壁のネームプレートを確認し、病室のドアを前に、大きく深呼吸をした。 ー丹田(たんでん)に力を込めろ。 ー視線は絶対に自分から外すな。 心の中で自分にそう言い聞かせる。 拳を固く握り、扉をノックした。 暫く待つと「どうぞ」という男の声が中から聞こえた。 もう一度、深呼吸をしてスライドドアに手を掛けた。 この病室は個室であるが、ベッドまでの間にカーテンが仕切りの様に垂れ下がっている。 静かにカーテンを引くと、ベッドに横たわっている男が一人。 「失礼します」と言って、カーテンの内側に足を踏み入れると、男は怪訝な表情を浮かべた。 そこにいる男は間違いなく芹澤であるはずだった。だが、記憶の中の男とはまるで別人のようにも見える。 厳(いか)つく、ギラついていた大男が、油が抜け干からびた印象なのは、ここが病室で、病人らしく入院服を着て、点滴やらコードやらに繋がれているからなのか。めっきり白髪が増えたからなのか。 「どちらさんで？病室お間違えじゃないですかね」 突っ立ったまま凝視していたのを咎めるような口ぶりで、こちらをじろりと睨み返す様はやはりあの芹澤のものだった。 「芹澤さん・・・お久しぶりです。僕が誰だか、分かりますか？」 男が目を眇める。 「・・・知らないね。昔、金を貸したお客さん？ なんか文句でも言いに来たのか？それとも恨みでも晴らしに来たか？」 「・・・違います。芹澤さん、今でもあのマンションにお住まいなんですね。今もあの最上階の部屋にはペットを閉じ込めているんですか？」 芹澤の肩眉がぴくっと吊り上がった。 そして「誰だ、お前」と低く警戒した声を出した。 「昔、ブランっていうペットを飼っていたことは覚えていますか？」 男は眇めていた目をカッと見開き、上体を起こそうとした。が、どこかが痛かったのか顔を歪ませ呻いた。 男が手元の四角いリモコンを手繰り寄せボタンを押すと、ウィーンと小さな音を立てながらベッドの一部が持ち上がり背凭れのようになった。 そこへ背を預けながら、男はじろじろとこちらの顔を観察している。 「お前・・・まさか・・・いや、ブランは口がきけない筈だ。もう少しこっちに来てくれ。左目は失明しかかってるし、右も良くは見えない」 言われた通りベッドの傍まで足を進めた。 「やっぱり・・・お前・・・ブランなんだな？そうだろ？」 急に懐かしむような声色を出されて、戸惑ってしまう。 「この色の白さと、大きな目にくせっ毛。やっぱりお前はブランだ。昔から器量良しだったが・・・随分べっぴんになったなあ」 眩しそうに目を瞬かせてこちらを見上げていた芹澤は、ふと我に返ったように硬い声を出した。 「お前、本当は喋れたのにずっと騙していたのか」 僕はかぶりを振った。 「いいえ、声を取り戻したのは最近です」 「はっ、そんなドラマみたいなことがあるのか。ストレスで記憶喪失になったり・・・ストレス・・・あー、ストレスなあ」 男は自嘲的な笑みを浮かべて、溜息をつく。 「別に芹澤さんのせいで声が出なくなっていたわけじゃありません」 フッと笑った芹澤は 「そんな声してたんだな。お前のイメージに合ってるっていうか・・・柔らかくて耳障りのいい声だ」 とぼそぼそと呟いた。