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第89話

それから、一気に忙しくなった。 僕自身の仕事の方は、これからの事を見越してかなり前倒しで書き進めていたのだが、税理士事務所の事務のおばさんの一人がインフルエンザに罹ってしまったのだ。 戦力が三分の一削がれたのだから影響は大きく、土日はフル出勤どころか残業にもなった。 征治さんは征治さんで、忙しそうだった。 ユニコルノの拡大路線に合わせてフロア面積の倍増を計画しているらしいのだが、同じビル内での増床が難航していて、一部の部門を近隣ビルに移転させる案もあるらしく、夜遅く帰って来てからも図面を拡げて、計算機を叩いたりしていた。 それでも僕たちはおはようのハグと、いってらっしゃい、お帰りなさい、おやすみなさいのキスは欠かさなかった。 次の土曜は、ちゃんと愛し合った。 「明日もアルバイトだからね」と僕の体を気遣いながら優しく抱いてくれたけど、疲れが溜まっていたのか、体を拭かれている間に僕は眠ってしまった。 かろうじて残っていた意識の中で、髪に触れられ「ごめんね」と囁かれた気がしたのだけれど。 行ってらっしゃいの時のハグが、少しずつ長くなっているような気がしたのだけれど。 唯一、一緒に食べられる朝ごはんの時に視線を感じて顔を上げると、いつもの優しい笑顔がそこにあるから、安心していた。 田中さんと最終調整をしたり、これからの事を考えて吐きそうになるような緊張と武者震いで、僕はいっぱいいっぱいだったから、その笑顔を見るとほっとしたのだ。 田中さんは、いかにも百戦錬磨のベテランという風貌の武骨な感じの人だった。 少し白髪の交じった短髪に、無精ひげ。 征治さんに、「こういう人と行くんだよ」とプリントアウトして渡したプロフィールによれば47歳。年相応の皺が目尻と眉間に刻まれている。あまりに鋭い目つきに、ドラマで見るマル暴の刑事デカみたいなイメージだが、元々は地方紙の記者だったそうだ。ルポタージュで賞を取ったこともあると翠さんから聞いている。そんなすごい人がよく僕なんかに力を貸してくれる気になったと思う。 最初は翠さんがジャーナリストだと聞いて、翠さんから取材や聞き込みの仕方やコツを教わろうと思ったのだ。どこから取っ掛かりを掴めばいいのか分からないまま、自分一人でやろうと考えていたから。 すると、翠さんは自分が協力すると言い出した。 とんでもないと思った。 あんな危険な奴らところに、まだ小さい子供がいる母親を、しかもモデルの様な容姿の人を連れて行くなんて危なすぎるし、目立ちすぎる。 だから調べようと思っているのはアングラな世界で、ヤクザが絡んでいる可能性が高いからと辞退したのだ。 翠さんはそれを聞いても微塵も怯んだ様子はなかったけれど、それならなおの事一人でなんて無理だ、そっち方面に強い知り合いがいると紹介してくれたのが田中さんだった。

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