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12、父の許し
「大変、申し訳ありませんでした……!!」
救急外来の廊下で、須能は新藤貫太郎に深々と頭を下げた。
一枚壁を隔てた先で、虎太郎が医師の処置を受けている。他の患者たちの会話や子どもの泣き声が廊下にこだまする中、須能はじっと頭を下げ続けていた。
「頭を上げてください、須能さん」
新藤のおっとりとした声とともに、肩に触れる大きな手。厚みのあるその手の温もりは、虎太郎のものとどこか似ているような気がした。その感触を思い出し、須能はぎゅっと目を閉じる。
「僕が、軽率でした。まわりでおかしな事件が起こっていたのですから、当然、虎太郎くんのことは遠ざけておくべきだったのに」
「須能さん……さぁ、もういいですから。頭を上げて、そこに座りましょう」
「……」
新藤に促され、須能はおずおずと顔を上げた。須能の顔を覗き込む新藤の顔立ちは、こうして見ると、虎太郎と瓜二つである。新藤は須能と目が合うと、労わるような表情で柔らかく微笑んだ。その笑い方も、虎太郎ととても似ていた。
「すみません……」
「それにね、息子はそんなにやわじゃありません。大丈夫ですよ」
「でも……」
「私はね、あの子があなたの身を守ったこと、とても誇らしく思います。『愛するオメガを守り抜くこと』、それがアルファの務めなのだと、小さな頃から言い聞かせて来ましたからね」
「……愛するオメガ……」
新藤の言葉に、須能ははっとして顔を上げた。
「……僕のこと、何か聞いていらっしゃるのですか?」
「ええ、まぁ……昨日、話を聞きました。どこまで本気なのやらと、少し様子を見ようと思ってはいたんですが」
「……すみません」
「いやいや……でもまさか、フォートワース学園大への進学をやめるとまで言い出したときは、さすがの私も面食らいましたよ」
「えっ!?」
その情報は初耳だ。須能は目を瞬いて、じっと新藤を見つめた。
新藤はやや照れ臭そうに目をそらし、膝の上で組んだ自らの両手を見下ろしつつ、こう語った。
「国城のご兄弟と同じ大学へ行くのが、あいつの目標のひとつでした。それがようやく叶った矢先のことだったので、もうびっくりしてしまいましてね」
「ど、どういうことです」
「何でも、今すぐにでも番にしたい相手がいるんだ、と。本当はすぐにでも社会へ出たいが、今の自分のままじゃ、満足にその人を守れない。だから京都の大学を受け直し、そこできちんと学びたい……と言い出しまして」
「……京都……って」
「あなたがいるからでしょうね。あいつ、国立大の建築学科をすでに見つけていて、熱心に説得されました」
「そ、そうなんですか……?」
須能はごくりと息を飲み、じっと新藤の反応を見つめていた。新藤はなおも自身の手元を見下ろしたまま、何事かを思案しているような表情を浮かべている。
「そこであなたに伺いたいのは……本当のところ、息子のことをどう思っていらっしゃるのかということです。虎太郎は、ああいう押しの強い性格ですが、本来はとても理性的な性格をした子です。あなたのオメガフェロモンに酔っているだけ、というようには見えなくてね」
「……はぁ」
「虎太郎は、身を呈してあなたを守った。あの子にとっては、本気の恋なんだと思うんです。……でも、それが実るかどうかは、あなたのお気持ち次第ですから」
「……」
新藤の穏やかな声を聞いていると、騒がしく乱れていた心がだんだんと落ち着いてくる。
新藤は、次期総裁とまで噂される大物アルファだが、一介の踊り手である須能に対しても、きちんと礼儀を通そうとしてくれている。虎太郎に傷を負わせるに至った原因を作り出したのは、他ならぬ須能であるというのに……。
――さすがは、虎太郎くんのお父様やなぁ……。
須能は一つ息を吐いて、ゆっくりと話し始めた。
「虎太郎くんは、僕にはもったいないくらいの素晴らしい青年です。彼の気持ちを感じるたび……正直僕は、とても嬉しかった。でも、彼はまだ高校生や。大学生になり、大人になれば、この先もっともっとたくさんの人に出会うでしょう。その中にはきっと、僕よりよっぽど優れたオメガもいてはるかもしれへん。彼の隣を歩くにふさわしいオメガが、もっと他に現れる。せやから、僕はここで身を引いたほうがいい……そう思っていました」
「ふむ……」
「でも、僕は……」
須能は一旦言葉を切り、気を落ちるけるように深呼吸をした。
「それでも僕は、虎太郎くんに惹かれています。お父上のお許しをいただけるのならば、虎太郎くんとの交際を認めていただきたく思います」
「……ほう」
その言葉に、新藤はやや息を飲む。須能はぎゅっと膝の上で拳を握り、こう続けた。
「僕は、彼の優しさに触れて、初めて己の弱さを知りました。これまで僕は、須能流家元としてのプライドを鎧にして生きてきました。脆く弱い心から必死で目をそらして、強い自分を演じていたように思います」
「……」
「でも虎太郎くんは、家元としての僕ではなく、僕自身を見てくれた。僕の弱さに気づいてくれた。この一件で不安定にぐらついていた僕を、力強く支えてくれた。……あの子は若いけれど、本当に頼もしくて、優しくて、嘘がない。……そんな彼に、僕もついつい、甘えてしまってたんやと思います」
「……なるほど。なるほど……」
新藤は言葉短かに相槌を打ちつつ、静かに小さく頷いた。須能は顔を上げ、まっすぐに新藤を見つめながら、こう言った。
「僕は、虎太郎くんを愛おしく思っています。……なのでどうか、僕らのことを、」
「おい……そういうことはまず俺に言えってんだよ」
「えっ」
ぶっきらぼうな声が、少し離れた場所から投げかけられた。須能がばっと素早く顔を上げると、怒ったような顔で頬を赤く染めた虎太郎が、処置室のドアの前に立っている。
右手には白い包帯が分厚く巻かれているものの、虎太郎はまっすぐに自分の足で立ち、普段と変わらぬ調子でそこにいる。須能はすぐさま立ち上がり、虎太郎の方へと駆け寄った。
「虎太郎くん……!! 大丈夫なんか? 怪我……」
「大丈夫に決まってんだろ。二、三針縫っただけだよ」
「そっか……。はぁー……」
「なんだよ。もっと大怪我した方が良かったのか?」
「そんなわけないやろ! ホッとしてるんや僕は!」
「なんで怒ってんだよ」
あの時。
護衛官の男が鋭く突き出したナイフを、虎太郎は逆に奪おうとしたのだという。男がナイフを突き出す瞬間を狙って手首を掴み、そのまま腕を捻りあげようとしたのだが、相手は虎太郎よりも一回り年上の護衛官だ。虎太郎が返し技を使おうとしていることに気づき、そのまま刃で斬り上げようとしたらしい。
その拍子に、虎太郎は手のひらを負傷した。あの鮮血は、虎太郎のものだったのだ。
しかし虎太郎は怯むことなく、怪我をした手で男の手首を掴んだ。そしてそのまま懐に入りこみ、肘で男の鳩尾 を強かに打ったのである。人体急所のひとつを容赦無く突かれ、ストーカーの男はあっさりとその場に倒れ伏したのであった。
その後、騒ぎを聞きつけた弟子と有栖川がその場に駆けつけ、すぐに警察沙汰となった。虎太郎は掌からの出血がひどかったため、すぐに救急車で運ばれることになった。だが須能はその場ですぐに事情聴取となり、あとから病院へと駆けつけたのである。
「……痛かったやろ、あんなにいっぱい血ぃ出して……」
「別に大したことねーし。何年竹刀握り続けてると思ってんだよ」
「せやけど……無茶しすぎやねん! 刃物持ってる男を挑発するとか……! ほんまに、生きた心地がせぇへんかったわ」
「だって、ムカつくだろ。ストーカー野郎が居直りやがって」
「そうやけど……」
ふと、背後でくすくすと笑う声が聞こえてくる。須能と虎太郎のやり取りを聞いていた新藤が、立ち上がってこちらに歩み寄って来ているところだった。
「ま、二、三針なら大したことはないな」
「でも、もし当たりどころが悪かったらと思うと……」
「言ったでしょう? うちの子はそんなにやわじゃありません。剣道だけじゃなく、この子には色々と武芸を仕込んであります。滅多なことでは倒れませんよ」
「……はあ」
我が子に怪我を負わせた須能に対する態度があまりに鷹揚で、なんだか拍子抜けしてしまう。新藤が息子へ寄せる信頼の厚さを見るにつけ、さすがはアルファの名家は教育が違う……と、須能は尊敬の眼差しで新藤親子を見上げた。
そんな須能を見て、虎太郎はまた憮然とした声でこう言った。
「ていうか、俺より先に親父に告ってんじゃねーよ」
「告ってって……え? ていうか君、いつから僕らの話聞いてたん?」
「多分、ほとんど聞いてた。なんか深刻そうな顔して喋ってたから、声かけづらくて様子見てたら……」
「……そ、そうか」
新藤はまたふふっと楽しげに笑い、ぽんと息子の肩を叩く。そして須能と虎太郎をそれぞれに見つめながら、ゆったりとした口調でこう言った。
「二人の気持ちが固まっているのなら、私はもう何も言いません。息子のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
「あっ……はい! こちらこそ、どうぞよろしくお願い申し上げます……!」
「そして虎太郎。須能さんのために大学を受け直したいなら、そうすればいい。ただし、絶対に合格すること。いいな」
「おう、分かってる。……ていうか、許してくれるんだ。親父は正巳……須能さんとのこと、反対すると思ってたけど」
「そりゃ、これまで勉強と武道にしか興味がなかったお前が、いきなり『番たい人がいる』とか言い出したんだ。びっくりもするし、心配にもなるだろうが。しかもお相手が、須能さんだぞ? あの須能さんだって言うんだぞ? そりゃ仰天するに決まってるだろ。父さん、何年この人に憧れてたと思ってる」
「え?」
「えっ?」
突然そんなことを言い出す新藤に驚き、須能は目を丸くした。そして虎太郎も同様の反応を示している。二人の表情を見て新藤はやや頬を赤らめ、肩をすくめた。
「須能流の舞は昔から好きだったから、何かと援助はさせていただいていましたし、あなたのことはもちろん、ずっと前から存じていました。でも、あの二十六代目襲名披露のときの舞が……もう本当に素晴らしくて。なんていうんですかね……まだまだ若いのに、古くから続く家名を継ぐにあたっての重大な覚悟を決めたあなたの表情がもう、冷え冷えするほどに美しくて、素晴らしく……って、あ。これは母さんには内緒だからな」
「分かってるよ。ていうか親父……そんなに須能さんのこと好きなのかよ。うわぁ……」
「うわぁとはなんだ! いいか、絶対に母さんには言うな。あと、龍太郎にもな!」
「へいへい」
明らかに引いている息子に向かって、新藤は念入りに釘を刺している。新藤の気持ちを知り安堵したこと、そして二人の会話にほっこりとさせられたことで、須能の顔にもようやく笑みが戻ってきた。
「だからもう、びっくりしてな……いや、我が息子が須能さんの番になるのかと思うと……。人生、何が起こるか分からないものですなぁ」
「……ええ、本当ですね。ふふ。いつもご贔屓にしてくださって、ほんまにありがとうございます」
「いえいえ、古典芸能を自分なりのやり方で守っておいでのあなたの姿勢、深く深く共感しておりますよ。あ、SNSもフォローしてます」
「ええ? そうなんですか? いやほんまに、ありがたいことで……」
「いえいえ。これからも、全力で応援させていただきますので」
「恐縮でございます。ほんに、今後は公私共々どうぞよろしくお願いいたします」
と、いつまでも頭を下げ合っている父親と須能の姿に飽きたのか、虎太郎が間延びした声を出した。
「あーもう、いつまでやってんだよ。親父はもう帰っててよ。俺、須能さんのこと送っていくから」
「あ、ああ、そうだな。そうして差し上げなさい」
「え……でも、もう遅いからええよ。僕はタクシーで帰、」
「ダメ。あんたを狙ってるやつがあいつ一人とは限らねーだろ。危ないから送ってく」
「……さよか」
有無を言わせぬ口調で須能の肩を抱く虎太郎を見て、新藤は感慨深げに頷いている。
なんとなくむず痒い気持ちになりながら、須能は新藤に向かってもう一度丁寧にお辞儀をし、ゆっくりとその場を後にした。
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