツを掴む。  

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