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10、弱い心
ずっとこうしていたかった。
このままずっと、虎太郎のぬくもりに甘えていたかった。
――でも……これ以上は……!
須能はぎゅっと、虎太郎のシャツを握る手に力を込めた。そしてそのまま、ぐいと虎太郎から身体を離し、腕を突っ張って距離を取る。
そして目を伏せたまま無理矢理に笑みを浮かべ、ふらつく身体を欄干にもたせかけた。
「……こ……これ以上、僕を困らせんといてくれへんかな」
「え……?」
「だから……何度も言うてるやん。君は、オメガに慣れてへんだけやねん。たまたま出会った僕みたいので、手を打とうとしたらあかんよ」
「手を打つって……何だよそれ。そんなんじゃねぇよ! 俺は……」
「もう、ボディガードごっこはおしまいにしよ」
「……」
虎太郎が息を飲む音が聞こえてくる。その表情を見るのが怖くて、須能は足元に目線を落としたままである。
なのに、己の意思とは裏腹に、口は勝手に動いて言葉をつなぐ。
「君は大物政治家の二世で、優秀なアルファ。もっともっと、新藤家に相応しいオメガはたくさんおる。僕は……あっちこっちで愛想振りまいてる芸人や。色んなところで口さがないことを言われることも、ぎょうさんある。君のような若いアルファが僕みたいなんと一緒におったら、今後色々苦労するに決まってる。お父さんにも迷惑がかかったりしたら、嫌やろ?」
「……待てよ」
「ええか。君は新藤貫太郎氏の息子さんや。大事な大事なお得意様のご子息やから、この数日、相手しとっただけやて言うてんねん。……分かったらもう帰り。もうここへは来たら、」
「待てって言ってんだよ……!」
ぐい、と荒々しく腕を掴まれる。
とうとう怒らせてしまったのだろう。
それならそれで、思惑通りだ。
自分などに執心する必要はない、虎太郎は、虎太郎に相応しい道を歩くのがいい。
諦観と安堵に支配され、身体に力が入らない。
ただただうつむき目を伏せている須能に向かって、虎太郎はこう言った。
「俺を見ろ」
「……え?」
「いいから、こっち見ろって言ってんだよ」
強引な口調に操られるように、須能は恐る恐る、顔を上げた。
そしてゆっくりと目線を持ち上げ、虎太郎と目線を交じらせる。
――あぁ……。
虎太郎は怒ってなどいなかった。
ただただひたむきで真摯な目線を、じっと須能に向けているだけだった。
いつしか傾きかけた太陽を背にした虎太郎の姿は、全身を囚われてしまいそうになるほど美しい。そして、どう足掻いても、その眼差しを愛おしいと感じてしまう。力強い双眸に、惹きつけられる。
「俺の目を見て、さっきの台詞が言えんのかよ」
「っ……」
「言えるなら、言ってよ。それなら俺は、きっぱりあんたを諦めるから」
「……」
――言えるわけ、ない。
言えるわけがない。
たったの数日で、虎太郎の存在をこんなにも大切に思うようになってしまった。大切だからこそ、自分には相応しくないと思ってしまうのだ。
これから虎太郎が歩む未来は眩しい。
その輝かしい世界の中、自分のようなものが虎太郎の隣にいていいのだろうかと、迷わずにはいられないのだ。
虎太郎のような優秀なアルファを、求めてきたはずだった。祖母から刷り込まれた呪縛に支配され、須能流の有能な血を後世に残すため、より優れたアルファと番わねばならないと思っていた。しかし、須能の前に現れるアルファは、誰も彼もが須能を軽んじた。誰も、須能を『須能正巳』として見てはくれなかった。
今となっては関係が回復しているものの、盲目であった頃の葵も、その態度は同じだった。
葵は、須能が初めて自ら求めたアルファ。しかし葵は頑なな態度で、押し付けのパートナー候補であった須能を拒み、結糸というオメガをその手にした。
結糸への嫉妬に狂い、白い肌に牙を立てたあの日のことを、須能はふと思い出す。あの時感じた悋気の正体は、今となってもよく分からない。ただ一つ言えるのは、ようやく手に入りかけた安息の場を、結糸に奪われたことへの激しい動揺であったように思う。
番にはなれなくとも、この世界で絶対的な力を誇る『国城家』と繋がるオメガでいられれば、もう他のアルファに媚を売らなくてもいい。軽んじられる存在ではなくなるに違いない――葵への恋心の陰で、きっと自分はそんなことを考えていたのだろう、と須能は思った。
――そうや……僕は自分に、自信がない。プライドだけが、みにくく肥え太っているだけ……。
だからこそ、虎太郎を貶めたくない。虎太郎に、こんなにも弱い心を知られたくない。
だからそばにいられない。幻滅されるのが怖いから――
「……どうなんだよ」
穏やかな声で問いかけられ、指の背で頬を撫でられる。そうして触れられて初めて、自分が涙を流していたのだと気がついた。須能はとっさに顔を伏せようとしたが、そっと頬を手のひらで包み込まれる。
「……言えねーんだろ」
「……っ……僕は」
「どうして、自分をけなすようなことばっか言うんだよ」
「え……?」
「あんたはすげぇよ。……最初に会った時から思ってた。自分はあんなひどい目に遭ってんのに、俺の家族のことを優先してくれただろ」
「……あ、あれは……仕事、やったから」
「その若さで家元やって、たくさんの弟子に慕われて……」
「だから僕は……!! 君が思うようなすごい人間と違うんや……!! 何回言うたら分かんねん!!」
苦しくて、悲しくて、須能は無意識のうちに声を荒げていた。しかし虎太郎は怯む様子もなく、静かな瞳で須能のことを見つめている。
「なんで……そんなにも、僕を……」
「そういうあんただから……守ってやりたいって思ったんだ」
「……え?」
「ひどい目に遭っても、怖がることさえ許されない。『須能流の家元』っていう表の顔を頑なに守って、こんなに細い身体で必死に何かと戦って、いつだって張り詰めてる。……でも本当は、そんなことばっかしてたいわけじゃねーんだろ?」
虎太郎は須能の正面に立ち、濡れた頬を親指でぐいと拭った。
そしてふっと目を細め、優しく須能に微笑みかける。
虎太郎が見せる初めての笑顔に、須能はちょっと目を見開く。柔らかく微笑む虎太郎の表情は、今までになく大人びて見え、胸が苦しくなるほどに優しかった。
「まだ高校も出てねーガキが何言ってんだって思うかもしれねーけど……。俺は、そういうあんただから、そばにいたいって思ったんだ。一番近くで、守ってやれたらいいのにって」
「……僕の、そばに……」
「そうだよ。……好きだから、守りたい。それだけだ」
そう言って、虎太郎はもう一度、須能をふわりと抱き寄せた。よろめく須能をしっかりと抱きとめ、全身を優しく包み込む虎太郎の腕の頼もしさに触れ、須能の目からどっと涙が溢れ出す。
「ぅっ……ぅ……生意気な、ことばっか……」
「そーだな……生意気だよな」
「まだ、高校生のくせに……っ……僕の何をっ……分かって……っ……」
「そりゃ、まだ全部は分かんねぇよ。だからもっともっと、知りたいんだ。あんたのこと、全部」
「あほなことばっか……言うて……ほんまに、きみは……っ……」
「ははっ、アホとか初めて言われたわ」
「笑 てる場合とちゃうやろ!! ……ほんま、なんやねん君……っ……」
「なんやねんて言われてもな」
涙声でまくし立てる須能を抱きしめる虎太郎の声は、どこか楽しげだった。
白い制服のシャツに熱い涙を受け止めてもらうたび、虎太郎の言葉が、須能の胸に染み込んでゆく。須能を宥めるように背中を撫でる大きな手が、あたたかくて心地がいい。須能はしばらくそのまま虎太郎に身を委ね、嗚咽が治るまでじっとしていた。
「ほっといても……ぎょうさんオメガが寄ってくるやろに……。ほんま、あとで後悔しても知らんで」
「後悔なんてするわけね…………え? ってことは……俺とのこと」
「……」
須能はぐすんと鼻をすすり、少し緩んだ虎太郎の腕の中で顔を上げた。久しぶりに本気で泣いたせいでひどい顔をしているだろうが、今はもう、そんなことはどうでもいいような気がした。
大きな目をくるりとして返事を待っている虎太郎の表情がことさら愛らしく、須能は泣き腫らした目を指先で拭いつつ、ちょっと笑った。
「……僕の負けやな」
「えっ……!? マジで……?」
「で、でも……いきなり番うとか、そ、そんなん無理やから……」
「わ、分かってるよ! でも、ほんとに……? マジでいいの?」
「え……ええよ」
「うわ……マジか……! はぁ……すげぇ、マジで、すげぇ嬉しい……!」
虎太郎は感無量といった様子で大きなため息をつき、その後すぐにぎゅうっと須能を抱きしめた。それこそ息が止まりそうになる程きつくきつく抱きしめられ、つま先立ちになってしまう。
「ちょ……痛い、痛いって……足、まだ痛いから」
「あっ! わ、悪い! 大丈夫か!?」
「……大丈夫やけど。……君、ほんま力強いな」
「まぁね。アルファだし、発育いいから」
「さよか……」
「足痛むんなら、早く稽古場に戻ろう」
「うん……」
差し伸べられる虎太郎の手に、須能はおずおずと手を伸ばした。この場所へ来るまでずっと支えてもらっていた腕なのに、改めてその手に触れることが妙に気恥ずかしく感じられ、なんとなく躊躇ってしまうのだ。
するとまた、虎太郎にぐいと引き寄せられる。虎太郎は白い歯を見せて爽やかに笑いながら、須能の手をとって歩き出した。
「あんたってさ、なんていうかほんと……」
「あのなぁ、あんたあんたって、僕にはれっきとした正巳いう名前があんねんけど」
「正巳……って、呼んでいいの」
「え、ええよ」
「うわ……そっか。いいんだ」
「……須能さんでもええけど」
「え? 正巳のほうがいいよ。正巳って呼ぶ」
「……さよか」
――な、なんやろう、この感じ……。ええんかな、こんなにふわふわしてて……。
だいぶ日が落ちて、影が濃くなった庭園を虎太郎と歩きながら、須能はふとそんなことを思った。自分にこんな素晴らしい僥倖が訪れるなんて……と。
――夢オチやったらどうしよう。……僕、こんな気分初めてやから、怖くなるわ……。
と、そんなことを考えた矢先、ぞくりと背筋が寒くなった。
ちりちりと焦げ付くような、あの視線を感じたのだ。
須能はその場に凍りついたように立ち止まり、ざわざわと不穏にざわめく竹林や、遠くに明かりを灯す稽古場の方を見回した。
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