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第74話

いつから、そんな風に感じるようになったのか思い返す。 そして思い当たるのは、この部屋に越してきてそう日の経たない頃に、滅多に鳴らない陽向のスマホに掛かってきた電話。 意外なことに、相手は花村さんだった。 確かに以前、神田で花村さんに会ってカレーを奢って貰ったと嬉しそうに話していた。 陽向がそれほど親しくない人と外食をしたと聞いて、最初は耳を疑った。そして連絡先を交換しただの、花村さんは凄い人なんだと饒舌に話す陽向の姿も、俺を驚かせた。 内に籠りがちだった陽向が、沢井に追われる恐怖から解放され、ここまで進むことができたのだと嬉しかったのは本当だ。そして、きっかけをくれた花村さんにも感謝した。 花村さんからの電話を切った後、陽向はおずおずとこう切り出した。 「征治さん、明日の土曜日の夕方、ちょっと出掛けてきてもいい?」 「うん?どうしたの?」 「えっと・・・八神さんの叔父さんがやっている空手道場にちょっと見学に行きたいなあと。 えっとね、たまに、叔父さんの都合が悪い時とかに八神さんが代理で先生になることがあるらしくって、明日もそうだから花村さんも行くって。で、前に話した子供の頃対人恐怖症だった人も練習に来るから、会ってみないかって」 「そう。じゃあ行っておいでよ。俺も少し持ち帰った仕事があるし」 本当はそんなものなかったけれど、そう答えていた。 今の陽向に友達と呼べるような人間は殆どいない。 篠田さんとはそれなりに親しいようだが、あくまで作家と担当者という関係だ。 アルバイト先には70歳近い税理士と50代の事務処理の女性二人しかおらず、陽向が心を開き始めた頃から可愛がって貰っているようだが、完全に息子という扱いらしい。 唯一、陽向の傍にいた吉沢さんは過去のいきさつから、声が出るようになった報告をしたきりになっているはずだった。 陽向が俺ばかりを見てくれるのは嬉しいが、一方で俺ばかりでもいけないとどこかで思ってもいた。 元々、陽向は人から好かれる性質《たち》で、小学生の頃も中学に入ってからも友達は多かった。 引き取られた慶田盛家でも、使用人たち皆に可愛がられ、職人気質で難しいところもある重さんともあっという間に打ち解けた。 派手な性格ではなくても、本来なら人の輪の中で笑っているタイプの人間だったに違いなかった。 少しずつ傷が癒えつつある今、陽向がこの部屋の外に関心を持って一歩踏み出すのを応援してやるべきだと思い、背中を押したつもりだった。

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