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シロツメクサ/白詰草[2]

────さやちゃんへ そう宛名の記された手紙を持ってポストの前に立つのは一体何度目か。堀宏人(ほり/こうと)はこの手紙が届くであろう先の人物を思い浮かべては、緩りと口角が解れるのを感じた。 手紙をポストに投函し踵を返す。そういえば今朝も彼女の夢を見たんだった。彼女に手紙を出す前日に限って、よくあの夢を見ているような気がする。 あの日、今思い出しても恥ずかしいプロポーズの1ヶ月後。たしかに彼女───さやちゃん───は堀の前から姿を消した。当時小学2年生だった堀だが、そう日を経たずして何処かへと移り住んでいった初恋の相手に受けたショックはそれなりで、その後三日三晩は自宅で塞ぎ込んだ。 なんとか立ち直った後も元気に過ごしてはいたが、やはり心の中にぽっかりと空いた"さやちゃん"というピースは埋まらないまま、中学2年生になった時だ。 彼のもとに、一通の手紙がやってくる。 宛名は────"コトくん" 後にも先にも自分をそう呼ぶのは美しいあの少女しかいない。震える手で封を切り中を開くと、そこにはなんと、整然と丁寧な文字で、初恋の人が自分へ語りかけてくれているではないか。 手紙の内容は、まず冒頭で勝手に手紙を送り付けるようなまねをしてすまないと言った旨が書かれており、それ以外は至って当たり障りのないものだった。 ふと教室の窓から見えた意外な光景や景色のこと 登下校によく会う野良猫を可愛がっていること 家の近くのラーメン屋が驚く程美味しくないこと 読書にハマっていて、特に純文学を好むこと まるで音沙汰のなかった6年間など存在しなかったかのように当たり前にされる彼女の日常の話に、堀は自分の身体が静かに震えるのを感じた。何度も何度も手紙を読み返して、そうして満足した頃、今度は家にあった便箋を何処からともなく引っ張り出し、彼は部屋でひとり机に向かっていた。 差出人の欄には隣県の住所と、さやという氏名だけが記されている。そういえば自分は彼女のことを何も知らなかった。苗字でさえ、名前だって愛称が"さや"というだけで、もしかしたら後に続く音があったのかも。 あの頃は本当に、彼女が自分を"コトくん"と呼んでくれて、自分が彼女を"さやちゃん"と呼べればよかった。互いを認められる呼び名さえあれば、それだけで。 けれど、あの時以上に彼女に惹かれていた(初恋を拗らせていたとも言う)中学生の堀はそうもいかない。 まず己の姓名を名乗ったついでに、貴女の本名を教えて欲しい、とほのかに匂わせる一文を文章にそっと縫い混ぜてみた。まずは名前から、彼女を知っていきたかった。 そうして数日頭を抱えながら書き抜いた堀の人生初の手紙は、ほんの少しの下心と、自分の近状を記すに留まり実家近くのポストへと投函されたのだ。 その日からまた4年と少しが経ち、堀が大学1年生になった現在も、そのやりとりは続いている──── 満開だった桜も後少しで桜流し。無事入学式を終え、一通りのオリエンテーションや諸々の説明もされ尽くした。さあここからはめくるめくキャンパスライフを満喫せんばかりに、周囲の学生もそわそわとざわめきだすのが大学1年のこの時期だ。 バイト、飲み会、合コン、サークル活動……大学生のやるべき事なんか学業の他にも山のようにあるわけで。恐らくあと1ヶ月も経たないうちに落ち着いてくるであろう、若者特有の遊びたい衝動は、きっと(学園祭などの行事ごとを差し引いたとしても)今が一番ピークに達しているのではないだろうか。 そんな中、目の前で堀を拝み倒す友人・戸田川(とだかわ)も例に漏れず始まったばかりの大学生活に潤いを求めているようで... 「なあ頼むよ堀〜〜〜」 「嫌だよ。大体なんで俺?もっと興味ある奴とかさ。他にいるだろ」 「嫌だ!!お前しかいないんだ!!」 「友達が?」 「そッ……れもそうだけど!」 図星を突かれ分かりやすく言葉に詰まった後、特徴的な金髪を揺らしながらわざとらしく地団駄を踏む。なんというか、いい加減うざったくなってきた。 戸田川は高校から付き合いのある友人のうちの1人で、これがなかなか気も合うため、少なくとも堀の中では親友的立ち位置にいる男だ。大学受験の際同じK大の工学部に行こうとしていたのは全くの偶然だったが、さすがに学科は堀が建築学科、戸田川が電気工学科と重なることはなかった。 「意地悪いうなよ〜…前話したじゃん。同じ学科のやつはなあ!」 「お前以外ほぼ全員メガネしてて、ファラデーが恋人で、インテリ通り越して8割ガリ勉ヲタみたいな感じ」 「そう!そうなの!少なくとも80%の確率でオトモダチなんてできそうにないの!!」 だから、とこちらに顔を寄せ痛い程に堀の両肩を鷲掴む戸田川の顔は真剣だ。顔だけで言ったら、危うく説得されそうになる気迫があるなと堀は思った。 「俺と一緒に漫研入ってくれんのは、お前しかいない」 「だから何でだよ!」 漫研──とは言わずもがな、漫画研究サークルのことだ。何をもってして自分なのか、戸田川はこの間から何かにつけ堀をこのサークルに誘っていた。 ここ一週間と少し。何度も繰り返される押し問答にいい加減辟易としていた堀は、ひとつため息を吐くと肩を竦めじとりと戸田川へ視線を寄越す。 「…わかったよ。ちょっと見に行くだけな」 「まじで!?」 ありがとう堀ィ!!と暑苦しく両手を握られ、「その代わり、見に行っても気持ち変わんなかったらマジで入んない」と、堀は戸田川へ念押したのだった。

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