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リコリス/甘草[5]
※未成年の飲酒表現があります
佐山の家に訪れたのは、これで二度目になる。
といっても、前回は酔っていた家主を運んでへとへとだった上、思わぬ展開にもつれ込んだものだから、堀が佐山の暮らす1人住まいを観察するのは、これが初めてだった。
「先輩って結構フツウなんですね」
「おまえ、喧嘩うってんの?」
端無く言った堀の目の前に追加の缶ビールを置いてから、佐山は隣に腰を下ろす。
飲みが始まったのはつい1時間前。初めはぎこちなかった堀も佐山の態度とアルコールですっかり気も緩み、今では彼と言葉を交わすのに余計な事を考えることはなかった。
「違いますよ。なんというか。もっと豪勢なとこに住んでるイメージだったので」
「高層マンションとか?」
「お屋敷とか」
「ぷっ、なんだそれ」
小さく吹き出す佐山に堀も笑い、そして二人同時に缶ビールを開けた。堀は改めて、周囲を見渡す。
佐山の自宅は学生のひとり暮らしには申し分ない広さだった。1LDKの仕様はあまりごちゃごちゃとしていないせいか、むしろ堀のアパートよりも少し広く感じる。
「お屋敷はともかく、こんなにものが少ないのも驚きです。部室はあんななのに...」
「あー、あれか」
「...でも本は好きなんですね」
堀が指さした先にあるのは木製本棚。といっても肝心の本はない。というより、収まるべき場所に収まっていないという方が正しいか。佐山の愛読書たちは本棚に入ることなく、すぐ下の床に平積みで置かれていた。そして更にその上には小さめの段ボールが置かれている。
「何読むんですか?」
「エロ漫画」
「...あんな渋い装丁のエロ漫画あるわけないでしょう」
真顔で嘘を吐く佐山に堀はじとりとした視線を送った。2週間前と同様のソファに身を預けたまま、ごくごくとビールを喉で飲む。佐山は既に次の杯に手を伸ばそうとしていた。
「純文学だよ」
「...へえ」
「思ったよりつまんなかったろ?」
「いえ。なんか、綺麗な人ってやっぱそうなんですかね」
「は?」
佐山の顔が固まる。その顔には露骨に"何言ってんのおまえ?"と書いてあった。
「俺の知り合いも好きなんです。純文学」
「あっそ」
佐山の表情に戸惑いが滲む。さしずめ心地好さそうに話す堀に対し、どう接すれば良いのか考えあぐねているのだろう。
「その子もとーーっても綺麗だから。しばらく...っていうか、だいぶ会ってないんですけどね」
「へー」
堀の話に返す佐山の相槌は適当だ。さぞかしどうでも良さそうに、リモコンをとると目の前に置いてあるテレビをつけてバラエティ番組にチャンネルを回した。
酒でいい気持ちになっているのかもしれない。決して酔っているわけではないはずなのに、堀の口は尚も動き続ける。
「それで、その子に薦められた本を俺も読んだことがあって......『野菊の墓』って作品。著者は忘れちゃいましたけど」
「...伊藤左千夫。」
「あ、確かそんな感じの。やっぱ先輩も知ってるんですね。好きなんだから当たり前か。」
「いちお持ってるよ」
「あれ、主人公が相手の女性に"あなたは菊のような人だ"とかいうシーンがあったでしょう?...俺、両親の花屋手伝う時に毎回花言葉とか聞かされて育ったんで、読み終わった後にうっかり"菊"の花言葉思い出して少しうるっときちゃったんですよね。」
「...そっか」
「しかも俺、過去にその子に恥ずかしいこと言っちゃったっていうか......菊じゃないですけど。その時のことも思い出したり」
「......」
ビール買ってくる。と言って佐山が立ち上がった。なら俺も...と言いかけた堀を制して佐山は静かに告げる。
「いい。酔い覚ましついでだから、ついてくんな」
パタン、と扉が閉まった。
「暇だな...」
佐山が出ていってから1分と経たずに堀は呟いた。手に持っていた缶ビールをひとまずテーブルに置いて、ソファにだらんと身を委ねる。
天井を見つめながら、少し長話をしてしまったと反省した。佐山には縁もゆかりも無い"さやちゃん"の話なんて、彼にとっては面白くもなんともなかっただろう。現にこうして興味なさそうに外へ出てしまったわけだし...
ふと堀は注視する方向を天井から本棚へと移す。
(...『野菊の墓』。先輩、知ってたな。)
当然だろうなとは思う。本棚近くに平積みにされている本の量はそれなりだ。
『野菊の墓』────読んだのは中学生の頃になるので、もうあまり覚えてはいないが、男女の悲しい恋が描かれた作品だったのは覚えている。それに、緑が多かったことも。
なんだか自分の初恋を思い出すようで、またそんな本を文通の中で薦めてくれた彼女に、もしかして同じ想いなのではと淡い期待を抱いたり...
(さやちゃんから手紙が返ってくるのは...まだ先か)
彼女からの返信は堀が手紙を送ってから大体2ヶ月くらいは間を置く。今ごろ返事を書いてくれていたりするのだろうか。堀のために...
そう思うと、堀は急に『野菊の墓』を読みたくなった。...確か、先程佐山は持っていると言っていたな。堀はソファの柔らかさに弛緩させていた身体に力を入れ立ち上がる。
「あんまり、物色とか良くない気もするけど...」
暇だし、怒られたらその時は謝ろう。そんな軽い気持ちで平積みの本の前に立つと床に手をついて背表紙を覗き、『野菊の墓』を探す。
彼女に薦められた時は図書館で借りたものを読んだので、今現在堀の手元に『野菊の墓』はなかった。もしもこの本の山の中から発見できたら、実に4~5年振りにお目にかかることになるのか。
「あ、」
(あった。)
少し探したところでようやく見つけた。それは完璧に本のタワーの一部と化していて、少し奥まったところにあった。堀は器用に塔と塔の間に身を収めると、『野菊の墓』だけをそこから抜きとろうと手を伸ばす。しかし、
「ッ、ああ!」
────ドサッ、バサバサバサッ
抜き取ろうとした弾みに別の平積みに肘が当たってしまったみたいだ。目的の本を手に取ったはいいものの、積み重ねられた本たちを崩してしまった。おまけに運悪く段ボールも乗っていたようで、最悪なことに、その中身までもが箱の中から散乱していた。
「あちゃー...」
(これはまずい。勝手に物色した上に大切な本を痛めつけるなんて...)
乱雑に平積みにし決して本棚に収めないあたり、佐山が本の扱いにとびきりうるさいとは思えない。しかし、自分でやるのと他人にやられるのとでは違う。それを十分理解していた堀はあわあわと場所を移動すると、『野菊の墓』を脇に置いてから散らかした床を片付けようと段ボールから零れた中身を手に取った。
「それにしても結構な量だな......手紙か?なんでまた──────え?」
何気なく目に止めた便箋を、何気なく裏返す。そして次の瞬間、堀の目はこれ以上ないほどに見開かれた。
(...なんだ...これ...)
堀は他に散らばっている手紙もまとめて手に取ると次々に目を通していった。段ボールの中に残留していた分も、全て手にしてその目で確認していく。見開かれた瞳はすっかり覚醒した脳によっていまだ瞬きを為そうとしない。手紙を持つその手は僅かに震えていた。
「...どういうことだよ」
堀が目を通した手紙。それに記された宛名はどれも同じ人物を指していた。姓名ではなく愛称で綴られたそれを同じ愛称を持つ別の人物だと思えないのは、きっとその名を記す筆跡が同じであったからだろう。そして決定的なのは、便箋の端に記された住所。
愛称も筆跡も、そして住所も。すべてが馴染みのあるものだった。
いや、馴染みがあるどころの話ではない。
筆跡と住所、このふたつにおいては、紛れもなく堀自身のものだったのだ。
堀はもう一度、信じられないという目で宛名を確認する。そこにある文字は決して変わらぬまま、堀の脳に溶け込んだ。
そこにあった文字。
────さやちゃんへ
紛れもない。自分自身で書いた、初恋の人の名。
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