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リコリス/甘草[4]
あれから2週間がたった。
その間、堀は一度としてあのサークルに出向いていない。
佐山の自宅から逃げ出すように帰ったあの後、帰宅してからの堀は務めて普段通りを装った。
なるべく数時間前のことは考えず、風呂に入り、飯を食べ、園芸や建築関連の雑誌を読んで過ごす。佐山のことはもちろん、あの夜に関しての一切を頭の中から締め出すことに躍起になった。
とりあえず休日はそうして誤魔化した。誤魔化せた。けれど、平日となるとそうもいかない。
大学へ来ると否が応でも佐山のことを思い出してしまう。当然、第5校舎2階一番突き当たりのあの扉の前に立つことさえ出来ずに...そして今日、とうとう2週間が過ぎた。
「堀ー、このあとどっか飯食いにいかね?」
「え?ああ...、ごめん。今金ない」
「あー、そっか。んじゃまた今度!」
学部内の友人2人が堀に話しかけてきたが、正直気分は最悪だ。金欠を理由に断ると特に気にした風もなく軽く手を振り去っていった。
今は丁度4講目が終わって、続く5講6講に出る生徒以外は大抵大学を出る頃である。ちなみに堀に授業の予定はなく、今日はもう帰るだけだ。
ふう、と息を吐いて席を立つ。講堂から出ると言わずもがな、彼は出入口を目指し歩を進めていく。
(...でも、さすがに2週間も顔見せないのはまずいか。普通に考えて失礼、だし)
堀の真面目な性質が顔を覗かせた。...が、付随するように思い出されるのはやはりあの日のこと。そしてそれが脳裏に過ぎる度、堀は無理だとかぶりを振る。
(ダメだダメだ!行ったところでまともに顔見れる気がしない...)
(...でも、あの時の佐山先輩、すごく軽いノリだった...)
堀は、自分が逃げ帰る前の佐山の話を思い出していた。
(あんまり認めたくないけど、セ、セックスは気持ちよかった...。ゲイって言うくらいだし、過去に俺以外にも別の男と寝たり......)
『...ッん、ぅあ...』
「うあ゛ぁぁ〜〜〜〜ッ」
ラウンジ近くで突然奇声を上げうずくまった不審な男に、通りすがりの学生が訝しげな目を向けては横切っていく。不審な男といえば、情事中の先輩の姿を久方ぶりにダイレクトに思い出してしまいそれどころではなかった。
(もうこんなことならあの時先輩に進められるままべろんべろんに酔っ払ってしまえばよかった...!!!)
事に及ぶ前、佐山は堀に執拗に酒を飲むことを要求してきた。しかし既に酔っ払っている先輩の手前、頑固な自分は2缶しか手をつけなかったのである。堀はその事を今更になってギリギリと悔む。
(あれ、でも、待てよ...)
なぜ、佐山はあんなにも自分に飲ませたがったのだろう?今思えば不思議なことだ。堀は佐山の言動の違和感に首を傾げる。
新歓の時、佐山は決して新入生に飲酒を強要するのような真似はしなかった。それが堀と2人になった途端。どうして。
(俺のことを酔わせたかった......?────セックスの前に、酔わせる必要があったから?)
堀はまるで名探偵のようにうずくまったまま深い思考に入る。もしも、もしも初めから堀と致すつもりで佐山がいたならば、その行動にも説明がつかなくは...ない、かもしれない。
堀は今さっき自分が心のうちで叫んだことを思い返した。...べろんべろんに酔っ払ってしまえば自分はどうなる?酒に酔ってさえしまえば、自分は都合よくあの時の事を忘れていたかもしれない。またその状況が自分にとっていいものであると、堀は確かにそう思ったのだ。
(...酔っ払って俺が記憶を飛ばすのを、先輩は望んでたってことか...?)
「でも、なんで...」
「堀?」
真剣に悩む堀の真上から不意に聞こえた聞き馴染みのある声、いまだうずくまったままでいた堀が顔を上げると、そこにいたのはやはりというか。戸田川だった。
「と、戸田川...」
(まずい!漫研って理由でコイツもなんとなく避けてたんだった...!)
この2週間、佐山に関わるものは全て避けてきた堀。慌てて立ち上がるとすぐに踵を返────
「おい」
────すことは叶わなかった。戸田川の手が肩に置かれてしまっては、さすがの堀もその手を振り切ることまではできない。
「な、に...」
「...どうしてサークル来ねえんだよ。山田サンも部長もお前のこと心配してたぞ。こっちから会いに来てやってもお前、全然捕まらねえし...」
(部長?────佐山先輩が...?)
「佐山先輩も、心配してたのか...?」
「ああ、っつってもそう言ってたのは山田サンだけどな。」
戸田川を介した山田の言葉が本当だとするならば、堀は一層今自分がしている事に申し訳なさを覚えた。
佐山とて、あの時点では軽いノリで謝罪を入れてきたが、脱兎のごとく帰った堀を見て何か思うことがあったのかもしれない。男が好きな自分の性癖に、ノーマルな後輩を巻き込んでしまったことを少なからず後悔しているのだとしたら...
「俺、今日は用事であっちには顔出せねえけど。お前は行けよ?」
「......」
「...はあ、じゃあな!」
一度堀の肩を軽く叩いて、戸田川は真横を通り過ぎた。
「......はぁ...」
取り残された堀はしばらく自分のつま先とにらめっこを続けると、意を決したように踵を返し、第5校舎へと足を向けた。
「...失礼します」
ゆっくりと扉を開ける。
失礼しますも何もいまは正式に部員なのだから普通に入ればいいのだろうけど、2週間も来ていない罪悪感が堀にそう言わせた。
しかし覗き込むとそこには誰の姿も気配さえ感じられない。もしかして、今日はやっていないのだろうか?と堀は首を傾げる。
(でも、扉が開いてるってことは...)
「入んないの?」
「うわああッ!!」
突然真後ろから声をかけられ堀は絶叫しながら全身の産毛を逆立てた。後ろを振り返ると、佐山がおかしそうにこちらを見ている。
「い、いきなり声かけないで下さいよ!ビックリするじゃないですか!!」
「だって邪魔だったんだもん」
堀にとっては今一番気まずい間柄の佐山だったが、驚きから気付けばそんな言葉が口をついて出ていた。佐山は堀と扉の間を縫うようにして室内へと入っていく。片手には缶コーヒー。なるほど、丁度あれを買いに行っていたのかもしれない。
「...っそ、それは...すみません」
「わかればよろしい」
佐山のセリフで一旦場の空気が途絶えた。先程までの勢いが止んでしまうと、堀は急にこの場をどうしていいか分からなくなる。どんな顔で、どんな表情で、どんな声のトーンで。何を口にしたらいいのかも分からずに、ただその場に突っ立っている。
「...だから、入んないの?なんかすっごい気になるんだけど」
「いや、あの、」
「ん?」
「...2週間も、顔出さなくてすみませんでした...」
小声ではあるが、堀はとりあえずここ2週間のことを謝った。本当はもっともっと胸の内を占めている問題が堀にはあるのだけど、今は口火を切る何かが必要だったのと、あとは純粋に申し訳ない気持ちもあったからだろう。
しかし、返ってきた言葉は堀の予想を裏切り、随分とあっけらかんとしたものだった。
「別に謝ることないでしょ。第一、好きな時に来ていいって説明したのは俺なんだし」
「でも、戸田川に聞きました。心配してるって」
「誰が?」
「山田先輩と、その、佐山先輩が」
佐山が喉奥で笑う。堀はサッと顔が赤くなるのを感じた。
「な、なんで笑うんですか...」
「いーや?別に心配なんてしてないよ。お前は真面目なやつだから、遅かれ早かれ来るとは思ってたし」
「......」
「顧問には俺から伝えとく。戸田川あたりも、まあ適当になだめとくから」
「......え?」
どういうことだろう。堀は佐山の言っている言葉の意味を欠片も理解することが出来なかった。さっきまでは噛み合っていた会話が、急に壊れたみたいに訳の分からないものになる。
「あの、どういうことです...?伝える、って?」
「?だってお前、わざわざ俺にここやめるって伝えに来たんじゃないの?」
「...は?」
「無駄に律儀な奴だから、てっきりそうかと...え?違う?」
佐山が珍しく動揺している。堀は気付いたら大きく息を吸い込んで、部屋に足を踏み入れていた。
「ちがいます!!」
思いの外大きく出た声に佐山の肩がひくりと震える。それを目に留めた堀は一度咳払いをしたあと、冷静に言葉を紡ぐ。
「...ちがいます。俺、やめる気とか全然ないです。むしろ佐山先輩に言われるまでそんなこと考えもしませんでした」
佐山は僅かに目を見開き驚いたような表情をすると、今度は少し俯き気味に下を見た。丁度堀の足元のあたりかもしれない。
「じゃあ、なんで2週間も来なかったの」
「そ、それは...」
「俺がゲイだから、キモくて避けてた?」
底抜けに冷たい声で佐山がそういった。
はじめて聞いた声だった。
初対面で脅された時よりも、一層重い。
「それも、違います」
「......」
「どうしたらいいか、分からなかったんです」
堀は続けた。今なら言える、そんな確信があった。思ったとおり、口からは自分の今の気持ちがつらつらと川のように流れてくる。
「この2週間、先輩のことばかり考えてました」
「!...」
「でも、俺にとって先輩は先輩だし。知らなくていいことまで知ってしまったみたいで、気まずくて...」
「......」
「あ、わかってます。俺だけテンパってモヤモヤして、それでサークル行くのもなんか気が引けて......でも決して佐山先輩のことキモいとか思ってません!避けてたのは事実ですけど...」
堀は俯いた。出来る限り自分の気持ちは伝えたつもりだ。あとはもう、何も言うことは無い。
「...そっか。」
佐山の声がすぐ近くで聞こえた。視線を持ち上げるとやはり目の前には佐山がいて、眉を八の字に下げながら、しかしその口元は弧を描いている。
「安心しろ。俺もお前のことは後輩としか思ってないよ。」「先輩...」
「ま、一度襲った上にゲイって時点で説得力ないけど」
「はは、は...」
「......今晩うち来る?」
「え!?」
佐山の言葉に堀は本日二回目の絶叫を上げた。奇声やら絶叫やら、今日の自分は色々と散々な気がする。
佐山は堀の様子にまた笑みをこぼして、ばーか、と小さく声を発した。
「この流れからしてそういう意味で誘ってるわけないだろ?普通に宅飲みだよ。先輩後輩同士で」
「あ...」
「...仲直りにさ。な?」
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