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〈6〉

 そこここをライトアップされた夜の庭園には、色とりどりのあじさいが咲き誇っていた。  梅雨時の六月中旬とあって、雨が降れば屋内のみのパーティを予定されていたらしい。  だが、今宵の夜空には珍しく星が瞬いている。  園遊会の日は不思議と雨が降らない——明治初期から国際親善のためにこの会が始まった頃から、この日だけは一度も雨が降ったことがないという。そして今日も、その記録は打ち破られることはなく、朝から空は青く澄み渡っていた。  須能の隣で笑顔を浮かべているだけの時間が、どれくらい過ぎただろう。  この人は誰で、あの人は誰だと、これでもかというくらい耳打ちされたけれど、五、六十代からその上世代の人間たちは皆どれも同じ顔に見えるため、悠葉はそろそろ飽き始めていた。  ただ、須能が楽しげに談笑する相手が、各界の大物であることだけはよくわかった。もらった名刺の肩書きは”代表”だの”CEO”だのという文字が揃いの判のように書かれていて、着飾った美しいオメガを皆が横に連れている。  大物アルファと美しいオメガたち——彼らは皆、番なのだろうか。  権力を誇示するためだけに美しいオメガを連れているのかもしれないと邪推しかけたけれど、さまざまなドラマを経て番となった人々だって、ここにいるに違いない。甘いロマンスだけがそこに存在しているとは思わないが、華やかな場に立つ彼らは釣り合いが取れていて、しっくりと馴染んでいるように見える。  ——こんだけの人間が集まってて、そのほとんどがアルファとオメガとか……すごい世界やなぁ、社交界ってのは。  笑顔で挨拶を交わしながら、悠葉は人ごとのようにそんなことを考えていた。  そして、時を過ごすうち、こういった社交場が出会いの場でもあるということも、いやというほどに思い知った。 「ほう、あなたが次のお家元ですか。うちの息子が適齢期で」「娘が須能流のファンなんです。ぜひ一席設けたい」など、握手を交わすたびに言われるのだ。  須能流の家元は代々オメガが務めているということは周知の事実であるらしく、どうやら挨拶をする誰しもが悠葉をオメガと信じて疑わない様子である。しかも、悠葉はネックガードをつけているのだから、皆がそう勘違いするのは無理もない。  ここでもまた、皆を騙しているような気がして居心地が悪かった。  その上、紫苑という心に決めた相手もいる。それらもあいまって、悠葉はひきつった苦笑いを浮かべることしかできなかった。  やがて、須能と悠葉を取り囲んでいた人垣がふと途絶えた。挨拶がひと段落ついたらしく、須能も少し疲れたように長い息を吐いた。 「悠葉、疲れたやろ。何か食べよか」 「ああ……せやな」 「ここで待っとき。悠葉の好きそうな肉取ってきたるわ」 「うん……。あ、でもその前に、ちょっと外の空気吸ってきてもええ?」 「ええけど、会場から離れたらあかんで。絶対、人のおらんところいったらあかんからな、ええな?」 「はいはい」  著名人たちがこんなにもたくさんいるのだから、ここはどこよりも安全だろう。突然の子ども扱いに憮然としつつ、悠葉は庭園から屋内に入ってパーティーホールを抜け、エントランスロビーのほうへ移動することにした。  須能は付き人を連れて、すいすいと人混みを縫ってビュッフェコーナーのほうへ消えていった。オーラというか気配を消しているのか、ついさっきまで歓談の中心にいたとは思えないほどスムーズに動き回る須能の姿を見て、悠葉はなんだか感心してしまった。 「慣れてんなぁ。……はぁ〜……疲れた」  ロビーには、瀟洒なデザインのソファとテーブルが置かれていた。パーティーホールの華やいだ空間とは打って変わって、そこはとても静かだった。招待客らは歓談に忙しいようで、誰もロビーには出てきていない。  これ幸いとソファに浅く腰掛け、悠葉は思い切りため息をついた。  静かな場所にひとりになり、ようやくいつもの自分に戻れたような気がする。思っていた以上に肩に力が入っていたらしく、着物をずしりと重く感じた。 「……帰りたい」  舞台に立つのとは違う緊張の連続で、すっかり疲れてしまった。早く着物を脱いで畳の上に大の字になりたい。  それに、この会場には、重くきつい香りが満ち満ちていてそれも辛い。着飾った大人たちの香水の匂いだろうか。人目がないのをいいことに、悠葉はソファにふんぞり返って「ぁぁ〜……きっつ」と呻いた。  その時、少し離れたところから足音がかすかに聞こえた。悠葉は慌てて背筋を伸ばし、気の抜けていた顔を引き締めて、壁にかけられている絵画を眺めているふりをした。 「あ……君は」  ふとそばで足音が止まるとともに、男の声が頭上から降ってくる。背後を振り仰いだ悠葉の視線の先に、金髪をオールバックにした長身の男が立っていた。  年齢は三十代なかばといったところだろうか。  ブルーに近い色をしたスーツの中に、肉厚な上半身がみっちりと詰まっていそうな立派な体躯をしている。 「須能様の息子さんだね。確か……悠葉くんだ」 「え? あ……はい、そうですけど」  筋肉質な体つきに甘いマスク。そして、自分の容姿をよく理解した上で白い歯をきらめかせながら笑う男の立ち振る舞い方を見るに、こういった社交場には慣れているのだろう。  どこかで見たような顔ではある。きっと、ついさっき挨拶を交わしたたくさんの人物の中の一人なのだろう。見覚えがあるような気はするが、名前はひとつも思い浮かんでこない。  バツの悪いをしていると、男は「あれ? わかんないかな、僕のこと」といって肩をすくめ、苦笑を浮かべた。悠葉は立ち上がり、男に向かってぺこりと頭を下げる。 「申し訳ありません。……ええと」 「ああ、僕は城之内マカド。アメリカンフットボールの代表選手だ。いやぁ……自分では結構有名人になったと思ってたけど、まだまだ修行が足りないな」 「いえ、そんな。稽古が忙しくて、あまりテレビを観ないもので……すみません」  実際のところ、悠葉も人並みにテレビは見るし好きなスポーツ選手は全力で応援するタイプだ。だがこの男は関わると面倒くさそうなので、悠葉は愛想笑いとともにさっさとホールに戻ろうとした。  だが、大きな身体でずいと進路を塞がれた。その上、城之内が身を屈めてしげしげと顔を覗き込んでくるものだから、悠葉は咄嗟に数歩後ずさる。 「な、なんですか?」 「日本の踊りなんかには全く興味なかったけど……近くで見れば見るほど綺麗な顔をしているなぁ、君は」 「……はぁ」 「いくつだっけ? 十八歳だったよね。それにオメガか……ふうん」  ”踊りなんて興味がない”と言われたことにもカチンときていたし、値踏みするような目つきでジロジロと眺め回されて、気分がいいわけがない。  初めての社交場とあって猫をかぶっていたけれど、こんな相手に愛想を振り撒く必要はないだろう。悠葉はジロリと城之内を睨み上げた。 「あの、もういいですか? 中で家元が待っているので」 「ああ……あの和服美人だよな。親子揃ってそのキツイ感じ、すごく色っぽいな」 「……」 「ねぇ君。ヒートの時はどうしてるの? ネックガードしてるってことは、まだ番がいないんでしょ?」 「……はい?」  一瞬何を言われたのかわからなくなるくらい、無神経なセクハラ発言だ。悠葉が絶句していると、城之内はさらに悠葉に顔を近づけ、ここぞとばかりのキメ顔(のようなもの)でこう囁きかけてきた。 「俺もまだフリーなんだ。ねぇ、ひとりでヒートをやりすごすのはつらいだろ? 俺だったら、何日でも、朝から晩まで抱いてあげられるよ?」 「……っ、な、何言うてんねんあんた。きっしょ……」  嫌悪感のあまり顔がひきつる。不快感もあらわな顔で思わず本音を漏らした悠葉を見下ろす、城之内の目が、猛々しくギラリと光った。 「へぇ〜〜かわいいね、それ関西弁? 気も強そうだし最高だなぁ。この俺にそんなこと言えちゃうなんて、マジそそる」 「ちょ……触んなや!!」  薄墨色の羽織から覗く手首をいきなり捕まれ、悠葉は反射的にその手を振り払おうとした。だが、体格差がありすぎてビクともしない。  じっとりと汗ばんだ分厚い手は、ひどく熱い。気持ち悪さのあまり身が竦み、声が出なくなってしまう。  顔を真っ青にした悠葉を見下ろす城之内は、もはや隠すでもなく卑しい笑みを浮かべている。強引に自分のほうへ悠葉を引き寄せ、うっそりと目を細めた。 「ねぇ、このパーティに招待されてるってことは、君も上に部屋が準備されてんだろ? 行っていいよね? こんなつまんないパーティ抜け出してさ、俺とイイことしようよ」 「いっ……いやや! 離せって……!!」 「まぁそう暴れんなって。ねぇ、相性良かったらさ、俺の番にしてあげてもいいよ? 君みたいに若くて生意気そうなオメガ、俺、大好きなんだよね」 「違っ……俺はオメガじゃ」 「ははっ、逃げたいからって今更何言ってんだよ。……ほら、バレる前にとっとと行こうね。たっぷり可愛がってあげるよ」  恐怖のあまり全身が強張って、抗いたいのに、ろくに身体が動かなかった。  力でも体格でも優勢なアルファに強引な手口を使われることが、こうも恐ろしいものとは思わなかった。   ——どうしよ、逃げられへん。どうしよう……!  こうなってみて初めて、悠葉はこれまで若き日に須能が晒されてきた恐怖を、身をもって理解した。有栖川が言った”悠葉君たちは守られている”という言葉が、耳の奥でこだましながら迫ってくる。  力づくでパーティ会場から引き離されそうになったその時、悠葉の肩を強引に抱き込んでいた城之内の手がふと緩み、ぴたりとその場に立ち止まった。 「何してる。その手を離せ」  恐怖のあまりパニック状態に陥っている悠葉の鼓膜を震わせたその声は、焦がれる相手のそれと、とてもよく似ていた。  悠葉ははっと顔を上げ——……そして、大きく目を瞠る。  紫苑がいた。  ブラックスーツを身にまとって盛装した紫苑が、これまでにみたこともないくらい怖い顔をして、城之内を睨みつけていた。  普段はあんなにもたおやかで、優しい顔しかしない紫苑が、表情をなくすほどの怒りを全身に漲らせている。  金を溶かし込んだ空色の瞳は、まるで淡く発光しているかのような鋭さを秘めていて、あまりにも美しい。こんな状況だというのに、悠葉は紫苑の瞳に魅入ってしまった。 「聞こえないのか。俺の番から離れろと言ってるんだ」 「あ……ぁ……」  有無を言わさぬほどの凄みを帯びた低音の声とともに、紫苑は一歩二歩と悠葉の方へと歩み寄ってきた。  すると城之内は、弾かれたように悠葉から手を離し、じりじりと後ろに後ずさる。  城之内から解放されるとともに紫苑の腕に抱き留められ、慣れた柔らかな匂いに包まれる。安堵するあまり、悠葉はようやく詰めていた息を吐き出すことができた。  悠葉を支えながらも、紫苑は突き刺すような視線を城之内にから逸らさない。  まばたきもせずに城之内を見据える紫苑の全身から溢れ出すのは、沸点を超え、あたりを凍てつかせるほどの冷え冷えとした怒りだった。  それにあてられでもしたのだろうか。城之内は顔を真っ青にしながら「あ……あの、す、すみませんでした……そんなつもりじゃ」と震える声で繰り返している。  とそこへ、付き人を連れた須能が廊下へ駆け出してきた。 「悠葉!! どこ行って……え? 紫苑!?」  悠葉の肩を抱く紫苑と、真っ青な顔で震えている城之内を見比べて状況を理解したらしい。須能はすぐ、大柄な付き人たちに「あの男、捕まえといて」と言い渡し、悠葉たちのもとへ駆け寄ってきた。 「悠葉……! はぁ……もう、せやからひとりになるなて言うたやろ!」 「……ご、ごめん……」 「ったく……まぁ、説教はあとや」  須能は安堵したように悠葉の肩に手を置いて、紫苑を見上げて懐かしげに微笑んだ。 「紫苑、ええとこに来てくれたんやね。ありがとう」 「いえ。お久しぶりです、須能様」 「帰国は来月ちゃうかったん? それに……どうやってこのパーティに?」 「それは……あっ、悠葉!?」  紫苑に加え須能もすぐそばにいるという安心感から、とうとう気が遠くなってしまった悠葉である。へなへな……と紫苑に縋りながらその場にへたり込んでしまった。一緒になってしゃがみこんだ紫苑に抱き留められたが、くらくらとめまいがする。 「悠葉、大丈夫?」 「ごめ……なんか、ほっとして」 「……」  数秒黙った紫苑の手に力がこもるのを、ふと感じた。 「須能様、悠葉を部屋で休ませてもいいですか?」 「あぁ……せやな、そのほうがええ。頼むわ」  懐から取り出したカードキーを、須能が紫苑に手渡す。紫苑にそっと腕を取られ、悠葉はふらふらと立ち上がった。 「歩ける?」 「……うん、いける」 「では、失礼します」  礼儀正しく須能に一礼し、悠葉を支えて歩き出す紫苑の横顔を見上げる。  生身の紫苑がすぐそこにいることが夢のようで、いまだに信じられなかった。

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