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番外編ー1122storyー〈前〉

   とある日の昼下がり、結糸はそっとリビングルームを覗き込んだ。 「……やっぱりここにいた」  柔らかな陽光が差し込む広々とした部屋には、あちこちおもちゃが散乱している。特に、ソファに囲まれるようにして敷かれているラグマットの上はひどい有様だ。  開きっぱなしのスケッチブック、部屋の方々に散らばった色とりどりのクレバス、白い熊のぬいぐるみ、ままごとセット、積み木やミニカー、カラフルな入れ子のおもちゃなどなど……結糸はやれやれとため息をつきながら、今度は呆れたような表情でソファを見やる。  リビングの顔たる大きなソファには、今やすっぽりと巨大なカバーがかけられている。肌触りのいい革製の超高級ソファは結糸もお気に入りの一品であったが、子どもたちが増えて以降、いつの間にか勢田がソファカバーをかぶせていたのである。  ふわふわとした素材のソファカバーは子どもたちのお気に入りだ。触れるとふんわり暖かく、まるで毛並みのいい猫を撫でているような気分になる。  そのソファ上で、葵がすうすうと眠っている。腹の上には四歳になったばかりの紫苑が乗っていて、葵と同じ表情でぷすー、ぷすーと気の抜けた寝息をたてていた。  そして葵の両腕の中にいるのは、去年蓮と御門のもとに生まれた双子の兄弟、(れい)(たすく)だ。冬生まれのこの双子も、もうすぐ一歳。遊びたい盛りのやんちゃな赤ん坊である。  今日は蓮も御門も仕事がある上、結糸も大学の講義を受けに行っていたため、葵が一人で子守と留守番をすることになっていたのだ。もちろん屋敷には人手も多いが、普段あまり子どもたちと関わる時間のない葵が自ら「今日は俺が独り占めするんだ」と言って、子守を申し出たのだった。  結糸は二十二歳になったが、今は身分を隠して大学へ通っている。高望みかもしれないが、いずれは葵の手助けができればいいと考えた上で、経済学と貿易学を専攻しているのだ。  高度な授業についていくのがやっとという状態だが、『学ぶ』という行為はとても楽しい。日々知識が増え、葵と蓮の会話の内容が徐々に分かるようになってきた。その手応えに学び甲斐を感じ、日々勉学に勤しんでいるのである。  足音を忍ばせながら、結糸はそっとソファに歩み寄った。  ――なるほど、散々遊ばれて疲れきったんだな……。ふふっ、かーわいい。  体温の高い子どもたちに囲まれて、葵はすっかり深く寝入っているらしく、結糸の気配に気づく様子もない。無防備にすうすうと寝息を立てる葵の表情は安らかだが、どことなくくたびれているようにも見え、結糸はついつい吹き出してしまった。 「ん……」  ふと、プラチナブロンドの長い睫毛が、ぴくりと動いた。そしてゆっくり、重たげに開かれるまぶたの下から、紺碧色の瞳がゆっくりとその色彩を覗かせる。  金色味を帯びた宝石のような瞳に、陽の光がまろやかに溶けこむ様は、何度見てもため息が出るほど美しい。 「……ゆいと。帰ってたのか……」 「ただいま。ずいぶん遊ばれたみたいだね」 「そうだな……ううっ……重い、動けない」 「紫苑が乗っかってんだよ。あと、両側に双子がいるよ」 「ああ……そうだった」  葵は身じろぎをせぬように気をつけながら、自らを取り囲む三人の子どもたちのほうへと視線を移した。そして形のいい唇に笑みを浮かべ、もう一度結糸を見上げた。 「嶺も翼も、だいぶ懐いてくれるようになったよ。最初はずいぶん泣かれたんだけど」 「よかったじゃん。葵は子ども受け悪いもんな〜」 「……ほんとのこと言うなよ」 「ふふっ、冗談だよ。お疲れ」  ソファの背もたれに手をついて身を乗り出し、結糸は葵の額にキスをした。少し伸びたプラチナブロンドの髪の毛が唇に触れ、ほんのりとくすぐったい。 「結糸、こっちにはしてくれないのか?」 「え?」  葵はいたずらっぽい表情で、薄く濡れた唇から小さく舌を覗かせた。毎日のように見ているというのに、整った相貌に浮かぶ妖艶な微笑みは逆らいがたく魅力的で、結糸は思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。 「……ん」  吸い寄せられるように唇を重ねると、葵は結糸の下唇を食むようにキスを返した。しっとりと唾液に濡れた葵の唇はあたたかく、冬の空気で冷やされた結糸の唇を、ゆったりと温めてゆく。  葵の唾液は甘く、柔らかな唇の感触は心地よく、いつまででもこうして唇を重ねていたいと思うのだが……。 「かあさまぁ……ぼくも……」 「へっ?」  突然ぺたぺたと下から顎を触られて、結糸は驚いてしまった。紫苑が目を覚まし、ぼんやりとした表情で結糸のことを見上げている。  葵のものよりも淡い色彩。澄み渡る真昼の空の色を写したかのような、鮮やかなスカイブルーの瞳が、きゅるんとこちらを見上げていた。  淡く金色の光が揺らめく瞳は、まさに国城家の血を継ぐ者の証。この美しい瞳を見つめるたび、結糸は胸をくすぐるような愛おしさと、誇らしさを感じるのだった。 「紫苑、ただいま〜! いい子してたか?」 「うぅ〜だっこだっこ」  紫苑のふっくらとした白いほっぺたにぶちゅっとキスをして、結糸はすりすりと頬ずりをした。すると紫苑はすっかり結糸が恋しくなってしまったらしく、葵を突っぱねて結糸の方へと手を伸ばした。すると葵が、「……なんだよ、つれないな」ともの悲しげなため息を吐く。  葵が多忙なせいもあるのだろうが、今も変わらず紫苑は結糸にべったりだ。結糸がいなければ葵にもぺたぺたとくっついていくようなのだが。  紫苑の顔立ちは、日に日に葵によく似ていった。赤ん坊の頃は自分に似ているのではないかと常々思っていたものだが、さすがは国城家の血というべきか、幼いながらに整った目鼻立ちはくっきりとして、きりりとした大きな目などは葵と瓜二つ。  結糸としては、自分の血はどこへ行ったのだろうと首を捻りたくなる毎日である。唯一、髪の毛が明るい栗色なので、そこくらいは似ているのではなかろうか……と結糸は思う。 「紫苑、いっぱい遊んであげたか? 二人の前じゃお兄ちゃんなんだからな」 「あそんだよ! 絵もいっぱいかいてあげたし、はいはいでおいかけたし!」 「そっか、えらかったなぁ〜。楽しかった?」 「うん! でもつかれた」 「ははっ、だよな〜〜」  紫苑を抱きかかえながら小さな頭を撫で回していると、もぞもぞと双子が目をこすり始めた。  一卵性双生児の二人は、容姿から行動まで、まるでプログラムされたかのようにそっくりだ。赤ん坊から幼児らしくなりつつある美しい双子がころころと戯れている様子は実に可愛らしく、見ているだけでデレデレと顔が緩んでしまうほどだ。 「あ、れいとたすくも起きたね」 「泣くか? 泣くのか?」 と、葵が戦々恐々とし始めるものの、嶺と翼はきょとんとした表情で葵を見上げたかと思うと、互いの片割れの存在を確認するように視線を巡らせた。  そして、片割れがすぐそこにいることを見つけるや満足げな表情になり、もぞもぞと葵の膝の上に乗って遊び始めている。  結糸と葵は安堵して、お互いに顔を見合わせた。 「良かった、泣かなかったね」 「ああ……二人同時に泣くからさ、朝はほんっとに困ったよ。紫苑のほうが扱いが上手いんだ」 「あははっ、さすが。いつも一緒に遊んでるからなぁ」  双子は紫苑を実の兄のように思っているらしく、実によく懐いている。二人が生まれた直後から、紫苑は双子に興味津々で、何かにつけて構いたがった。二人が同時に泣けば笑わそうと頑張っていたし、「ぼくがあそんだげるからね? れんさまはねてて?」と、疲れ気味の蓮を労わることさえも忘れなかった。  恐ろしく手のかかる赤ん坊だった紫苑が、いたいけな存在を守ろうとする姿を見せるようになっていることもまた、結糸にとってとても誇らしいものである。  嶺と翼は、蓮によく似ている。  けぶるような金髪は柔らかく、瞳の色も蓮に似た翡翠色だ。一歳を前にして、二人とも実に美しい金眼をしており、クルンと上を向いた長い睫毛に縁取られた目元などは、まるで精緻に作り込まれたビスクドールのようである。  二人を見分ける唯一のポイントは髪の毛だ。嶺はさらりとした直毛なのに対し、翼はくるくるとカールした癖っ毛なのだ。蓮の髪の毛にも緩やかな癖があるので、翼のほうが蓮により似ているかもしれない。  それゆえ、御門は結糸以上に『俺の遺伝子どこいったんだろうな〜!?』と自虐的なこと口にするものの、愛すべき存在が三人に増えた喜びにより、これまで以上にバリバリと仕事をこなす日々を送っている。  そして蓮はというと、双子を身ごもった直後に、世間にオメガであるということをカミングアウトしたのだった。

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