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第87話

「あとね、僕の場合は空手が合ってたんだと思う。 これは格闘技全般に言えることだけど、目の前の対戦相手から目を逸らしたら、即、やられるわけよ。至近距離の相手の目や体の動きをよく見ていないと自分が痛い目にあっちゃうからね。 対戦相手だってこっちをそうやって見てくるから、他人の視線はそういうところでも慣れていったかもしれないね。 それからもう一つ。八神先生が常々道場生たちに言ってたことなんだけどさ。 学校なんかで喧嘩になっても絶対に空手の攻撃技を掛けたらいけない。防御はいい。全く防御してない相手に攻撃したら怪我をさせて、君たちが加害者になってしまう。攻撃技を使っていいのは、身に危険を感じたときだけ。 じゃあ、防御でずっと相手から殴られるのを耐えるんですかって誰かが聞いた。 訓練してない素人は無駄な力みと無駄振りが多いから、すぐに疲れてへばる。でもまず殴り合いになりそうになったら、丹田たんでんに力を入れて構えて、腹の底から『押忍おすっ!!』って気合を入れて声を出せ。そして、相手の目を睨みつけて精神面で先に潰せ。大抵の奴はそれで怯む。 ガキの頃なんて単純だからさ。それを聞いて、なるほどなあと思うと同時に、僕はもう自分で自分の身を護れるんじゃないか、何もびくびくしなくていいじゃないかって気が楽になったんだ。 君の不特定多数の人の前に顔を晒すのが怖い原因は、きっと僕と同じではないから、君にもそのまま当てはまるかどうかはわからないけどね」 確かに僕の原因と恐れる対象は、全然違う。 だが、共通する点もある。 それは、自己肯定感の低さ。 もう一度、僕が嫌だと思っていることを考え直す。 顔を隠したいのは、僕の過去を知る人がいたらどうしようと怯えているから。それは何故か? それをネタに今の幸せな生活を脅かしにやって来るやつがいるかもしれないから? だけど、そもそもあのころに接した人間にバッタリ会う可能性はとても低いし、あんな業界だから性善説を取るのは難しとは思うが、皆が皆、僕を脅しに来るわけじゃないだろう。 それにもし、そんな奴がやって来たって、僕だって征治さんみたいに戦えばいいんだ。今の僕にはきっと力を貸してくれる人たちもいる。 それとも、それ以前に、記憶の奥底にしまい込んだじくじくした傷痕に触れられたくないのか? 僕自身が恥じている、過去の自分の目を背けたい部分。 体が汚れているのもそうだけど、それ以上に投げやりになって正しい判断が下せなかったこと、脅しに屈して言いなりになったこと、死を願うという間違った方向へ進みかけたこと。 そこのところが征治さんの言うところの排膿(はいのう)が済んでいないのだ。 もし排膿が済めば、もっと堂々としていられるのだろうか。 では、それを払拭して、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいのか。 過去に戻ることは出来ない。 じゃあ、今の僕に出来ることは?

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