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第94話
「そう言えば、お前、脱走したんだってな。えーっとなんて名前だったか・・・とにかく俺の次の飼い主んところから。俺のところにも、戻ってきてないかって問い合わせがきたぞ。結局あの時、捕まらずに逃げおおせたのか?」
頷くと、芹澤はくつくつ笑って壁に立てかけてあった折り畳み椅子を指さし、座る様に勧めてきた。
パイプ椅子をベッドの近くに持ってきて座る。
病室に入る前の緊張が嘘のようだ。
僕に色んなものを刻み付けた男に会えば、記憶の奥底に沈めていたものがまた噴出してきて、萎縮してしまうかもしれないと心配していたのに、今、この男に対して不思議と恐怖は感じない。
「それにしても、またお前に会えるとはな・・・。それも、お前の方から会いに来るなんてな。
何しに来たんだ?お前こそ俺に恨みを晴らしに来たか?ご覧の通り、俺は今身動き取れんし、殺やるなら今だぞ」
芹澤も物騒な事を言う割には、穏やかな口調だ。
「もっとも、もうそう長くはない命だが。持病のせいで全身の血管がボロボロだ。次に心筋梗塞起こしたら危ないと言われている。
今回はこの先、脚を切り落としたくなかったら手術を受けろと医者に言われて、人工血管入れるバイパス手術したが・・・目もやられているし、もう色々面倒になってきた。
お前にサクッと殺やられる方が楽でいいかもしれん」
壁に貼られている芹澤のプレートを確認する限り、この男はまだ50代半ばのはずだが、すっかり老人の様だ。肌の艶も無く、僕のことを軽々と持ち上げのしのし歩いていた頃の面影は無い。
「おい、何とか言えよ。それとも、俺の情けない姿を見てもう満足したのか?復讐のし甲斐が無いってか」
「芹澤さんに聞きたいことがあって、ここに来ました」
「聞きたいこと?」
「はい。僕が働いていた男娼のデリバリーの店は、今どうなっていますか?あの、組織は今でもあの界隈に居ますか?あなたが会員になっていたペット愛好クラブのことも知りたい。それから、昔、飛び降り自殺したボーイのことも何か知っているなら教えて欲しいです」
芹澤は大仰に顔を顰めた。
「なんだ、お前、サツにでもなったのか?それとも、どっかの組の回しもんか?」
「違います。これは、僕自身のために調べているんです。端的に言うと、過去のトラウマと向き合って乗り越えるために必要なんです」
芹澤は理解できないという顔をした。
「今更、そんなことを知ってどうするんだ。見たところ、小綺麗な格好して、まっとうな世界で生きている風じゃねえか。
せっかくやばい世界から抜け出せたんだ。そんな昔の事ほじくり返さず忘れちまった方がいいんじゃないのか?
それとも、やっぱり自分を苦しめた奴らに復讐しないと気が収まらないのか?」
「そんなじゃありません。言ったでしょう、僕自身の為だって。過去の傷のせいで山積みだった問題を少しずつ治してきました。だけどどうしても拭いきれないものがある。それがここであったことに起因していると思うから、向き合いたいんです。
その過程で、僕が経験したようなことが今も綿々と続いているなら、同じ目にあう青少年を少しでも救いたいと思います」
芹澤はじっとこっちを見たまま、黙り込んでいる。
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