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第88話
ぐるぐる考え続けて辿り着いた方法が正しいのかは分からない。
でも起きてしまった過去が変えられないのなら、これから先僕の様に苦しみ続けることになる人を代わりに助けられたら、僕は自分を「よくやった」と褒めてやれるようになるかもしれない。
苦しみを知っている僕だから出来ることなんだ。
でも、この理屈はあくまで自己満足で他の人には理解してもらえないかもしれない。
僕のことを一番分かってくれている征治さんでさえも。
だけど、僕は征治さんみたいに胸を張って生きられるようになりたいんだ。
征治さんの事を、陰から眩しそうに目を細めて見上げているばかりじゃなく、隣に並んで立ちたい。
そして自分に自信が持てたら、征治さんに言いたいことがあるんだ。
あの日。
僕のプレゼンテーションは最悪だった。
話しているうちに気が昂って・・・それは征治さんに対してじゃなく、僕に病巣を作った奴らに対して怒りが湧いて来て、感情的に叫んでしまった。
征治さんは驚いていた。
だからなのか、きっといつもの様に手際よくこちらから言葉を引き出し、一つ一つ順に論破して説得してくるだろうと思っていたのに、「無茶をするな」と言ったきり、あっさりと引きさがった。
飛んでくるであろう質問に答える形で色々補足をしていこうと思っていた僕は少し拍子抜けした。僕が感情を昂らせて涙なんて零してしまったせいかもしれない。
あとでベッドの中で話そう。僕が一番安心して素直でいられる征治さんの腕の中でなら、きっともうちょっと上手くここに至るまでの経緯や僕の思いを話せる。
そう思っていたのに、征治さんは「急ぎの仕事が終わってないから」と僕だけ寝室に行かせた。
土曜夜の初のイレギュラー。
征治さんは本当は凄く怒っているのかもしれない。
それならなおの事、ちゃんと話さなきゃとずっとベッドに座って待っていたけど、征治さんは部屋に入ってこなかった。
そっとリビングの様子を窺いに行くと、ガラスの扉越しに、テーブルの上で開いたパソコンの画面を厳しい顔で睨んでいる横顔が見えた。もう一度ベッドに戻って待ち続けたけど、いつまで待っても征治さんは来なかった。
はっと気付けばもう朝になっていて、慌てて隣を確認したけど征治さんの姿は無く、枕を使った形跡もない。
飛び起きてリビングの扉を開けると、征治さんの姿はキッチンにあった。
「・・・征治さん、寝てないの?」
僕の声に振り返った征治さんは、いつも通りの優しい笑顔で「おはよ」とハグをしてくれた。
「今朝は久しぶりに陽向の好きなフレンチトーストにしようと思って。顔洗っておいで。焼き始めるから。確定申告までは土、日も事務所に出るんだろ?」
「・・・うん」
・・・怒っていない?
征治さんの顔色を窺うが、征治さんはクスッと笑って「髪、短い方が寝癖が目立つね。直しておいで」と僕の頭をクシャクシャかき混ぜた。
朝食を食べている間も、征治さんは全くの通常モードで、僕はホッと胸を撫でおろした。
「陽向も確定申告しなきゃならないんだっけ?」
「うん。だけどもう終わらせて郵送で提出したよ」
「陽向も事務所の顧客の申告書作るの?」
「えっとね、基本は帳簿を作るところまで。だけど、今はソフトが優秀だから、帳簿から自動で損益計算書も貸借対照表も作成されて、そのデータに必要な控除とかの要素を入力すれば、基本の申告書は出来ちゃうの。
勿論、最終的には先生が目を通すし、そこまでの過程で先生に相談しないといけないところがちょくちょく出てきたりするけどね」
「それでも、この時期はとっても忙しいんだね」
「うん。うちの事務所の顧客は個人商店や不動産所得を計上する個人が多いからね。記帳代行サービスを請け負っているところは、纏めるだけで簡単なんだけどさ。
売上だけはレジのデータがあるけど、経費は1年分の領収書をジップロックにぎゅうぎゅう詰めて持ってくるお客さんもいるし、老夫婦の世帯なんかだと200枚近い医療費の領収書があるところも珍しくないから、それを一つ一つチェックしていくだけでもかなり時間が取られちゃうしね」
そんなどうでもいい会話にも、征治さんはふんふんといつもの様に相槌を打って聞いてくれるから、僕はすっかり安心してしまったのだ。
そして、大事なことを忘れていたんだ。
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