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〈後〉
結糸としては、懐胎直後のデリケートな時期にカミングアウトして大丈夫なのかと大いに心配したものだったが、新たな命を授かった蓮は、これまで以上に凛として強かった。
クニシロHDの株主総会にて、葵と御門をそばに置き、蓮はあっさり自身がオメガであると公表したのである。
その様子を舞台の袖で見守っていた結糸であるが、蓮が真実を口にした瞬間、会場が一瞬、水を打ったような静寂に包まれた。その時の緊張感は、忘れようがないほどに恐ろしくもあった。
だが蓮は淡々と、静かな口調でこれまでの事情を語った。
両親の死の真相、盲目であった葵のこと、父から預かった大事な事業を、なんとしてでも守らねばと思ったこと――
マイクを通し、まるで他人事のようにこれまでの苦悩を語る蓮の表情は穏やかで揺るぎがなく、いつも以上に静謐な美しさを湛えていた。聴衆全員が蓮の言葉に聞き入り、オメガ性の株主の中には、目に涙を浮かべる者さえいた。
弟の葵が立派に育ったこと、そして、蓮自身にも御門という番を得たこと、そして、新たな命を宿していること。それらをゆっくりと語ったあと、蓮は初めて、聴衆を前に笑顔を浮かべた。
そしてはっきりとした口調で、『オメガが社会的・性的な弱者となることなく、望む世界で着実に務めを果たせるよう、出来うる限りの助力をしてゆく』と宣言したのであった。
これまで、『アルファの中のアルファ』と思われていた国城蓮がオメガであったという衝撃の事実に、聴衆の中には戸惑いを隠せない様子の者もいた。だが、蓮が話し終えた後、会場を包むのは盛大な拍手と激励の声だった。
その後しばらく、蓮のカミングアウトは世間を大いに騒がせたものだが、蓮は外界の騒ぎなど何処吹く風といった調子で、「ようやく肩の荷が下りたよ」と晴れやかな表情をしていたものである。
時折否定的な声を聞くこともあったけれど、大衆は蓮のカミングアウトに対して好意的だった。
これまで蓮が築き上げてきた確かな実績は裏切りようもなく偉業であり、それをよく知る各国の要人たちは、蓮の努力を褒め称える声明を次々に発表した。
そして今。蓮の暮らしに一切の嘘偽りはなくなった。
各方面からの取材や講演の依頼、または政界への出馬要請などがひっきりなしに舞い込む中、蓮はマイペースに仕事をこなす日々を送っている。
+
「ただいま」
「ただいま〜!! チビども、良い子にしてたかぁ!?」
夕飯までの時間をのんびり過ごしていると、たまたま帰宅のタイミングが同じだったという蓮と御門が、リビングルームへ入ってきた。
葵と違って子どもうけの良い御門の出現に、紫苑も双子も大喜びだ。それを見てもの悲しげな表情を浮かべる葵を慰めるのも、結糸の大事な仕事である。
「葵、結糸、世話をかけたな」
「おかえり、兄さん」
「おかえりなさい、蓮さま」
これまでと変わらぬパリッとしたスーツ姿だが、出産を経た蓮の雰囲気はずいぶんとまろやかなものになり、周囲を威圧するような棘のあるオーラはすっかり鳴りを潜めている。
少し伸びた金色の髪が細面を緩やかに彩る中、家族を見つめる蓮の翡翠色の瞳が、愛おしげに細められる。御門に飛びついた紫苑の頭を撫でながら、蓮は優しい笑みを浮かべ、「うちの双子はいい子にしていたかい?」と問うた。
「うん、いいこだったよ。父さまをおうまにしてねぇ、おいかけっこしたの」
「葵を馬に? ……そうか、すまなかったな、葵」
「いや、いいさ。たまには馬になるのも悪くない」
「疲れたろ? あとで陽仁に腰を揉ませようか」
と、蓮が大真面目な顔でそう言うと、御門は頼もしく胸を叩いて、「おお、いいよ! 俺がお前の疲れをほぐしてやろう」と言った。
「はぁ? やめてくれよ気持ち悪い」
「えぇ? ひでーな、気持ち悪いはないだろ。俺と葵の仲じゃないか」
「どんな仲だよ。なんでお前ばっかり紫苑に懐かれるんだ」
「あははっ、妬くな妬くな! 俺、甥っ子も姪っ子もいるからさ、ガキんちょの相手に慣れてるだけだって! そろそろコツを教えてやるか」
「……コツねぇ」
と、御門に肩を抱かれ露骨にげんなりした顔をする葵を見て、蓮が楽しげに笑った。
そして蓮は、はいはいで近づいてきた嶺をひょいと抱き上げ、翼に絵本を読んでいた結糸の元へ近づいてくる。
「結糸も、すまなかったな。体調も落ち着かない時に」
「いえいえ。紫苑の時に比べたら、つわりも全然平気ですし、大丈夫ですよ」
そう、結糸の腹には、現在二人目の新しい命が宿ったばかりなのである。
紫苑の時と同じく、懐胎まで少し時間がかかったものの、今の所経過は順調で、悪阻もなく大学に通えているという状況だ。
「うあー、まんまー」
「はいはい、こっちにおいで」
蓮が近づいてくるや、翼 はおぼつかない足取りで、結糸の膝から立ち上がった。そしてそのまま、びたんとラグマットに倒れこむ。しかも、転んでしまったことが信じられないといった表情で、むくりと顔を上げ硬直している。
「あ! 翼、大丈夫!?」
「大丈夫さ。これくらいで泣いていたら、国城家の男は務まらないよな?」
「うー、うぅ〜〜〜」
「え、すっごい泣きそうなんですけど」
「やれやれ……」
呆れたような口調をしつつも、優しい表情で眉を下げる蓮の姿は、まるで聖母の如き神々しさである。いつぞや須能が『蓮さま尊いわ〜拝みたくなるわ〜』と口にしていたことを思い出し、結糸は内心深々と頷いた。
「おいで、翼」
「うう〜……うわぁぁぁん!」
「よしよし、痛かった痛かった」
「あーーん!! ふぁあああ!!」
「あーーーーん!!! ふぎゃぁぁぁあああ!!!!」
翼だけが蓮に抱っこされているのが気に入らなかったのか、ラグマットの上に置いておかれた嶺まで大声で泣き始めた。そこへいそいそと御門が近づいて、「どうしたんだ嶺〜」と抱きかかえるのだが、嶺は御門の胸をゲシゲシと足蹴にして、さらに反り返って大泣きをしている。
「お前じゃダメなんだそうだ。……おいで、嶺」
「ったく、しょうがないなぁ……」
と、渋々といった様子で嶺を蓮に渡す御門だが、その顔はデレデレと果てしなく緩い。結糸と葵は顔を見合わせて苦笑した。
「お前だって俺のこと言えないじゃないか」
「今はしょーがないだろ、泣いてたんだからさ。俺の方が遊ぶのはうまいはずだぜ」
「なんだと、偉そうに。じゃあお前、今すぐ馬になってみろ」
「馬……? ……なんだよ葵、お前、そんな趣味があったのか……? 俺に何をさせようと……」
「え……お前こそ、どんな想像してるんだよ……気持ち悪い」
と、いい年をしたアルファが訳の分からない会話をしているのを耳の端で聞きながら、結糸はひょいと紫苑を抱き上げた。
「ちょっ、いまはだっこしなくてもいい!!」
「はぁ〜? さっきは抱っこ抱っこって甘えてたくせに」
「れんさまがいるからダメ!! れーとたすくもみてるし!」
紫苑は身をよじって床に降りると、結糸の脚にしがみつきながら蓮を見上げた。蓮がことあるごとに「国城家の男に相応しい云々」と口にするものだから、賢くしているところを見せたいのだろう。
四歳のくせに頭が回るな……と、自分が四歳児だった頃には想像できないような境遇で暮らす紫苑の頭を、結糸はわしわしと撫で回す。
「気を遣わせてるな、紫苑には」
と、やや申し訳なさそうに、蓮が小さくそう言った。結糸は大慌てで首を振る。
「いえいえ! いいんですよこれくらいで。葵さまと俺といるときは、わがまま放題の甘えん坊なんで、ちょうどいいです」
「ならいいんだ。葵がよくぼやいているけど、紫苑は父親が苦手なのか?」
「いや……好きだし甘えたいみたいなんですけど、素直に飛びついていけない感じがあるみたいで……。葵さまにも、しっかりしてるとこを見せたいのかな」
「……なるほどな。僕にも覚えがあるよ」
蓮はそう言って、ちょっと遠い目をして微笑んだ。
きっと、自身が幼かった頃のことを思い出しているのだろう。蓮は八歳まで両親と暮らしているのだから、葵よりも親を懐かしむ気持ちは強いはずだ。そう思うと、なんだか無性に切なくもなる。
「両親は多忙で厳格な人たちだったから、僕も甘えた記憶はほとんどない。だが葵は、親と触れ合う機会すらほとんどなかったから……葵自身も、子どもに対してどう接したらいいか分からないのかもしれないな」
「あ……そっか」
「そう思うと、葵が少し哀れに思えるな」
葵は、三歳で両親を失っている。両親の記憶さえほとんどないと言っていたことを思い出す。
だが、葵には蓮がいた。葵にとって蓮は親であり、兄であり、甘えや涙を受け止めてくれる存在だったのだ。
「そんなことありませんよ。葵さまには蓮さまがいたんです。蓮さまは、葵さまをこんなに立派に育て上げたじゃないですか」
「育て上げた……か」
「そうですよ。それに、葵さまと紫苑、二人のときは何だかんだと仲良くやってるんです。俺がいると、二人して照れちゃうみたいなんですよね」
「……そうか。似た者親子、ってことかな」
「ええ、そうなんです。可愛いですよね」
結糸がにこにこしながらそう言うと、寂しげな表情をしていた蓮が、ふっと気の抜けた笑みを浮かべた。そして両腕に抱いた双子を交互に見つめて、花が開くように優しく微笑む。
「こいつらは、どんな性格になるかなぁ」
「お顔が蓮さまにそっくりだし、きっと威厳のある立派な青年になりますよ」
「うーん……僕は性格が暗いから、あんまり似て欲しくはないかもな」
「えっ、暗い!? そ、そんなこと思ったことないですけど!?」
「暗いさ。悲観的と言うべきか……。昔から、まず一番に最悪の事態について想定しておいてから行動する癖がついてるから、何事においても明るい考え方ができないのさ」
「ああ……まぁ、でも、その慎重さがあるからこそ、今のクニシロHDがあるわけですし。長所ですよ長所」
「……ふふ、結糸は日本語が達者になったな」
「あ、嫌味ですよね、それ。今なら分かりますよ」
こうして遠慮なく蓮と物が言い合えるようになったことも、結糸にとって幸せなことだった。最愛の番の兄、今は義兄でもある蓮と親しく過ごすことのできる時間と空間は、自然と結糸の心を強くするのだ。
「僕は、陽仁に似て欲しいと思うよ。あいつのように物事を楽観的に考えられたら、どんなに毎日楽しいだろうな」
「ああ……分かりますそれ。陽仁さん、毎日すごく幸せそうだし、楽しそう」
「そうだろ? 羨ましいよな、あいつの思考回路は」
「なあおい、それって俺が単細胞だって言いたいのかい?」
ふと気づくと、苦笑した陽仁が、腕組みをしてすぐそばに立っていた。蓮は慌てるでもなくクールな笑みを浮かべると、「そう聞こえたか?」とサラリと応じている。
「まぁいいや。いいんだよそれで。蓮が難しいことを考えすぎるから、俺が中和してるってだけ」
「なんだ? 本当はもっと複雑な思考回路をしてるとでも言いたいのか?」
「あったりまえだろ〜! 色々考えるよ俺だって」
「たとえば?」
「あー……まぁ、いろいろ、色々だよ」
「ふうん」
陽仁を小馬鹿にしているような口調ではあるが、二人の表情はどこまでも幸せそうだ。見ている結糸が照れてしまうほどに、蓮と御門のかもしだす空気はそこはかとなく甘い。
「ねぇかあさまぁ、おなかすいたぁ」
ふと見ると、紫苑を腕に抱いた葵が傍に立っている。
珍しく紫苑自ら葵に抱っこをせがんだらしい。一見分かりにくいが、葵の目はキラキラときらめいていて、ものすごく嬉しそうだ。結糸は思わず笑ってしまった。
「そうだね、そろそろダイニングに行こうか。待たせると勢田さんうるせーから」
「そーそー、うるせーうるせー」
「こら結糸。紫苑に妙な言葉を覚えさせるな」
「あっ……すいません」
耳ざとく発言をチェックされ、結糸は反射的に背筋を伸ばす。使用人時代の言葉遣いが多少抜けないところがあり、それが紫苑を通じて蓮にバレることもしばしばなのだ。葵がそのあたりにあまりにも寛容なので、蓮が口うるさくなるというわけである。
「まぁいいじゃないか。こいつらだって、思春期になればそのくらい言いだすよ」
と、葵はのんびりしたものである。
「僕はそんな言葉使ったことないけどな」
と、蓮がまたクールに返した。
「葵は使ってたよな、高校んとき。兄さんがうるせーだのなんだのって」
と、双子を引き受けた御門が顔芸を披露しつつそんなことを言うと、「ちょっ……!! 本人の前で言わなくてもいいだろ!!」と葵が冷や汗をかいている。
「……なるほど。葵、お前にもいっちょまえに反抗期があったらしいな。知らなかったよ。興味深い」
「……」
「今夜のディナーはその話をゆっくり聞かせてほしいもんだな」
蓮は笑いを堪えるような表情で、葵をジロリと睨んでいる。すると葵は観念したようにため息を吐き、「はいはい。……陽仁お前、覚えてろよ」とため息をついた。
子どもたちの笑い声と、とりとめのない会話たち。ただそれだけの日常が手の中にあるだけで、こんなにも心があたたかい。
結糸は紫苑を抱く葵の背中に手を触れながら、ひっそりとこの幸せを噛み締めるのだった。
『Blindness ー1122storyー』 終
最後までお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました!!
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