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〈4〉
そして夜になった。
ダイニングルームに皆が集まり、和やかなパーティが始まった。
余裕で十人座ることのできる横長のダイニングテーブルには、普段よりもぐっと高級感のある白いクロスがかけられている。そしてその中心に敷かれたテーブルランナーは、渋い色味のワインレッドだ。装花もクリスマスを意識した色合いであり、よく磨かれたグラスにゆらゆらと光を映すキャンドルの灯りが、ダイニングルームを暖かく包み込んでいた。
時刻は午後六時半、外はすでに真っ暗だ。大きな窓には、黒々と夜に沈んだ庭が見える。照明をゆるく落とした部屋の中には、洒落た調子にアレンジされたクリスマスソングが揺蕩って、居心地のいい空間が作り上げられていた。
今は、御門と虎太郎の到着を待っているところだ。
すでに到着している須能は、綾世律医師と何やら芸能談義に花を咲かせていて、とても楽しそうである。そして久方ぶりにのんびり二人きりの時間を過ごしてきた葵と結糸も、紫苑を抱いてダイニングルームに入って来た。
「すみません、蓮さま。紫苑がお世話になっちゃって……」
と、白いシャツとアーガイル模様のセーターを身につけた結糸が、紫苑を抱いて蓮のもとに歩み寄って来た。出産後、ひどくやせ細っていた結糸だが、今は健康的な体型を取り戻している。
使用人としてここで働いていた頃よりもずっと、結糸は気品漂う雰囲気を漂わせているように感じられる。普段は四六時中紫苑と過ごしているためラフな格好が多いが、こうして少し改まった衣服に身を包んでいると、その変化がよく分かった。
「構わないさ。ずっと大人しく寝ていたし」
「蓮さまの前じゃ可愛こぶるんだからな〜こいつ。俺が寝かそうとしても全然昼寝しないのに」
「あうー」
そう言って、結糸がむにむにとした白い頬を指先でつつくと、紫苑はさも迷惑そうな顔で結糸を見上げる。そしてむっちりとした丸い手を伸ばして、ぺたぺたと結糸の頬に触れた。
「あんまり構ってやれてない俺より、兄さんに懐いてる気がするな……」
ふたりのそばへやって来た葵が、そんなことを言う。どことなく寂しげな調子である。
「このクリスマス休暇中は、べったり構ってやればいいだろう」
「うん、そうしたいんだけど。……おいで、紫苑」
「あー」
「えー? なんでそんなに嫌そうなんだよ。ほらおいで、俺がパパだよ」
にっこり爽やかな笑みを浮かべ、葵が紫苑の方へと手を伸ばす。しかし紫苑はくるっとした大きな目で訝しげに葵を見上げ、結糸のセーターをぎゅっと握るばかりである。葵は寂しそうな顔をしつつも、息子に嫌がられることにさえ幸せを見出しているのか、見たこともないくらい甘い表情を浮かべている。怜悧に整った涼やかな目尻をとろんと下げ、普段はきりっと上がった美しい眉も、今は見事にハの字だ。蓮は思わず笑ってしまった。
「葵、いつの間にそんな顔ができるようになったんだ」
「え? 何が?」
「いや……なんでもない。僕は最近会食などに出ていないからな、夜はお前より紫苑と接する時間があるだけだ」
「助かります、本当に。葵さま、最近すごく忙しいし……」
「ごめんな、結糸」
葵は申し訳なさそうにそう言って結糸の肩を抱き、柔らかな栗色の髪にキスを落とした。結糸は真っ赤になって「蓮さまの前でこういうことするなって言ってんのに!!」と喚いているが、葵はいたって涼しい顔だ。この二人が目の前でいちゃいちゃすることにももう慣れているため、蓮は何食わぬ顔で話を続ける。
「すまないな、結糸。今は葵にとっても大事な時期だから」
「い、いえいえ! 今後に備えてのことですもんね。蓮さまのお身体も大事ですし……」
と、蓮を見上げる結糸の瞳には、自分と同じように抑制剤の副作用に蝕まれた蓮を、心から気遣う感情があふれていた。蓮は唇に笑みを乗せ、首を振った。
「まぁ、僕のことは気にするな」
「はい……」
ふとその時、ダイニングのドアのほうが賑やかになった。虎太郎と御門が揃って到着したらしい。
ダイニングルームもかなりの広さがあるが、華のあるふたりが現れたことで、急にその場が明るくなったように感じられた。
暖炉の前で葵たちと話をしていた蓮たちのもとに、御門と虎太郎が近づいて来た。そして虎太郎はきびきびとした動作で蓮に一礼し、礼儀正しい口調で挨拶を述べている。
「蓮さま、今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ、来てくれて嬉しいよ」
と、蓮が返事をすると、虎太郎はうっすらと頬を染めて蓮を見つめている。まだまだ国城兄弟に対して緊張が抜けないらしい。
すると、綾世律医師とテーブルで談笑していた須能がふらりと間に入って来て、虎太郎の腕に手を添えた。
「こた、遅かったやん」
「悪い。講義終わりに剣道部の先輩につかまってさ」
「そおか、一年生は大変やなぁ」
「ん? 正巳、なんかすげー機嫌良くない? 酒なんて飲んでねーだろうな」
「飲むわけないやん。ちょっと、蓮さまからええこと聞いたもんやから、嬉しくて」
「え? 何?」
須能は思わせぶりな口調でそう言いつつ、蓮と御門をきらきらした目で見上げている。その眼差しの意味に気づいたらしく、御門がちらりと蓮を見た。蓮は淡々とした表情を崩さぬまま、「さぁ、みんな揃ったな。食事の前に、勢田から何かサプライズがあるらしいぞ」と言う。
今までダイニングの入り口に控えていた勢田が、すっと窓辺に移動しはじめる。そして大きな窓の前に立ち、うやうやしく一礼した。
いつものようにビシっと執事服を着こなす勢田の胸元には、クリスマスリースをかたどったタックピン。キャンドルの灯りを受け、きらきらと華やかにきらめいている。
「みなさま、窓の方へご注目ください」
「へぇ、何だろう。楽しみだなぁ」
と、結糸がうきうきした声を出すと、紫苑もきゃっきゃと機嫌のいい声を出す。皆がゆっくりと窓の前へ集まって来るのを満足げに見つめながら、勢田は低くよく通る声でこう言った。
「今年はいつにも増して賑やかな夜となり、我々使用人一同、とても喜ばしく思っております。葵様の視力回復、結糸……様のご懐妊と出産、そして、かねてからのご友人である須能様のご懐妊と素晴らしいニュースが続き、私 も嬉しいやらホッとするやらで、本当に、良い意味で忙しいひとときでございました」
「別に俺に様付けしなくてもいいですよ」
と、結糸が口を挟むと、勢田はちろりと結糸を見て、「お黙りください」と言った。
「目が見えるようになった葵様、そして、三ヶ月前にお生まれになったばかりの紫苑さまに、今宵は特別美しいものをお見せしたく、我々は密かに準備を進めて参りました。どうぞ、ごらんくださいませ」
そう言って、勢田がさっと手を挙げる。
「わぁ……!」
一瞬にして、窓の外に星空の海が生まれた。
広々とした庭園の樹木という樹木に、眩くきらめく電飾が施されているのである。
ライトの色は、あたたかみのある暖色系で統一されており、深く夜闇に沈んでいた夜の風景が、一瞬にして金色の光で溢れ返った。
「すごい……!! すごく綺麗だ……!」
光に溢れる壮大なイルミネーションを目にした葵が、紺碧色の瞳をきらきらと輝かせた。そして珍しく、子どものようにはしゃいだ声を出している。隣に立つ結糸は、美しい景色を眺めながらも、葵の横顔を幸せそうに見上げていた。
結糸はそっと葵に身を寄せると、すっかり機嫌の良くなった紫苑を抱かせた。葵は感涙に揺れる柔らかな眼差しで結糸と紫苑を見つめ、そっと小さな身体を抱き上げる。そして二人で同じ方向を見つめながら、「紫苑、すごいね。光がいっぱいで、なんてきれいんだろうな」と語りかけた。
紫苑は、父親が自分に何を伝えようとしているのかが分かっているかのように、「あぁ〜」と愛らしい声で返事をしている。すると葵はとろけるように甘い笑顔を浮かべながら、「そうだろ〜」と紫苑と笑い合った。
「葵もすっかり親バカだなぁ」
と、蓮のすぐ傍で御門がそう呟いた。蓮はそっと御門の方を見上げて、「ああ、本当に可愛いもんだ」と言った。
「蓮と紫苑がイチャイチャしてるのも可愛いけど、葵を見て目尻を下げてる蓮も、最高に可愛いよ」
「何だと? 誰の目尻が下がってるって?」
「紫苑にメロメロの葵を見つめる蓮が、一番可愛いってことだよ」
「っ」
こっそりと蓮の耳元に唇を寄せ、小さな声でそう囁く御門の低音に、身体がぴくんと反応してしまう。蓮は照れ臭さを押し殺しながら厳しい表情を浮かべ、ぐいっと御門の顎を下から押し上げた。
「うるさい、黙れ」
「す、すみません」
「まったく……虎太郎にはまだ話してないんだ。堂々とベタベタするのはやめろ」
「そう言われてもなぁ。……ていうか、もう見られちゃってたっぽいけど」
「え?」
窓にくっつくようにしてはしゃいでいる葵たちの少し後ろに、須能と虎太郎、そして綾世が並んでいる。綾世は終始ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべているし、須能は今日の昼間からずっと目をキラキラさせ続けている。そしてその隣で、虎太郎が見てはいけないものを見てしまったかのように視線を不自然に泳がせながら、明らかにそわそわしている。その様子を見つけてしまった蓮は、溜息をついた。
「はぁ……麗しい。蓮さま、本当によかったですね。その彼が例の……ふふっ。たくましくて素晴らしい肉体をお持ちだ。顔立ちにも華があって若々しく……はぁ、可愛らしい。美しい蓮さまにぴったりのお相手だ。……その彼と……夜は……はぁ、はぁ……はぁん……」
「ちょい、綾世センセ。興奮せんといてくださいよ。すぐそこに赤ん坊もおるんやで」
「あっ……すみませ……ハァ……想像するとつい……よだれが」
「そっ、想像するな! 汚らわしい!」
本当に口の端から涎を垂らし、それを指先で拭っている綾世に心底ゾッとしながら、蓮は険しい声でそう言った。すると虎太郎が、「え? え? どういうこと? え?」と混乱し始めている。蓮はぎろりと御門を睨め付けながら、憮然とした声で文句を垂れる。
「お前が余計なことするからだぞ」
「ごめんごめん。イルミネーションと蓮が綺麗すぎて、ついついな」
「ったく、虎太郎にはこの後ちゃんと話そうと思ってたのに」
「えっ? な、何をっすか……?」
混乱するあまり敬語が怪しくなっている虎太郎を見て、須能がくすくすと笑っている。背後のやりとりにようやく気づき、イルミネーションをバックに微笑む葵の家族もまた、ほのぼのとした笑みを浮かべている。そして綾世も、眩しげに目を細めながら、慈しむような眼差しで蓮を見つめていた。
幼いころは、視界を塞がれた葵と二人きりでクリスマスを過ごしていたというのに。
今はこんなにも、心許せる人々に囲まれている。
蓮の心には何の翳りもなく、庭園を彩る金色のイルミネーションのように、明るい光で溢れていた。
――こういう気持ちを、ひとは『幸せ』と呼ぶんだろうな……。
心の中でそう呟きながら、蓮は口元に満ち足りた笑みを浮かべた。
『Blindness クリスマス番外編』 終
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