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11、視線の正体
「ん? どうしたんだ?」
「……いや……何か……」
ここは幼い頃より慣れ親しんだ、自分の家のような場所だ。なのに、あの目線を感じる。しかも、いつもよりずっと近くに。
――稽古場には、有栖川や護衛もおる。すぐに戻れば……。
「行こう……戻ろう」
「どうしたんだよ。顔色、悪ぃぞ」
「ええから、早く……!!」
虎太郎の腕を引いて一歩二歩と歩き出したその時、庭園の池にかかる橋のたもとに、すっと黒い影が現れた。
息が止まるほどに驚いた。しかしそこにいたのは、黒いスーツとサングラスに身を包んだ、護衛官の男であった。須能は思わず安堵のため息を吐きかけたが、ふと、妙な違和感のようなものを感じた。
通常ならば、外出時以外、護衛官が須能のそばへ近寄ることはない。外出の予定もなく、今夜は完全にプライベートな時間である。なのに今、こんな時間に、なぜこの男はここにいるのか。
その男の顔は、以前から何度も見たことがある。須能が家元を継いだ頃から、護衛に就いていた男の一人だったはずだ。契約している警備会社からここへ出向している護衛官であり、性別はベータ。三十代後半、独身。家柄も素性も調査済みだ。
言葉を交わしたことはほとんどない。あるとすれば、リムジンでの移動時に、行き先を告げるくらいのことだろう。そんな男が、なぜこんなところに……。
「……何だよ、あんた」
その場に佇み、微動だにしないその男の態度を訝しんだのだろう。虎太郎はすっと須能の前に立ち、剣呑な声を投げつけた。須能はそんな虎太郎の背中に手を触れつつ、「ちょっと、待ち」と声をかけた。そして改めて自分が虎太郎の前に立つ。
「僕に何か、用事でもあるんか」
「……お困りのようですね、須能様」
男は低い声でそう言うと、すっとサングラスを外した。
その瞬間流れ出すのは、どろりと濁った粘着質な空気。須能の全身がざわりと粟立ち、背筋がぞっと凍りつく。
小ぶりな双眸は切れ長で、いかつく四角い顔の中、ぎらぎらと不気味な光を湛えている。男は不気味なまでに無表情だが、眼つきだけは別の生き物のように雄弁だ。蛇のような視線が須能の全身を這い回るその感覚は、空港やパーティ会場で感じたそれと全く同じだった。
「な……何で……」
須能の声が震えていることに気づき、虎太郎の表情ががらりと変わった。咄嗟に須能を背に庇う虎太郎の白いシャツが、妙に明るく浮き上がって見える。
「そんな男に付きまとわれて、さぞやお困りでしょう。すぐに私が追い払って差し上げますよ」
地を這う様な低い声でそんなことを言い、護衛官は一歩一歩ふたりのほうへ近づいてきた。虎太郎は須能を背後にかばいながら、じり、じりとゆっくりと後退する。
護衛官はベータ男性でありながらも、虎太郎よりもずっと大柄な男だ。もしこの男が乱暴な手段を行使するならば、須能も虎太郎も無事では済まないだろう。
こんな場面に虎太郎を巻き込んでしまったことが申し訳なくてたまらず、須能は恐怖に震えながらも、どうにかしてこの場を穏便に抑えられないものかと必死に考えていた。
しかし須能が動く前に、虎太郎は怒りを滲ませた声で、護衛官に向かってこう尋ねた。
「あんた、ずっと俺らのこと見てたのか?」
「……ええ、見ていましたよ。須能様をお守りすることが、私の使命ですから」
「使命だと? 笑わせんじゃねーか。雇い主をストーキングすることが、てめぇの使命なのか?」
「ストーキング? ……ふふっ……。面白いことを言いますね」
護衛官はそう言って、ニタリと不気味に笑った。そしてゆっくりと内ポケットの中に手を差し込み、懐からバタフライナイフを取り出した。
軽妙な動きで鋭い刃を露出させた男の手に、ぎらりと生々しく光るものが握られる。須能は思わず目を見開いた。須能を庇う虎太郎の身体にも、緊張が走っているようすが伝わってくる。
「……へぇ、なるほどな。てめぇがストーカーだったってことか」
「虎太郎くん……! あかん、早う逃げ!!」
「俺の前に出るな!!」
虎太郎をその場から逃がそうとしたが、鋭い声で制止された。須能を背に庇ったまま、虎太郎は少しずつ後退を続けている。しかし、橋の反対側は中島 だ。池の真ん中に浮かぶ小さな島に渡ったところで、そこからどう逃げろというのか。
護衛官は尚もいやしい笑みを浮かべつつ、のんびりとした足取りで近づいてくる。
「……なるほどね、君はアルファですか。羨ましいですねぇ、アルファってだけで、こんなにも美しいオメガをあっさり手に入れることができるなんて」
「その口ぶりでいうと、あんたはベータか」
「そうですよ。ベータってのはね、いつだって蚊帳の外なんです。手の届くところに妖艶なオメガがいても、指をくわえて見ていることしかできない。初めてお会いした頃から、須能様はとても美しく色香に溢れ、私は一瞬で恋に落ちてしまいました。でもその頃のあなたは、国城葵のパートナー候補だった。さすがに手を出すことはできない……と、ずっとずっと、抱きしめたい衝動を堪え続けていたんです」
日が翳り、あたりは暗闇に沈み始めた。自動的に点灯する水銀燈が、ぽう、ぽうと庭のそこここに淡い光をともす。その光が、護衛官の握るバタフライナイフの刃に反射するたび、須能の気持ちは焦るばかりだった。
虎太郎を、何とかこの場から遠ざけたい。ストーカーへの恐怖よりも、その気持ちばかりが須能を逸らせた。いくら虎太郎が武道を嗜んでいるとはいえ、刃物を持った護衛官に敵うわけがない。それに虎太郎はまだ高校生だ。こんな事件に巻き込んで、もし万が一怪我でも負わせてしまったら、その人生をどう贖えばいいというのか。
すると護衛官は首を伸ばして、虎太郎の後ろにいる須能をじっと見つめてきた。びくっと身体を震わせると、護衛官はまたぞろ賤しい笑みを浮かべた。
「でも、あなたが国城葵のパートナー候補ではなくなったと聞いて……あぁ、もう、私があなたを守っていくしかないと思ったんですよ。でも、あなたはどこへ行ってもアルファを惹きつけて、私が近づく隙を与えてはくれませんでした。だから、陰ながら、あなたに私の気持ちをお伝えすることにしたんです……ふふ……私はあなたのそばにいる。いつでもあなたを見守っている、私だけはあなたの味方だ……ってね」
「気持ち……? 僕の私物盗んだり、白紙の手紙や、髪の毛貼り付けて送ってきたんも……」
「そうですよ。あなたはおっしゃってたじゃないですか。『言葉にできないほどの想いがあるからこんなものを送ってくるんや』って。その通りですよ……! あなたは本当に、優しいお方ですねぇ」
「っ……ふざけた真似しよって……。そしたら、新藤家のパーティの時に僕を襲ったんは……」
「あぁ……あの日のことですか」
護衛官はうっとりとした表情を浮かべつつ、両腕を大きく広げ、ぎゅっと自分を抱きしめた。そして恍惚とした声色で、こんなことを言った。
「気づいていたんですよね? 私があの手紙の送り主だって。だからああして一人になって、私のことを誘ったんでしょう?」
「……はぁ?」
「すぐに分かりましたよ。運転している私のことを、チラチラ見ていましたよね? それはその合図だったんでしょう? 『一人になる時間を作るから、僕を抱きに来て欲しい』……そういうことだったんでしょう?」
「……な、何を言ってるんや、あんた……」
「嬉しくて、興奮して、ついついちょっと手荒なことをしてしまいましたけど、あなたも燃えたでしょう? あんなにも甘い匂いを振りまいて、一人きりで舞台で舞って……早く抱いてと言われているようにしか見えなくて、あぁ……本当に……あなたって人は素直じゃない」
勝手な思い込みを陶然と語る護衛官の存在が、おぞましくておぞましくてたまらない。
これまで須能が感じて来た不安や、あの日舞台で襲われた時の恐怖と激しい嫌悪感を、まざまざと思い出す。そして同時に感じるのは、感じたことのない激しい怒りだった。
護衛役の立場を利用して、須能やスタッフを不安に陥れ、須能を襲い、怪我を負わせて舞台を奪い、挙げ句の果てに、虎太郎に向かって刃を向けている。須能はぐっと奥歯を噛み締めて、きつい目つきで護衛官を睨め付けた。
しかし、護衛官はにたにたと嬉しそうな笑みを浮かべるばかりである。
「そんな若造よりも、私の方がずっとあなたを満足させてあげられる。困っているんでしょう? こんなガキに、毎日のようにつきまとわれて、引いていたじゃありませんか? 私の助けを待っていたんですよね? 今だって、そのガキに泣かされていたんでしょう? かわいそうに……さぁ、こっちへいらしてください。私があなたの全てを受け止めて差し上げますから」
護衛官は芝居掛かった口調でそんなことを言いながら、ふわりと両手を広げた。完全に自分の言葉と行動に酔っている様子が、ありありと伝わってくる。
須能の胸の内にぐるぐると黒い感情が渦巻くが、この現状を打破する手立ては一向に見つからない。怒りと苛立ちに拳を小刻みに震わせていると、須能の前に立っていた虎太郎が、一歩動いた。
「あのなぁ、てめぇみてーなクソ野郎に正巳が惚れるわけねぇだろうが。いい加減現実見ろよ、オッサン」
「……な、何だと?」
ストーカーを挑発し始めた虎太郎の台詞に、須能はぎょっとした。しかも、虎太郎は須能を少し振り返り、「絶対にここを動くなよ」と言い置いて、一歩一歩と護衛官の方へと歩を進め始めたではないか。須能は咄嗟に手を伸ばしてシャツを掴もうとしたが、あと少しというところで、虎太郎には手が届かなかった。
「それに、俺らのこと覗いてたんなら分かんだろ。正巳は、この俺を選んだんだ。てめぇは最初 からお呼びじゃねぇんだよ」
「……ふ、ふふ……随分な口をきくじゃないか。お子様は引っ込んでいて欲しいものだがね」
「こいつにしてきた嫌がらせのことも、レイプ未遂のことも、俺はマジで許さねぇ。……あんたのやってきたことは、単なる独りよがりだ。れっきとした犯罪だろ? いい歳して、そんなことも分かんねーのかよ」
「……っ。な……生意気なことを言うんじゃないぞ!! 私が何年、この人をおそばで守って来たか……ッ!!」
「守る? はっ、笑わせんじゃねーよ。てめぇは、コソコソするしか能のねぇストーカーだろうが。文句あんならかかってこいよ。腰抜けのクソ野郎が」
虎太郎が声高にそう言い放った途端、護衛官の目つきがガラリと凶暴なものへ変わった。胡散臭い笑みを笑みを浮かべていた唇もへの字に曲がり、ふるふると唇が震えている。
「この……この……クソガキがぁぁあああ!! アルファだからって……偉そうにしてんじゃねぇぞ!! ぶっ殺してやるぁああ!!」
激昂した護衛官の口調が、粗野なものへと変貌する。ぎらりと光るナイフを振りかざし、護衛官は憎々しげな雄叫びを上げながら虎太郎に躍りかかって来た。
「虎太郎……!!」
やや身を低くして構えを取る虎太郎の背中に駆けよろうとしたが、踏み込んだ途端に足首がずきんと痛み、須能はその場で膝をついてしまった。
男はナイフを突き出し、横薙ぎにし、意味不明な言葉を叫びながら素早い動きで虎太郎に斬りかかる。その鬼気迫る表情を目の当たりにして、須能の全身が恐怖に強張った。
――あんな鋭いナイフで刺されでもしたら……無事ではすまへん……!!
「虎太郎!! あかん!! もうやめ……!!」
須能が思わずそう叫んだその瞬間、虎太郎と護衛官の身体がぶつかり合う。
しばしの静寂の後、仄暗い灯りに照らされた白い砂利の上に、ぽた……ぽたと、鮮血が滴った。
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