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第76話
陽向の相談とは最近の悩み事かと思っていた。
「僕、八神さんの叔父さんの空手道場に入門しようと思うんだ」
驚いた。
最近、花村さんや八神さんに傾倒していると感じていたが、そこまでは想像していなかった。
そもそも、陽向と格闘技が繋がらない。
「火曜日と金曜日の6時から8時のクラス。終わって片付けして、まっすぐ帰ってきても9時になっちゃうんだ。征治さんが早い日は僕の方が遅くなっちゃうかもしれないけど、いいかなあ。あ、晩御飯は出掛ける前に用意しておくつもり」
「平日のそんな時間に八神さんや花村さん来てるの?」
「来てないよ。っていうか、あの二人は、あそこの道場生っていうわけじゃなくて、師範の資格を持っているから、土曜日に手伝いに行ったり体を動かしたくなった時に参加してるだけなんだって」
じゃあ、土曜日のクラスでないと会えないんじゃないのか?
「土曜日に出掛けちゃったら、征治さん休みなのに悪いし」
俺に気を遣っているのか?
「結構遠いんだろ?もっと近くにいくらでもありそうだけど」
陽向の考えを否定するつもりは無かったのに、そんな言葉が口をついていた。陽向の急激すぎる変化に戸惑っているのかもしれない。
「それがね・・・」
陽向が顔を曇らせた。
「流派にもよるみたいなんだけど・・・刺青やタトゥーがあると入門できないところが多くって・・・ほんとを言うとこれから入ろうとしているところもそうなんだ。だから先ず八神さんに相談してみたんだ」
自分からタトゥーがあることを八神さんたちに話したというのか?
「若い頃、僕の意思に関係なく無理やり彫られたものだって言った。それでもやりたいって。
あの道場をやっている先生は本業は印刷工場をされていて、区の会館を借りて夕方だけ空手を教えてるんだ。競技に出るような選手を育てるのが目的じゃなくて、健全な精神とそれが宿る健全な体を作る為の空手を広めたくてやってるって話だったから、もしかしたらと思って頼んでみた。
八神さんが上手く先生に話を通してくれて、特例扱いで受け入れてもらえることになったんだ」
「どうして空手をやりたくなったの?」
「・・・自分を、好きになりたいから」
「・・・眼鏡はめたままできるの?」
「道場では外す。素顔でやる」
そう言うと、陽向は口をキッと真一文字に結び硬い表情で空を睨んだ。
これは、本当に陽向なのか?ほんの数カ月前、一人で買い物に出かけ項垂れて帰ってきた陽向なのか?
喜ばしい変化のはずなのに、戸惑いが大きくてすぐには言葉が出てこない。
「それに、頼りになるかっこいい先輩たちもいるしね」
と、相好を崩した陽向の顔をまじまじと見つめてしまった。
陽向のやりたいことをやればいい、応援していると言うと、「ありがと」とにっこり笑って首に噛り付いてきた。
膝の上にこちらを向いて跨らせ、少し上にある大きな目をじっと覗き込んだ。自分でもその中に何を探そうとしているのか分からない。
だが、その瞳はあくまでも澄んでいて、清らかだった。
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