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第111話

その2日後。外から帰って来た海琉が「明日、伯母が退院して帰って来る」と言った。 「まだ少し体にマヒが残ってるからここの仕事は暫くできんが、娘の方、わしの従姉いとこはすぐに復帰できるそうだ。やっと、君をここの仕事から解放してやれる。 旅行記書くのに、まだ島のどこにも行ってないだろう?なんだったらうちのダイビングツアーもタダで参加してくれていい。ここから船で少し移動したところに、マンタの通り道があって、そこで待ってると8割ぐらいの確率でマンタと遭遇出来る。シュノーケルでも見ることが出来るぞ。運が良ければウミガメにも会える」 海中を泳ぐマンタやウミガメを肉眼で見られるなんて、もの凄く魅力的な話だ。 だけど、僕はまだここへやって来た本当の目的を果たせていない。 それに・・・ 無事、目的を果たせたら、一刻も早く東京に、あの部屋に帰りたかった。 征治さんに会いたくて会いたくて、もう限界だった。 その夜、厨房の片づけが終わったところで海琉が声を掛けてきた。 「明日の朝は伯母を迎えに行ったりしなきゃならんから、漁に出ない。一緒に一杯やらんか?」 泡盛の瓶とグラスを二つ出すのを見て、慌てて下戸で酒は飲めないと謝る。代わりにジンジャエールのボトルを一つ貰った。 「君にはえらい世話になった。初めてここに来た時にはイカのむき身みたいに白い男だと思ったのに、いつの間にか焼けてるな」 ウミカジに籠りきりだったのに、洗濯や外回りの掃除だけでも紫外線が強すぎて肌の色が変わっている。 「君が手伝ってくれんかったら、ウミカジは終わりだったかも知れん。直前キャンセルなんか出したら、客にも悪いし、そんな事を口コミで書かれたらお終いだ」 「役に立てて良かったです」 「でも、なんで手伝ってくれたんだ?そんな義理も無いし、ただのお人好しなのか?なんか訳があるのか?」 海琉がこんな事を口に出したのは初めてだった。 もしかしたら、何か感づいていたのだろうか。 それを裏付けるように、海琉は暫く暗い窓を見つめた後小さく溜息をつき、話し始めた。 「わしの家では長いことヤギをペットとして飼っていた」 「ヤギですか?」 「ここら辺ではヤギはご馳走なのを知っているか?ヤギ刺しやヤギ汁は、本土の人間は臭くて食べれないというが、こっちでは癖になる堪らん味なんだ。 昔は運動会の1等の賞品がヤギ一頭なんてよくある話だった。みんなヤギが欲しくて大人も子供も張り切ってな。 ある年、幸運にもうちに賞品のヤギがやって来た。おじいもおばあも喜んで、親戚呼んで酒盛りだと大盛り上がりだった。だけど、結局だれもご馳走にはありつけんかった。 天琉(てる)が・・・まだ小学1,2年だったか・・・最初は1等だって大喜びしてたのに、たった半日でヤギに情が湧いてしまって『食べんでくれ』って泣いてヤギの首っ玉に噛り付いて離れんのだ。 いつもは大人しい天琉が、えらく頑固になって大人がなだめすかしても言うことをきかん。しまいには寝ている間にヤギが殺されたらいかんと自分の手とヤギの首を縄跳びの縄で結んで外で寝ると言う。 とうとう、大人たちは喰う事を諦めた。その後も天琉はヤギを可愛がって犬みたいに散歩に連れ出したリ、世話をやいとったな」 海琉はそこで、グイっと泡盛を煽った。 「情の厚い、優しい子だった。だから、わしは・・・ もう天琉は生きとらんのじゃないかと思う」 心臓がドクリと音を立てた。 「もう随分前・・・7年?8年?・・・最後にわしに届いたメールは遺書だったんじゃないかと思う」 「・・・遺書?」声が掠れた。 「スー、アンマー、ニイニイ。ワッサイビーン」 「え?」 「父さん、母さん、兄貴。ごめんなさい。・・・それだけ書かれたメールが来て、それ以来音信不通だ。天琉が、あの情の厚い子が、親のことずっとほったらかしで都会で気ままに暮らしとるとは、わしには思えん」 ああ、とうとう、その時が来たのだ。今までの迷いが解けて、僕がするべきことがすっと分かった。 僕は背筋を伸ばし深呼吸をして、丹田に力を込めた。

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