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第85話  <第9章>

結局、あの後じっくりと征治さんと話し合うことが出来ないまま、家を出ることになってしまった。 そもそも少し前から征治さんはとても忙しそうだった。家に居るときもパソコンで資料を作っていたり、山瀬さんや仕事がらみの人から度々電話が掛かってきて対応に追われていた。 だけど、そのせいだけじゃない、僕があんなに間際まで征治さんに打ち明けられなかったのは。 僕の酷い時期を知っている征治さんは、僕の傷を癒すために大事に大事に僕を包んでくれていた。 どんなに僕が情けない姿を晒しても、大丈夫、大丈夫と背中を撫で続け、愛のおまじないを掛けてくれる。 僕がなかなか答えが見つからずに悩んでいる間も、それに気付いていながら黙って見守ってくれているのを感じていた。 僕がここまで立ち直れたのは、隣に征治さんがいてくれたお陰だ。 いつも僕のことを一番に考えてくれる大きくて優しい人。 だからきっと、僕がしようとしていることを知ったら、酷く心配するに違いなかった。そして、また僕が心身ともに傷付かないように止めるに違いなかった。 まだまだ弱い僕は、征治さんの心配する姿を目の当りにしたら、決心が揺らいでしまうかもしれない。楽な方へ流れてしまうかもしれない。 あまりにも征治さんの腕の中が心地いいから。 ずっとこの腕の中でぬくぬくしていたいと思ってしまうから。 だけど、僕の今回の行動のきっかけは征治さんでもあるのだ。 山瀬さんと三人で出版を祝う会をしたあの日。 T大の同窓生だという見知らぬ男が征治さんを強請(ゆす)りにやって来た。 だが、征治さんは毅然とした態度でそれを撥ね退けた。 あの後の会食で、それを山瀬さんが褒めた。 「相手に隙を見せず、いい対応の仕方だった。だが完全に追い詰めすぎると窮鼠猫を噛むからな。ちゃんと最後は泣かせて落とすんだから、大したもんだ」 「相手が良かったんですよ。およそ人なんて脅したことなどなさそうで、時々手が震えてました。ハッタリが効いたんです」 そんな風に征治さんは笑っていたけれど、 『私には後ろ暗いことは何も無いが、ゼロからここまで必死に積み上げやってきた、という確固たる自負はある』 『私は微塵も揺らいだりしない』 これらの言葉に嘘は無いと思った。 そして、『これから胸を張って生きていけますか?』という言葉を聞いた時、僕はガツンと殴られた気がしたのだ。 こういう風に言い切れる征治さんが美しさを感じさせるほど気高く逞しく、眩しく見えた。 それに対して、僕はどうだ? 山瀬さんがからかって 「ひなたん、『いかなる手段を使ってでも徹底的にあなたを排除して、彼を護ります』なんて言われて、征治の事、惚れ直しただろ」 なんて言って笑ったけど、本当は少し複雑だった。 僕はいつもこの優しく強い人に守られてばかりだ。 それに、自信があると言えることが何一つ無い。 このままで胸を張って生きていける? 征治さんと肩を並べて歩いて行ける? それが長い模索の始まりだった。

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