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#8 雪見さん
体育祭から数日か、数週間か後。
特に何事もなく慎ましやかに学校生活を送っていたある日。
十分休みの最中に、ピコンと俺のスマホへメッセージが届いた。
『お兄:
ジャージ貸して』
ジャージ。ちょうど一二時間目に体育があったので、手元にある。
返事を送ってやろうと画面に指を滑らせた。
『いいよー 俺もう1、2時間目に着ちゃったけどそれでいいなら取りに来てー』
ピコン。
『届けに来てー』
はぁ?
俺はあからさまに顔を顰めた。
『何でだよ!お前が借りに来いよ!』
『弟のくせに兄貴の言うこと聞けねーってのかよ いやつかマジで何か飲みもんとか買ってやるからさ』
『絶対嘘じゃん俺知ってるもん絶対買ってくれないもん』
『マジマジ 頼むわ 昼休みでいいから』
今は四時間目だ。昼休みでいいからっていうか昼休みしかないじゃん。
こちらとてここで引き下がる気は更々なく、返事をしようと指を浮かす。
と、ちょうど授業開始のチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。
さすがに授業中にスマホは触れないし、メッセージを送ったとしても見ないだろう。奴は意外と真面目だから。
こうなることを狙ってあのタイミングでメッセージを送ってきたとしか考えられない。性根が腐っている。
俺は教科書を開きながら、渋々ジャージを兄の教室へ届けに行くことを決めた。
☆
授業が終わり、昼休み。さっさと用を済ませようとジャージを持って教室を出る。
いつかの如く階段を降り、兄のクラスの前へ辿り着いた。
(ど、どうしよう。是が非でも入りたくない)
また誰かに声をかけようか。いやでもそれをするとバレたときが怖い。
『学習しねーなてめーは』という兄の低い声が頭の片隅で響いて、俺は意を決した。
飴玉の彼は以前見たとき最前列に座っていたので、今日は最後列側の入口からちらりと顔を覗かせる。兄の姿はそう遠くにはなく、すぐ見つけられた。というか、声をかければ気付きそうな場所だ。それがまた腹立つ。
兄は俺に気づきそうにない。というか多分気づく気もないだろう。
いつまでもこうしていると俺の昼休みがなくなっていくので、腹を括った。
すぅ、と息を吸い込む。
「柳ーっ」
兄はすぐに振り向いた。ちょっとびっくりした顔をしている。
へ、へへっ、どうだ。そう来るとは思わなかっただろう。要は俺が弟だとバレなければいいのだ。
俺のクラスメートはもう手遅れ(#7のオチ参照)だが、被害はまだそこだけだ。
悪い笑みを浮かべながら、兄が立ち上がるのを見ている。
と、
「あっ、柳くんの弟さん?」
!?
声を上げたのは、兄の近くに座っていた見知らぬ女子生徒だった。
その声に、おそらくそれまで兄と喋っていたのであろう周囲の男女数名も「ああ!」と声を上げ始めた。
「例の弟?」
「例の!?」と思わず聞き返す。
何で!?何でこの人達みんな俺のこと知ってんの!?えっまさか雪見さん……は、兄と親しくないらしいし、この局所的な広まり方を見るにどう考えても……。
いつの間にやら近くまで来ていた兄が、混乱する俺を見下ろす。
腕を組んで壁に寄りかかりながらニヤニヤ笑う姿は、弱い者イジメをするいじめっ子そのものだった。
「いつもみたいに"お兄"って呼んでくんねーの?」
ニコッと兄が無駄に綺麗に笑う。
世界で一番底意地の悪い笑顔だと思った。
こ、こいつ……!あれだけ釘を刺したのに話したな……!?
ギッ、と下から睨みつけるも、兄はどこ吹く風だ。
「え柳お兄って呼ばれてんのウケる」
「可愛いじゃん!」
「お兄だって!」
「え~、一年生だよね?かわいい~」
「仲いいな~」
やいのやいのと外野が騒ぐ。俺はその勢いにたじろいで、持っていたジャージの袋の紐をキュッと握った。
思わず俯くと、頬や耳がみるみる熱くなっていく。
あれ、また熱かな。
「ひーな。ジャージ、ありがと」
兄が首を傾げて俺の顔を覗き込む。
怒りが全て羞恥で覆われてしまった俺は、その気持ち悪いほど優しげな声音にも「んん」と閉じた口から音を漏らすことしかできなかった。
黙る俺の手からジャージの袋をするりと抜き取ると、何と兄は俺の頭を撫でた。
思わず固く閉ざしていた口をぽかんと開ける。
あ、頭撫でた。
あのお兄が。粗雑・粗暴・尊大の三拍子揃い踏みなあのお兄が。こんな何でもないときに。
兄は俺の頭を三往復分ほど撫でると席へ戻っていった。
そこで俺もハッとして、気を取り直す。
一歩、一歩と後退り教室から脱出しようとしていると、最初に声をかけてきた女子生徒がまた口を開いた。
「ひなくんって言うの?可愛い名前~」
「へあっ、え、……ひなたです」
「あっ、ひなたくんで『ひな』か!」
可愛い呼び方してんな、と男子生徒が笑いながら兄を小突く。
「雛鳥みたいにピヨピヨついてくるからな」
戻ってきた兄が、言いつつ俺の背中を手で押してそのまま教室を出る。
「いってらっしゃーい」という声を背に、混乱する俺を引きずって兄はどんどん進んでいく。
「おっ、おに、っ!……ねえ、何!どこ行くんだよ!」
「奢ってやるっつったろ?」
そう言って兄は財布を掲げた。
「えっ!マジ!?絶対嘘だと思った!」
「ほんと失礼だなこいつ」
言いつつ、兄の表情は明るい。
先程の驚きの行動について、もしや猫でも被っているのかと思ったが単純に機嫌がいいのか?
確かにまぁ、兄は毎日を過ごすような場所で猫を被れるほど器用なタイプでもない。いつどこにいるのを見ても端的に言って粗暴の極みだ。
自販機の前へつき、兄が適当に小銭を入れる。
「どれ?」と促されたので、350mlの炭酸飲料を選んだ。ガタンガタンと落ちてきたペットボトルを兄が取り出して、俺に手渡す。
「ちゃんと呼べるじゃん」
ちょっと予想外だったけど、と兄は続ける。
俺はペットボトルを受け取りつつ、目をぱちくりと瞬いた。
やけにニヤッとした兄の顔に、一つの可能性が浮かぶ。
「…………た、試した?」
さてどうかな、とばかりに兄が笑みを深めるが、もう十中八九それしかないと思った。
わざわざ俺を教室まで呼んだ理由。『弟使いの荒い兄貴のことだし』とも思うが、先日俺が弁当を届けに行った際、教室にいる兄を呼ばず他の人に声をかけて大変なことになった例の一件を受け、ジャージを借りるついでに俺を試したのだと考えるともっとしっくり来る。
「ほんっと意地悪いな!」
俺は堪らず兄をグーで殴った。
「ってーな!危なっかしい弟が同じ轍を踏まないようにしてやったんだろが」
「俺の受けた辱めに見合ってない!俺隠してたじゃん!言うなって言ったじゃん!」
喚きながらポカスカ叩いていると、兄は「あー、」と口を開いた。
「お前が例の階段でぶっ倒れた日、お前のこと担いで保健室行くのを澤田……あー、さっきの髪長い女子。が見てて、次の日んなって何があったのか聞かれて、実際俺は隠す必要1ミリもねーし『弟保健室に運んでた』って言ったんだよな」
「そこは隠してくれよ……俺の必死さ汲んでくれてもいいじゃんかよ……」
先ほどの兄の友人達の様子を思い出す。
……やっぱこの歳で『お兄』はないかな!?『兄貴』とかに方向転換した方がいいかな!?
あれではズカズカ教室へ入って無言でジャージを渡しさっさと立ち去った方がまだ良かったのでは?と、そんな念が湧いてくる。
自分の分のパックジュースを買う兄が、「つかさぁ、」と口を開いた。
「俺がそっち行った方がお前的にまずくない?」
「え、でももうみんな俺に兄貴いるって知ってるし……体育祭のせいで」
俺は恨めしげに兄を睨んだ。
あの日から、クラス中に『柳に全く似てない超かっこいい兄貴が三年にいる』という話があっという間に広まってしまった。女子にバレたのはナッちゃんのせいだが、男子にバレたのは兄が一年サッカーの試合の審判なんか担当していたせいだ。……バレたきっかけは俺の失言だけど。
「この顔が教室まで来るんだぞ?この顔が。またお前『似てねー!』って言われるぞ」
兄がケラケラ笑う。クソッ!もう全てに腹が立つぞ。何なんだその自信!笑うんじゃねぇ!
俺は無言でまた兄を殴りつけた。兄は尚も笑っている。
「そんじゃ、配達ご苦労。行っていいぞ」
「もう二度と行かねー」
「おーおー言うのはタダだからな、好きなだけ言っとけ」
「ムッカつく!」
立ち去る兄を、ダンダン足を踏み鳴らしながら見送る。ムカムカする胸もそのままに踵を返そうとしたそのとき。
「弟くん」
声をかけられて腕を引かれた。突然のことで成す術もなく自動販売機の影に引き込まれる。
慌てて顔を上げると、飴玉の彼がいた。咄嗟に後ずさると彼は苦笑いを浮かべる。
「その反応もよく分かるよ。ごめんね、君に謝りたくて」
「………」
混じりっけのない微笑みからは、兄の言うような『悪意』は感じられない。が、この人のおかげで大変な目に遭ったのは確かだ。俺は警戒を解かず、口を噤む。
「確かめたかったんだ」
「……確かめる?」
俺が問うと、彼は「そう」と笑みを深めた。
「君、"視"えるよね」
「!」
「それで、すごく引き寄せる子でしょ」
俺は、口を噤んでしまった。この場合の無言は肯定と取られてしまうだろう。
白を切れば良かったと後悔しても遅く、彼はそのまま言葉を続けた。
「本当はね、ちょっと確かめるだけだったんだ。本当に引き寄せる子なんだって分かれば充分だったから。君にあげた"あれ"もさほど強くないものだったんだけど、予想以上に引き寄せちゃったみたいで怖い思いしたみたいだね。ごめんね」
「………"あれ"、って、何だったんですか」
"あれ"。あの日彼に貰った飴玉だ。俺は睨むように彼を見る。
俺の視線を物ともしない様子で彼は言った。
「特製のおまじない」
「……おまじない?」
「呪いとも言うかな?」
「!」
『意図してそう仕組まれた呪いでもなきゃ、考えらんねーんだよ』
兄の言った通りじゃないか。彼は続ける。
「口に入れるとね、食べた人に霊が憑いちゃうんだ。磁石みたいにくっつくイメージ。あ、飴美味しかった?」
「……まあ」
「良かった。あれうちの母の実家で作ってるんだ。祖父母が飴屋さんやってて」
「へー!すごい!だからあんな綺麗だったんだ!」
言ってから、ハッとしてまた厳しい顔を作る。普通に反応してしまった。
彼はそんな俺の様子を見てクスクス笑う。
「可愛いね」
「……そんで、何でそんなことするんすか。俺、何か呪われなきゃいけないことしましたか」
「ううん、君じゃないんだ」
「え?」
「呪いたい人がいるんだ」
「……え」
「すごく、すごーく、呪いたいんだ」
顔色一つ変えずに、彼は言う。普通の世間話でもしているようなその声音は、うっかり流してしまいそうなほどあっさりしていた。
疑問は沢山あるが、その中の一つ、今この瞬間俺の頭を大きく占めた問いを恐る恐る口にする。
「だ、誰を」
彼はニッコリ笑顔を作って、言った。
「父親」
ドクン、と胸が嫌な鳴り方をした。
唇が急に重くなって言葉を紡げない。俺の言葉を待たずして、彼は肩を竦めた。
「それでどうして君に飴をあげたのかって言うと、君のその引き寄せる力を借りたかったからなんだけど…………」
「……」
「でも、君にお手伝いを頼むのは無理みたい」
「へ」
きょとんと口を開いたのと同時に、強い力で腕が引っ張られた。ドンと背中が何かに当たる。
「うちの弟に何か用」
剣呑な声音に顔を上げると、兄が彼を睨みつけていた。
「教室戻ったらいなくなってっからもしやと思ったら……」
兄が俺の腕を掴む手に力を込める。彼は両手を上げて苦笑した。
「大丈夫、もう手は出さないから」
「……」
「ね、名前聞いてもいい?」
「却下」
「え~、お友達になりたいだけなんだけどなぁ」
「お前が?弟と?」
「うん」
「なる必要ねーだろ」
「だって、俺と同じ気がするから」
「!」
彼が俺の顔を覗き込む。ピクリと反応したのに、気が付かれただろうか。兄が訝しげに「は?」と言う。
「お前とこいつが?」
「うん。どうかな」
ニコーッと綺麗な笑みが俺を見る。
「お、れは」
何となく目が合わせられなくて、視線をうろつかせる。彼は、そんな俺にふっと笑って体勢を正した。
「俺、雪見っていうんだ。考えておいて?もう怖い思いはさせないからさ」
「………」
押し黙る俺と、恐らく睨み続けている兄にふわりと踵を返して「それじゃあ」と雪見さんは去って行った。
「何だあいつ」
「……」
「ひな、大丈夫か?」
「……」
「……ひな?」
「あっ、え?あ、な、何でもない。……大丈夫」
へらっと笑ってみせたが、兄の顔を見るに上手くは笑えなかったらしい。何だか気まずい気持ちになって、思わず目を伏せた。
……別に、同じじゃない。けど。
幼少期の苦い思い出が、胸に蘇った。
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