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16、もう大丈夫
そして、関東公演の日がやってきた。
今日が東京巡業の最終日である。明日朝の新幹線で、須能は京都に戻ることになっていた。
須能の足首も腫れが引き、ゆるやかな演目であれば普段と変わらぬ調子で踊れるようになっていた。当初考えていたプログラムとは一部変更せねばならないが、目の肥えたお客を楽しませるだけの舞を舞うことはできるであろうと踏み、須能は予定通り舞台に立つことにしたのである。
今日の公演が、初めてのお披露目となる年若い弟子たちもいる。この日のためにと集中的に稽古を積んできたものの、慣れ親しんだ土地ではない場所での初舞台だ。弟子たちはすっかり緊張している様子で、朝からソワソワと落ち着かないのである。
「せんせ、三味線のお師匠さんが曲目の確認をしときたいて言うてはりますけど」
そんな中、いつぞや新藤家の舞台で須能の代役を務めた紗波が、衣装合わせをしている須能の元にやってきた。あの日の舞台で立派に代役を果たしたことで自信がついたらしく、彼女はこっちへきてから随分と落ち着きが出てきた。
「あぁ、それは有栖川に言うてくれるか。衣装の変更も出てきてしもたから、僕はそっちの調整で忙しいねん」
「わかりましたぁ。……あのう、せんせ」
「ん?」
紗波はふと立ち止まり、姿見の前に立つ須能の顔をひょいと覗き込んできた。
「何か、ええことでもあらはったんですか?」
「え? な、なんで?」
「なんやろ……なんや、いつもよりずっと楽しそうに見えて……」
「そ、そうやろうか」
「はい。今も鼻歌唄ってはりましたけど」
「えっ!? ……ま、まぁ……関東公演は馴染みのお客さんも多いからな。ちょっとわくわくしてんねん」
「あぁ、なるほどぉ」
「そういうわけやから、紗波もしっかり気張るんやで」
「はい、がんばります」
可憐な笑みを見せて、足取りも軽くその場を去っていく紗波の気配が遠ざかり、須能はふうとため息をついた。無意識のうちに鼻歌を唄っていただなんて、自分でもびっくりである。
「……浮かれてんのかな、僕」
今日は、一番いい席に新藤家と国城家の人々を迎えているのだ。当然虎太郎もやって来る。
今朝がた、『楽しみにしてる』という簡単なメールが届いていたことを思い出し、須能はふっと笑みをこぼした。虎太郎の前で舞うことに、緊張しないでもない。けれどそれ以上に、これまで須能が生きてきた世界を直接虎太郎に見てもらえること……それが何より、須能にとっては楽しみなことであった。いつになく気持ちは奮い、晴れ渡った夏空のように清々しい気分である。足首は万全ではないけれど、身体は軽く、今すぐにでも舞台に立ちたいような気分だ。
――舞台の直前やのにこんなに気分良いなんて、初めてちゃうやろか。
須能は羽織っていた黒い着物を肩から滑らせ、白い単姿になった。姿見の中に映る自分の表情は柔らかく、いつもよりずっと顔色もいい。紗波が須能の変化に気づくのも無理はない。
「……まぁ、ええ。いつも通り、がんばろ」
須能はそうひとりごちて、胸の前で拳を小さく握りしめた。
+
そして、開演の時刻となった。
須能は緞帳の降りた真っ暗な舞台の中心で、ひとり佇んでいる。
今は暗闇の中に一人だが、背後に感じるスタッフたちの気配が心強く、緞帳の向こうに居並ぶ観客の気配に鼓舞される。
呼吸は深く、心は静かだ。
開演を知らせる拍子木の音が舞台に響き始める中、須能はそっと目を開いた。
ゆっくりと持ち上がる緞帳。幕が上がりきると同時に、眩しいスポットライトが須能を照らす。
そして流れ出す三味線の音色に合わせ、須能は白い光をまっすぐに見上げた。
するとすかさず舞台の方から、割れんばかりの拍手が響き、「二十六代目!!」と慣れた調子で声がかかる。贔屓の客が今日も来てくれているのかと励みに思いながら、須能は口元だけで薄っすらと微笑んだ。
須能はゆるやかに膝を折り、懐から舞扇子をすっと抜いた。胸の前でゆっくりと扇子を広げてゆくと、スポットライトの光を受けて、きらきらした金色の光が舞台に広がる。
一番最初の演目は、艶やかな女舞『みだれ髪』である。
うっすらと白粉をはたいて眦を朱色で飾り、目にも鮮やかな朱色の着物を身にまとい、色気と華を披露する。高く結い上げ花かんざしで飾った黒髪、ぐっと襟を引き、露わにされた白いうなじ。雅に広がる裾はお引きずりで、足元は白い足袋である。
軽やかに扇を翻しながら、須能はなよやかな舞を舞う。着物の裾をうまくさばきながらふわりとと身を翻し、しゃなりと後ろを振り返れば、観客から声援と拍手が起こった。
その時、客席の中心に、虎太郎の姿を見つけた。客席は三階席まであり、座席数は九百あまり。舞台に立っていると客席は暗がりとなるため、観客の顔ひとつひとつが明瞭に見えるわけではない。
しかし須能には、不思議と虎太郎の姿がはっきりと浮かび上がって見えた。
満面の笑みで拍手をしている新藤貫太郎氏の隣で、虎太郎は食い入るような表情で須能の舞を見つめている。やや前のめりになり、まばたきを忘れているのではないかと心配になってしまうほどにしっかりと目を開いて、ただひたすらに須能の姿を追っているのだ。
あまりにまっすぐな眼差しは、どこまでも純粋で、きらきらしていた。
――見ててくれてはる。あんなに、一生懸命……。
虎太郎のそんな姿がいじらしく、愛おしく、紅を引いた唇に笑みが浮かんだ。雅楽の旋律に身を委ねながらふわりふわりと舞ううちに、心まで高く舞い上がっていくような心地がした。
つま先、指先にまで瑞々しい力が行き渡っていくようなその感覚に、須能はうっとりと酔いしれながら舞った。
――心が軽くて、いつもよりもぐっと音楽が染み入ってくる。……あぁ……気持ちええな……。
虎太郎がそうしてそばにいてくれるだけで、見守っていてくれるだけで、こんなにも力が漲る。
須能を守って立ちはだかった広い背中の心強さ、初めての交わりに打ち震えていた愛らしい表情、力強く運命を切り開く虎太郎の頼もしさ――それらを想い返すだけで、須能の胸はどきどきと高鳴った。
虎太郎と歩む未来ならば、きっとそれは、何よりも幸せなものになる――そういう予感に、心が解きほぐされていく。
須能はひらりと袖を翻しながら膝をつき、小さく首を傾げて舞台の方へ指先を伸ばし、遠くを見つめるように視線を送った。舞台慣れした客たちは、それが締めの姿勢だと知っている。余韻を残す雅楽の旋律が鳴り止む前から、どっと割れるような拍手がホールに響いた。
須能はすっと扇を床に置き、すっと三つ指を揃えて頭を下げた。
拍手が徐々に落ち着き始めた頃合いで、須能はゆっくりと顔を上げて虎太郎を見つめ、にっこりと笑う。それを見て、虎太郎がちょっと肩を揺らすのが見えた。そして照れ臭そうにちょっと目を伏せ、うなじを掻いている。
――ほんに、可愛 いらしいなぁ……。
いつまでも虎太郎を見つめていたかったが、あいにくここは舞台の上である。
須能は改めて丁寧にお辞儀をしたあと、張りのある声で、堂々と口上を披露した。
「本日もたくさんのお運び、誠にありがとうございます。本年もまた、こちらの関東演舞場でわたくしどもの舞台を上演できますのも、こうして須能流一派をご贔屓にしてくださる皆様のお陰でございます。わたくしはまだまだ若輩者ではありますが、おかげさまをもちまして、襲名披露のあの日から三年目の今日と相成りました。まだまだ芸道未熟で、先代家元・須能華州の足下にも及びませぬが、今後も須能流一派力を合わせ、一所懸命に勤めて参ります。どうか、これからもあたたかなご声援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます」
淀みなくそう述べた後、須能はまた深々と頭を下げた。ホールの中は再び拍手で埋め尽くされ、「よっ!! 二十六代目!!」「立派立派!!」と力強い声援があちらこちらから飛んでくる。
須能は改めて顔を上げ、虎太郎と目を合わせた。その隣に座る貫太郎氏が大振りな拍手をしているのとは対照的に、虎太郎はただただ唇に誇らしげな笑みを浮かべて、じっと須能を見つめていた。
その隣にいる蓮と御門、そして葵と結糸という慣れ親しんだ顔ぶれにも目線を送りつつ、須能はまた笑みを浮かべる。
――あぁ……僕はもう、大丈夫や。
なぜだか自然と、そう思えた。
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