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リコリス/甘草[6]
「...堀、」
聞こえた声に堀は身体を強ばらせた。恐る恐る声のした方を見ると、そこにはコンビニ袋を提げた佐山がうかがい知れぬ表情でこちらを見つめていて。
「せん、ぱい...」
憮然と呟く堀の瞳は動揺で揺れている。見られた。今この状況を。どうしよう。...しかし混乱からどうすることも出来ない堀は、結局それ以上何を言うでもなく押し黙った。
一方、それを目にとめた佐山は近くのダイニングテーブルに買ってきたばかりの酒を置くと、ゆっくりと堀に近づいていく。
「......」
佐山は視線を滑らせる。
堀の周囲には大量の便箋と、散らばる本。一番そばにあるタイトルは、────『野菊の墓』か。
佐山は堀のすぐそばまでくるとその場でしゃがんだ。緩やかに瞳を閉じると、その本の表紙を指先でするりと撫でる。
ぽつりぽつりとした調子で、佐山は堀へ言葉を発した。
「...俺も好きだよ。」
「......」
「『野菊の墓』」
「!」
佐山の双眸が再び顕になっていく。堀はその様子を、ただ息を詰めて見ていた。むしろ彼にはそうすることしかできなかった。
佐山の唇が音を紡ぐ。その光景が堀の中で、ある幼き日の初な思い出と重なる。
「まるで、」
思い出の中の彼女が、笑った。
それはとても愛らしく、可憐に。
「......」
目の前の男が、笑った。
それは酷く儚く、切なげに。
「俺とおまえみたいでしょ」
「...ほんとに、先輩なんですか」
「うん」
「俺のこと、いつから気付いてたんです」
「初めから。入会届けの名前と字見て確信した」
そこまで質問して堀は何も言わなくなった。過去と現在の記憶を行き来しては、佐山とさやちゃん...ふたりが同一人物であった事がいまだに受け入れられない。それを裏付ける十分過ぎる証拠は、既に目の前にあるのだけど。
自分が一体どんな気持ちなのかも点在としていて、うまく思考がまとめられない。
「でも、これで納得いった?」
「納得?」
堀は首を傾げる。納得どころか、頭の中は酷くごちゃごちゃとしていて堀自身でさえ自分がわからないというのに。彼は何を持ってしてそんなことを聞くのだろうか。
「"さやちゃん"がお前に、名前も学校も年も...住所以外はなんにも教えなかったこと」
「あ...」
堀はやっと理解出来た。どうやら自分は彼の言葉の意味を推し量ることさえまともにできなかったらしい。
確かに、5年間の中で堀がさやちゃんについて知り得たことは少ない。少ないといっても、それも何通もの手紙のやり取りから分かる彼女の文章の癖だとか...そんな程度だ。彼女から語られるのはいつも他愛もないエピソードばかりで、彼女自身について書かれたことは一度としてなかった。
「大学進学してからは月1で向こうの家に帰るから。その時お前の手紙も持ち帰って、住所は変えずにここから出してた。」
「俺だって、まさかまた会えるとは思ってなかった」
「え...」
堀は佐山を見る。膝を抱えたまま便箋に目を落として、佐山は自身の心情を少しずつ言葉に変えていった。
「綺麗なまま。いつか終わると思ってたから。...いや、お前さえいいなら、死ぬまで続けたって構わなかったんだ」
佐山が言っているのは恐らく、堀との手紙のやりとりのことだろう。
「ずっと吐き続けなきゃいけない嘘だった。...バレちゃったけどさ。そうしたら、終わることなんて分かってたから」
「......」
「けどお前がまた俺の前に現れた時......嬉しかったんだ。お前が俺に気付かなくても、そんなのは分かりきったことだったし、実際それでよかった。」
「...それじゃあ、なんで」
なんで、俺のこと襲ったんですか。堀の言葉は最後まで言いきらずとも、佐山には伝わったようだ。彼はこくんと頷くと、一言「欲が出た」と呟く。
「酒の力もあったけど、ヤケになったっていうか。やっぱり心のどっかではやり場のないストレスが溜まってて、酷いことして嫌われちまえって気持ちも、あったのかもしれない。」
「せんぱ...」
「でも、今日お前と話してさ。やっと決心がついたところだったんだけどな」
今まで伏せていた佐山の瞳がようやく堀のそれと合わさった。けれど、待ち望んでいたはずの眼は無理に笑っているせいかとても痛々しい。
「次の手紙で、お前とのやりとりもこれで終わりにしようって」
「!」
「考えてた。今までの手紙も、処分しようと思ったからここまで引っ張り出したんだ。まさか引っ繰り返されるとは思ってなかったから、それが誤算だな。」
「きっぱり"コトくん"とお別れしてからは、お前とももっとちゃんと先輩後輩できるかなって...。諦めてたけど、お前の言葉聞いてまだやり直しがきくんだと思ったから...」
「...、」
「信じられない?」
佐山の視線が再び逸れる。抱えた膝の膝頭に額を当てて、堀からその表情を見澄ますことは難しくなってしまった。
(......先輩、)
自惚れではない。けれど、堀は佐山の話を聞けば聞くほど、知れば知る程。露出していく彼自身の想いの片鱗にも気づき始めていた。だって、先輩、そんな言い方をしたんじゃあ、アンタまるで────
「ほんとだよ」
「先輩、」
「ずっと、好きだった。」
佐山の表情は分からない。けれど、彼が平静を取り繕おうとしていることは嫌でもわかる。
「好きだった。って、なんですか」
堀は気づけばそんなことを言っていた。そんな堀に佐山も思わず顔を上げると、どうしたらいいか分からないといった風に眉尻を下げ堀を見つめる。
「...それは、そのまんまの意味...」
「今は好きじゃないんですか?」
佐山に問う堀の語気は強い。なぜか自分が責められているような口調に、思わず佐山もムッとした。
「だから、今話しただろ。俺は」
「もう好きじゃないなら、なんでそんな顔するんですか。」
「!」
「俺のこと今はどうでもいいと思ってるなら、もっと簡単に、昨日の夕飯思い出したくらいの軽いノリで。アンタならそう言うでしょう」
堀は佐山の話を聞いて、同時に分かったことがある。事実を知って初めはこんがらがっていた脳内も、彼が丁寧に自分の気持ちを吐露してくれたおかげか。堀の心のわだかまりも一緒に解きほぐされたようだった。
そして、いざ分かってしまえば、こんなに簡単な答え合わせはない。
堀が佐山に言った言葉は、堀が自分自身に言った言葉でもあるのだから。
「俺もそうです。...俺にも、言えることです。」
「...なに、が」
「先輩と寝た日。先輩は遊びだったって言いましたよね。」
「...ああ。」
「それでも俺、遊びって言われてもかなり動揺しました。それこそ長い間先輩に関わるもの全部遠ざけちゃうくらい。...でも、それって普通じゃないですよね。」
「......」
「普通だったら、襲われた時点で先輩をぶん殴ってでも逃げるし、遊びって言われた時にはブチ切れてサークルなんてさっさとやめるか、そうじゃないならこっちも割り切って...和解だってもっと早くしてたはずだ。」
佐山が目を逸らす。
「...それは、俺とは違う。そもそも事の大きさが...」
「一緒です。」
「っ、お前な...!」
「同じだ!!」
耐えきれないとばかりに佐山は声を荒らげた。しかし、それを遮ったのもまた堀だ。
「俺が貴方のことをなんとも思っていないなら..."普通"の堀宏人なら、初対面で貴方の顔に見とれたり、ふとした仕草を綺麗と思ったり、ヤってる時のアンタをかわいいなとか思ったりしないんですよ...!」
「か、かわ...っ」
佐山の顔がブワッと赤く染まる。堀は膝を立て佐山に詰め寄るとその両手首を掴んだ。怯んだ佐山の腰が引けて床に尻もちをつく。
「先輩は、どうなんですかッ?」
「ほ、堀...っ」
「俺は!!」
「────...俺は、好きです。」
堀は静かにそう告げた。
「先輩が、好き。」
佐山の目が大きく見開かれる。
目の前の男が、真摯な瞳で、精悍な顔つきで、自分を見ている。────自分のことが、好きだといっている。
「い、つから...」
「今です。」
「...いま...」
「...先輩はどうなんですか。」
「俺、は...」
「俺のこと、もう好きにはなれませんか。」
「...す、き。」
佐山の頬を一筋の水滴が伝った。発した言葉は、生涯口にすることさえないと思っていた二文字。
それを受け止めた堀は静かに佐山を抱きしめる。少し経って背中に回された腕が、たまらなく愛おしかった。
「...今思うと、なんで気づかなかったんだろうって思いますよ。」
「...当たり前、でしょ。お前は俺のこと、女だと思ってたんだから」
「でも、アンタの考えてることとか反応とか。数日しか会ってないのに俺、分かる時があったんです」
先輩のことだから、とか。アンタなら、とか。
「それって多分。どっかで先輩とさやちゃんが同じ人だって、分かってたからだと思うんですよね。知らなくても、分かってたんです。きっと。」
「......あ、そ。」
素っ気なく返された佐山の返答にも堀は苦笑を漏らすだけだった。絶対に解かれない背中の腕が、何よりも堀を安心させた。
「...ていうか、俺のこと好きっていうのは、"普通"じゃないんだな」
少し経って今度は佐山が堀に投げかける。
「当たり前じゃないですか。男と恋愛なんて、どう考えたって普通じゃない。」
佐山の身体が強ばった。自分から聞いた癖に、案外この人は臆病な人だ。堀は自分の体から佐山を少し離すと、その顔を見つめた。
「でも、普通じゃなくていいんです。」
「ほり...」
「アンタとちゃんと恋ができるなら、俺はそれでいい。」
そう言って、どちらからともなく唇を重ねた。
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