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第79話

正月明けから陽向は空手道場に通い始めた。 空手にはたくさんの流派があり、流派によってまるでルールが違う。 演武の様な型の習得を主とするもの、寸止めと言って対戦相手の体に当てる直前で止めて実際には打撃は加えないもの、打撃は加えるが下肢と肩のみ攻撃してよいもの。 陽向の通うところは、フルコンタクトと言って顔面へのパンチ、喉、金的などの急所以外の全身が攻撃対象で、その上防具もグローブも付けない。 脇腹や鳩尾みぞおちにパンチや膝蹴りが入れば、屈強な男でもしばらく呼吸が出来ない程の苦しさでくずおれ、頭部に回し蹴りを食らうと脳震盪を起こして倒れることもままあるらしい。 道着は着ているものの、それは素手で行うキックボクシングの様なもので、最も激しい部類に入る。K-1ルールを思い浮かべると分かりやすいかもしれない。 よりによってそんなハードなところへ入る陽向を心配してしまうのは仕方がないだろう。 早朝ランニングはしているものの、長い引きこもり生活で紫外線に晒すのさえ心配になるような真っ白い柔肌に、あの華奢な骨格なのだ。 それ以前に、攻撃性や闘争心のようなものが陽向に備わっているのかも甚だ疑問だ。 案の定、陽向は初日からボロボロになって帰って来た。 初心者なので、当然、組手(くみて)などはさせてもらえず、基本稽古とミットへのパンチとキックの練習だけだったらしいのに、両の拳と向う脛が赤く腫れあがっている。 「これでも、ジュニア用の柔らかいミットだったんだよ。本当はもっと硬いミットで練習するんだ。僕だけ小学生扱い」 笑いながら、首の後ろから大判の白い傷パッドを剥がす。道着が着崩れるとタトゥーが見えてしまうので隠す約束なのだ。 「これ、汗かいても剥がれなくて良かったけど、4枚で500円近いって高いなぁ。ひと月で8枚は使うもんね。ネットで安いの探そうっと」 本人はそんなどうでもいいことを呟きながらケロッとしているけど、見ているだけで痛々しい。 「陽向、早く冷やした方がいいと思うよ」 と、つい口を出してしまった。 そのうちミットが硬い物に変わり、簡単な組手の練習が始まると、陽向の体にはアザや生傷が増えていった。 パンチやキックはそのまま受けると当然相当なダメージを食らうので、腕や足で防御をする。陽向の説明では上段受けやら下段払いやらガードの為の技も色々あるそうだ。 だが、まだそれらが上手く扱えずまともに打撃を受けてしまったり、中途半端なガードで却って骨の部分を打ち付けてしまう結果の傷らしい。 「これでも先輩たちは随分手加減してくれてるんだけどなあ」 イテテと顔を顰めながらぼやいても、陽向は決して休むとも辞めるとも言わない。どうやら稽古の無い日は自分で筋トレまでしているようだった。 俺は稽古のある火曜と金曜は残業して外で食べてくるから、晩飯の準備をしなくていいと陽向に伝えた。 執筆活動をしつつ、まだ税理士事務所のアルバイトも続けている陽向の負担を軽くしてやりたい気持ちもあるが、なんとも辛かったのだ。 明かりのついた温かい部屋へ帰って来るのにあっという間に慣れてしまったせいか、自分で鍵を開けシンと冷え切った暗い部屋に帰り、稽古でまたアザを作っているであろう陽向を心配しながら帰りをひとり待つのが、辛い。 それが、あすなろ出版へ出向いているのなら、また違っただろう。 陽向の空手に関しては、何か踏み込めないラインがあるような気がしてしまうのだ。

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