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〈7〉
部屋に入った瞬間、紫苑に抱きしめられた。
息を吐くこともままならないほどの強い抱擁に戸惑いはしたけれど、それは一瞬のことだった。
焦がれた体温に包まれていることに安堵して、全身から力が抜ける。悠葉は目を閉じて紫苑に身を委ねた。
「……はぁ……悠葉」
悠葉の耳を、紫苑のため息混じりの声がくすぐった。それだけでぞくぞくっと全身が甘く震え上がり、悠葉は漏れそうになる声を抑えるために唇を引き結ぶ。
両手を持ち上げて紫苑の背中に腕を回すと、記憶していたよりも少し逞しくなった肉体が微かに揺れる。そしてもう一度、紫苑は長い長いため息をついた。
「ぞっとした……悠葉が、変な男に連れ去られそうになってんだもん」
「ご、ごめん……。ありがとな、助けてくれて」
「いや……」
悠葉が身じろぎをすると、ふと我に返ったように紫苑は腕の力を弱めた。顔を上げれば、そのまま間近で見つめ合う格好になる。
潤んだ空色の瞳と、間近で視線が重なった。
ついさっき垣間見えた凄絶な怒りはすっかり鳴りをひそめているようだ。鮮やかな空色のなか、まろやかにとろめく金色の瞳は明るく澄み、優しく悠葉を見つめ返している。
綺麗な瞳だ。
あたたかな体温に包まれながら見つめられるうち、とろんと目から力が抜けてゆく。
——紫苑や。ほんまに……紫苑がここに……。
ただただうっとりと紫苑を見上げていた悠葉の唇に、ふと柔らかなものが触れた。少し乾いた熱い唇が悠葉のそれに重なって、柔らかく啄まれている。
「ん……」
悠葉が吐息をこぼすと、ぐ……と腰に回ったままの紫苑の腕に力がこもり、さらに身体が密着する。
紫苑の腕は、こんなにも力強く頼もしいものだっただろうか。ついこの間まで、腕相撲をすれば悠葉が勝った。背丈だってほとんど同じ時期が長かったというのに……。
「ん、っ……は……」
悠葉が薄く唇を開くと、とろりと濡れはじめた紫苑の唇がさらに深く重なった。とろけた粘膜が触れ合ううち、どこか遠慮がちだった紫苑の唇が、熱を帯び始めていくのがわかった。
もっと欲しくて、悠葉は大きく口を開いた。すると、それに応えるように挿入された紫苑の舌が、悠葉のそれと絡まり合う。艶かしく口内を愛撫され、淫らな心地よさに嘆息があふれた。
膝から力が抜けそうになり、しがみつくように紫苑に縋ると、微かなリップ音とともに唇が離れた。
濡れた空色の瞳と視線が重なる。ひりつくような熱を秘めた眼差しに射抜かれ、悠葉の胸は大きく高鳴る。
「……会いたかった」
「っ……」
「会いたかった、ずっと。……悠葉を抱きしめたくて抱きしめたくて、俺……」
ふたたび唇が重なったかと思えば、すぐに濃厚なキスで吐息を奪われる。息を吐く暇も与えられないほどに求められ、嬉しくて嬉しくて、悠葉は両腕でしっかりと紫苑を抱き返しながら、甘く激しいキスに酔いしれた。
「んっ……ぁ、ふっ……ン」
「悠葉、好きだよ」
「ぁ……はぁっ……おれも、おれも……っ」
「好きだ。……悠葉、悠葉」
キスの隙間で何度も名前を囁かれ、そのたび身も心も溶けてゆくほどに幸せだった。
部屋のドアに押し付けられるような格好でもつれあいながら、夢中になって口付けを交わすうち、これまで囚われていた不安も、恐れも、なにもかもが泡のように消えていく。
柔らかな舌であやされ、上顎を撫ぜられるたび、「ふぁ……っ」と情けない声が漏れてしまう。あの奥手な紫苑がこうも情熱的に求めてくれるのかと驚きつつも幸せで、気持ちが良くて——……いよいよ腰に力が入らなくなり、悠葉は立っていられなくなってしまった。
「紫苑……っ、待っ……」
「……ん?」
「……もう、立ってられへん……」
全く力の入らない顔で紫苑を見上げる。すると紫苑は眉間に深い皺を寄せ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「紫苑……?」
「……ごめん」
「へ?」
「いきなりこんなにがっつかれて、嫌だったよね。……ごめん、我慢できなくて」
「し、紫苑……」
あれだけ色っぽく雄々しいキスで悠葉を蕩けさせておきながら、紫苑はしゅんとなっている。悠葉は思わず噴き出して、紫苑の首に腕を絡めた。
「何言ってんねん! イヤなわけないやん」
「でも、いきなり舌入れるとかさ……」
「ふふっ……あははっ」
男に凄む姿や、思いがけず巧みで大人びたキスに驚いた。海外で暮らすうち紫苑はすっかり変わってしまったのだろうと思っていたが、そういうわけではなかったようだ。
成長した紫苑の姿にうっとりさせられたが、性根の部分は変わっていないことにホッとして、思わず笑いが溢れた。
腕を支えられながらソファに座ると、紫苑は跪いて、悠葉の顔をじっと見上げた。
「……悠葉。どうして教えてくれなかったの、次期家元に指名されたこと」
キスの甘い余韻から抜けきっていないところへ飛んできた紫苑の問いに、すぅ……と体温が下がっていく。
「……いやそれは、その…………ていうか、誰か聞いたん? 双子か?」
「いや、香純から聞いたんだ。それで悠葉と喧嘩したってことも」
「香純から!? なんで……!?」
「昔からたまに悩み相談みたいな感じで、香純の話を聞くことがあって」
「え!? そうなん!?」
「いつも”悠葉には内緒にして”って言われるから黙ってたけど……まぁ、学校生活のこととか、友達関係のこととか……小さい頃から色々と」
「はぁ? いやいや……なんで兄貴の俺通り越して紫苑に相談してんねん、あいつ……」
「悠葉は近すぎるんだよ。家族で、同門で、ライバルでもあって……なかなか素直になれないんだろうな」
「まぁ……そらわかんねんけど」
紫苑の負担になりたくない一心で胸に抱え込んできたことがたくさんあるというのに、香純ときたら——……と、悠葉は内心憮然としていた。だが紫苑はなおも心配そうな表情のまま、悠葉を真っ直ぐに見つめている。
「前に電話したとき、すこし様子がおかしいなとは思ってたんだ。なにか、俺にはいえない事情があった?」
返事に窮していると、紫苑はふと、薄く柔らかな笑みを浮かべた。
隠していたことを責められるかと思い、一瞬肝が冷えたけれど、そんな気配はまったくない。
むしろ紫苑は、全てを許して包み込むような目をしている。柔らかなもので心ごと包み込まれるような感覚に力が抜け、悠葉はとつとつと、紫苑に話したくても話せなかったことを、少しずつ言葉にしていった。
次期家元を継ぐことになり、家族関係がギスギスしていること。
指名されたとはいえ、自分自身、まだ覚悟ができていなくて怯んでいたこと。
そういったモヤモヤを紫苑に聞いてほしい、話すうちに気持ちの整理がつくかもしれないと思っていたけれど、紫苑は紫苑で大事なときだ。邪魔はしたくないし、紫苑を励まし、支える立場でありたくて、何も言い出せなかったことも。
「あとは、前に電話でもいうたけど、紫苑に色っぽいオメガが迫ってきて、うっかり番なんかになってへんか不安やったりして、まぁ色々気忙しかってん」
「いやいや、ないってそれは」
「うん、わかってる。でもな、わかってても不安やってん。……けど、いざ顔合わせてみたら、なんや心配いらんかったやんて、思えたっていうか……」
悠葉を見つめる紫苑の眼差し、情熱的な抱擁とキス。
触れて、感じて確かめ合うことができて、これまで感じていた心配ごとがすべてバカらしくなった。
紫苑を疑う気持ちはなかったけれど、周りが紫苑に手を出してきたら、ノンセクシュアルの自分は太刀打ちができない——それが歯痒くて、もどかしかったのだ。
そんなことをとつとつと紫苑に話していると、紫苑がすっと立ち上がって悠葉の隣に座り直す。
そしてどことなく焦れたような顔をして、早口でこんなことを言いはじめた。
「悠葉はそういうけど、俺だってずっと不安だった! 悠葉、舞台にたくさん立つようになってどんどん大人っぽくなっていくし、ファンもたくさんいるみたいだし。華やかな芸能界でどんどん有名人と知り合うだろうから、俺がイギリス行ってる間に、俺のことなんて忘れちゃうんじゃないかって……!」
「……え? は? 俺が紫苑を忘れる?」
「そうだよ! SNS見たことある? 悠葉の舞台を見に行ったお客さんとかがたくさん呟いてるんだけど、中には熱狂的なファンもいて、なんかヒヤヒヤするようなこと言ってる奴もいるしさ」
「え、知らん……。俺、エゴサせーへんし」
「知らないの!? ネックガードしてるから、みんな悠葉のことオメガだと思ってるだろ? でも、舞台の時は外すだろ? そういうの、一部のファンからしたらすごくその……劣情を煽られているというかなんというか……」
「劣情」
「と、とにかく! もっと自衛してほしいのに、さっきもふらふら須能様から離れて変な男に捕まってるしさ! 俺、悠葉に何かあったらと思うとほんと不安で……!!」
言葉を募らせるたび前のめりになってくる紫苑の勢いに押されて、悠葉もソファにのけぞる格好になってしまった。
目を丸くして呆気に取られていると、紫苑はぎゅっと唇をかみしめてどこか苦しげな顔をした。
「香純が教えてくれたんだ。悠葉が園遊会のパーティに招かれてるってこと。悠葉は場慣れしてないから絶対変なのに絡まれると思うし、心配なら早く帰ってきたほうがいいんじゃない? って。それ聞いて、なんだか俺、イヤな予感がして」
「へ!? あいつ、そんなことを……?」
「そう、だから急いで帰国を早めた。このホテルのオーナー一家のことはよく知ってるから、無理を言ってパーティに入れてもらえるよう頼み込んだんだ」
「えぇ?」
おっとり控えめだった紫苑が見せた行動力に、悠葉はただただ驚くばかりだ。目を丸くする悠葉を見つめて、紫苑は眉を顰めたまま目を伏せた。
「園遊会のパーティなんて、有力者のアルファだらけで油断ができない。フリーの我が子を連れてきて、その場で見合いみたいなことをするってよく聞くし」
「あー……うん、確かにお見合いパーティみたいやった」
「ほら! そりゃ、須能様がそばにいるから変なことにはならないと思ってたけど、権力もってるアルファなんて傲慢なエゴイストばかりだし、こんなに若くて綺麗な須能流の時期家元なんて喉から手が出るくらい欲しいに決まってる! 何かあってからじゃもう遅いだろ、だから俺っ……!」
「ちょ、紫苑、落ち着け。落ち着けって」
ヒートアップしていく紫苑の肩を軽く手で叩くと、紫苑はようやく我に返ったらしい。「ご、ごめん」と謝りつつ身を引いて、またため息をついた。
世界に影響力を持つ国城家のアルファとは思えないような発言が、紫苑の口からポンポンと飛び出してきたことにも驚かされるが、紫苑がそんなにも悠葉のことを考えていてくれたのかと思うと、純粋に嬉しかった。
照れくさくて照れくさくて、頬が熱くなってしまう。頬だけじゃなく体温まで一気に上昇してしまったようで、ひどく暑い。悠葉は羽織を脱ぎ、ソファに投げ出した。
「なんちゅーかその……紫苑て……めっちゃ俺のこと好きやん……」
「あっ、当たり前だろ!? 伝わってなかったの!?」
「いや、なんか、いつも言葉では優しいこと言うてくれるけど、いつもどっか引いてる感じしとったし、俺ばっかり紫苑のこと好きなんかなって思ったこともあったから……」
「そ、それは」
見上げた紫苑の瞳が、うるりと揺れる。
瞳に浮かんだ動揺の意味をはかりかね、悠葉は小さく首を傾げた。
「な、なんや? 図星か?」
「違うよ。……今からすごく気持ち悪いこと言うけど、いい? 引かれるかもしれないけど、俺の本音」
「本音? そんなん引くわけないやん。教えてぇや」
悠葉はソファの上で正座をして、紫苑の横顔を食い入るように見つめた。
すると紫苑はしばし逡巡するように視線を彷徨わせたあと、こう言った。
「イギリスに発つ前に、悠葉を抱きたかった」
「……。へぇ………………そ、それは……へぇ…………」
想像していたよりもド直球な本音だった。
心臓がバクバクと派手に暴れて、全身が茹で上がってしまったかのように熱くなる。
「し、紫苑も……そ、そんなこと考えんねや」
「そりゃ、考えるよ。ずっと……ずっと我慢してたんだ。でも、でももし、そういうことになったら、俺、絶対に悠葉のうなじ噛んじゃうし」
「うなじを? ……けど俺は」
うなじを噛まれたところで、紫苑の番になれるわけではないのだ。その事実に、何度自分に失望してきたことか。
うつむく悠葉に、紫苑は静かにこう問いかけてきた。
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