54 / 144

第54話

「なんにせよ、少しでもいい方向に向かったんなら良かったね。人は変われるもんだよね。そうだ、前に対人恐怖症の知り合いがいるって話したの覚えてる?」 「はい」 「彼はね、龍晟の小学校の時の同級生だったんだ。学校で先生に名前を呼ばれても、返事をすることすら出来なかったんだよ。 龍晟の実家は空手道場でね、先生も地元で信頼の厚い人だったし、ご両親が強い子にして欲しいと小学5年の時に入門させたんだ。 俺もそこの道場生だったんだけどさ、八神道場では前半の基本稽古の時は、道場生が皆、正面方向を向いて縦横きちっと揃えて並んで、号令に合わせて同じ動きをするの。 で、端から順に号令をかける順番が回って来るんだ。先頭の奴が『正拳中段突き!いち、に、さん、し、』って感じで20まで数えたら、次に隣の奴が『正拳上段突き!いち、に、さん、し』ってね。 皆は号令に合わせて一動作ごとに『エイ!』って掛け声出すんだ。『いち!』『エイ!』『に!』『エイ!』って感じにね。 号令も掛け声も道場全体に響くぐらいの声でやらないと、『腹から声出せ!』って先生に叱られるんだけど、当然彼にとっては滅茶苦茶高いハードルなわけだよ。 自分の番が回って来ると、号令掛けなきゃって思いはするけど、息を吸うところまでで止まっちゃって過呼吸起こしそうになったり、泣き出しちゃったり・・・その度に先生は彼の横に立って色々言って聞かせるんだ。 『君は頭もいいし真面目だけど、人と目を合わせて自分の考えを話すのが苦手だ。でも、落ち着いて今の状況見てごらん。みんな、前を向いてて誰も君のことは見てないし、決まった言葉を言うだけでいいんだ。まずはここからやってみよう。 ここで堂々と腹から声が出せるようになったら、次は相手の顔を見る練習だ。 空手は相手と闘うものだから、相手を見ないで下向いてたら一発で倒される。子供同士でもガード無しに鳩尾みぞおちに食らったら、息が出来ない程苦しいぞ。上段蹴りを頭に食らったら気を失いそうになるぞ。 逆に、ここでコツコツやっていけば必ず君に怖いもんは無くなる』 こんな風にね。最初は号令の順番が来るたびに泣いていたけど、6年生の2学期ぐらいだったかなあ、小さかったけど、声が出せたんだ。 最初の時は何故か12ぐらいまでで止まってしまいそうになってさ、そうしたら、稽古中は私語厳禁なのに、龍晟が『のぶ!あと少しだ頑張れ!』って叫んだんだ。彼が涙声で『13』って再開したら、今度は皆の『エイ!』が応援するみたいに大きくなって、最後まで行ったときには全員でやったー!って大騒ぎになって。女の子なんかは泣いてたな。 そこから彼はどんどん変わっていってさ。中2ぐらいには、何のためらいもなく号令が掛けられるようになったし、道で偶然会って話しかけても、口数は少ないけど『蒼、元気か?』ぐらいは目を見て言ってくれるようになった」

ともだちにシェアしよう!