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#9 『呪う』

#9 『呪う』  父親。今の父さんじゃない。実の父親の方。  顔は見たことないんじゃないかと思う。記憶にはないし、母さんの話から考えてもない。  父親は、俺が産まれることを望んでいなかったらしい。対して母さんは俺を絶対に産みたいと思っていて、そこでかなり揉めた……というのは、小学五年生――つまり母さんが亡くなる直前に聞いたのだが。  しかし、何故我が家には父親がいないのか?という疑問は幼い時分にも湧くものであり、保育園の頃に何度か尋ねた記憶がある。  そのとき何と返されたのかはもう覚えていない。が、幼心に母さんは父親のせいで何か辛い思いをしたのだろうと察し、何となく、会ったこともない父親のことが嫌いになっていた。  大好きな母さんのために、陽向少年は考えた。  母さんがもう二度と辛い思いをしないためには、どうすればいいのだろう。  結論は、今思い出しても突拍子のないものだった。 ☆ 「みんな~、お昼寝の時間だよ~。お片付けしようね」  保育園の先生の掛け声で、園児達が遊び道具を片付け始める。  片付けずに遊び続けている子が叱られているのを横目に見つつ、俺は友達と積み木を箱に仕舞った。  体育館に向かいそれぞれの布団に入り、しばらく。  右隣から寝息が聞こえてきた頃に、"その人"はやってきた。 《あらあら、まだ寝てないの?》 (!)  穏やかなその声は、静かで控えめなのに耳に直接飛び込んでくるような不思議な響きだ。  左隣、通路の方に顔を向けると、ピンクのエプロンと水色のジャージ。  正座した膝は透けていて、向こうの床が見える。  腰から上は、見ようとしてもどうしてか薄闇に滲んでしまっていて見えない。俺がいつも見るのは、せんせーの正座した膝とエプロンだった。  俺は嬉しくなって、かぱりと頭を布団に潜らせた。 「せんせー来てくれるのまってたんだもん」  小さく小さく、舌の上で転がすくらいにボリュームを絞って呟く。  どうしてか、"せんせー"はそんな俺の声をいつもしっかり聞き取ることができたのだ。 《お昼寝の時間は寝なきゃだめよ》 「だってせんせーおひるねのじかんしか来てくれないじゃん」 《ひなたくんがちゃんとお昼寝しない悪い子だからねぇ》 「えへへ」 《もう、笑ってないで早く寝なさい》  傍にあるせんせーの気配が揺らいでいく。  俺は慌てて引き止めた。 「あっ、せんせ、せんせ、あのね、きいてほしいの」 《ん?どうしたの?》 「んーとね、んーと」  先生の気配が元通りに収まったのを感じて、俺は小さな頭をフル回転させた。  何と説明したら良いのだろう。 「あのねー、おれね、きらいなひとがいてね、なんかねー、おれがいっつも"視"えてるひとたちにねー、やっつけてくださいってねー、おねがいしたくてねー」 《……》  俺が思いついたのは、その当時言葉こそ知らなかったものの一種の『呪い』に違いなかった。  せんせーの方から、困惑しているような空気を感じる。 「でもねー、ちかづくと消えちゃうんだ。だからせんせーにおねがいのおねがいしたいんだ」 《……ひなたくん。それは"めっ"、だよ》  せんせーの声が、叱るような声音になった。俺は少し狼狽えたが、それでもそのときは妙案だと思っていたので食い下がった。 「う、でもでも、わるいひとなんだよ」 《悪い人でもダメなものはダメなの。お利口さんのひなたくんは分かるよね?人に嫌なことしたら、自分に返ってきちゃうんだよ》 「うー……」  有無を言わさぬその語調に、俺は口を噤んだ。ダメ、と言われたら何となくダメなことなのかな、と思うが、それでも釈然としないのは確かだ。  父親がいなければ、もう母さんは絶対に嫌な思いをしない。  でも、母さんに嫌な思いをさせた父親に、嫌な思いをさせるのはダメなのだと言う。  納得いかない。  俺はそのとき所謂『不公平』を感じていた。  ぐるぐるとそんなことを考えていると、せんせーは再び気配を揺るがせた。  今度は『あっ』と思っても遅く、せんせーは一言、いつもの言葉を残して去っていった。 《じゃあ、ひなたくん。ゆっくりおやすみ》  瞼を覆うように、冷たい手のひらのようなものが顔に触れた。 ☆  それから数日経ったある日。  せんせーに言われて渋々『呪い』のことを頭の中の引き出しに仕舞い、その内仕舞ったことすら忘れ、いつも通りの日々を送っていた。  のだが。  園庭で友達とかくれんぼをしていたときだった。  園舎の壁に隠れ身を潜めていると、背後に冷気を感じた。振り返ると、外と保育園とを隔てる塀の際、日陰になった部分に、黒い影のようなものが蹲っていた。  小さな、俺と同じくらいの子供のようなシルエットに見える。  何だか、焼け焦げたような匂いが辺りを漂っている気がする。  びくり、と固まったの同時に、俺の頭の中の引き出しが反動で勢いよく開いた。  あ、と思う。  この子に頼めばいいかも。  同い年くらいのそのシルエットに、恐怖心や警戒心が薄れたのだろう。俺はゆっくりとその影に歩み寄っていった。虫を捕まえるときに、逃げないようゆっくりゆっくり迫るような、そんな感覚。  近づくと、冷気が強まった。しかし、ひやりとしているのに何だか暑い、いや、熱い。  不可思議な感覚に見舞われていると、後ろから「あっ!」という声が聞こえた。  びっくりして振り返る。 「ひなた見ーっけ!」  鬼役の友達が、俺を指さして笑っていた。  そうだ。かくれんぼをしていたのだった。見つかってしまっては仕方ない。  ふと見遣ると、黒い影はいなくなっていた。  惜しい。あとちょっとだったな。  でもきっと、この保育園に棲みついている子だ。またその内会えるだろう。そのときは今度こそ、おねがいをしてみよう。  そう決心して、俺は「はやくこいよー!」と急かす友達のもとへ駆けていった。 ・ ・ ・  昼頃。お昼寝の時間となり、遊び疲れた友達はみんなあっという間に眠りについた。  俺もせんせーを待ちつつうとうとしていたのだが、  不意に、目が覚めるほどの冷気が舞い込んできた。  ひやりとしているのに何だか暑い、いや、熱い。  何かが焼け焦げたような匂いがする。  覚えのある不可思議な感覚に、俺はハッとした。  左向きに寝返りを打つと、暗い体育館では薄らとしか分からないが、確かにそこに何かがいた。  先ほど園庭で見た蹲るようなシルエットは変わらない。  俺は布団で口を覆い、小さく小さく声を漏らしてみた。 「ねえねえ」  いつもせんせーと話すときのように舌の上で音を転がすと、蹲るその子は、頭らしき場所を緩慢に持ち上げた。 (! きこえてる!)  嬉しくなり、俺は早速『おねがい』を口にした。 「あのね、あのね、おねがいしてもいい?わるいひとがいてね、おれね、"きみたち"がね、ひとをやっつけられるの知ってるからね、てつだってほしくってね」  俺が一生懸命捲し立てている間、黒い影は微動だにしなかった。頭を持ち上げたまま、俺の顔の方を向いている。  反応がないので俺は『聞こえてないのかな』と不安になり、今度はもう少し大きめの声で言ってみようかと口を開く。  と。  焼け焦げたような匂いが、急激に強まった。  鼻の粘膜を焼き切るようなその匂いに、俺は思わず咽せる。  そして、ぶわりと身体を異様な熱気が包んだ。  熱い、尋常ではないほど熱い。  ――まるで、炎の中にいるような、 《……よ》  ゴオオオオ、と、いつの間にか耳を覆っていた轟音に紛れて何かが聞こえた。  だがそれどころではなく、俺は「あつい、ッあつい!」と喉が張り裂けるほど喚く。  辺りは訳が分からないほど真っ赤で、眩しくて、目が潰れそうだった。  ゴオオオオオという凄まじい音の脇で、時折バキン!と木がへし折れるような音が鳴る。  あつい、熱い、熱くて堪らない!  俺の叫び声の隙間を縫って、今度ははっきりと、耳元で、その声が響いた。 《いいよ》  途端、バツン!と意識が切れる。  グン、と目玉が一回転したような感覚に意識が引き戻された。  目の前に広がっていたのは、見慣れた高い高い天井だった。照明が落とされて薄暗い天井を訳も分からず見つめる。  シン、とした体育館は時折園児達の寝息が聞こえるだけで、轟音も、木のへし折れる音もない。  もちろん、身を焼くような異様な熱も、ない。  先ほどのは、一体何だったのだろうか。  呆然としながら天井を見上げていると、  ゴオオオオッ!  薄暗かったはずの天井が急に真っ赤に燃え出して、炎に包まれた梁が勢いよく落ちてきた。  重量のある木材は、俺の顔目掛けて一直線に落ちる。  突然の出来事に声を上げる余裕すらなく、開いた瞳は瞬きすら叶わない。  そのときだった。  ひやりと、冷たい何かが瞼を覆った。  優しく肌に触れる、手のひらのような。  覚えのある感触に我に返った俺は、咄嗟にギュッと目を瞑った。  信じられない事態に固まっていたなけなしの防衛本能が、ようやく働いたのだ。  無論、天井から落ちてくる燃え盛った木をそんなもので凌げるはずはないのだが。  どうしてか、いつまで経っても衝撃はなかった。  恐る恐る、目を開ける。  目の前に広がっていたのは、またしても見慣れた高い天井だった。  燃え盛った木が落ちてくることなどない、静かな、薄暗い天井。  俺は再び呆然と天井を見上げることになった。  何だったんだ、今のは。  さっきのもそうだ。一体何が……  混乱する頭でぐるぐると思考を散らかしていると、 「こら、ひなたくん」  頭上から声がして、ハッと我に返った。  仰向けにしていた頭をグッと反らし、声のした方を確認する。保育園の先生が、屈んだ状態で俺を見下ろしていた。 「みんな寝てるよ。ひなたくんも寝なきゃ」  叱るような口調に俺は反射的にこくりと頷く。満足したように先生は立ち上がり、去っていった。  ぱちぱち、瞬きをする。  受け止めきれないことばかりで、頭が容量超えを起こしていた。  疲れた脳は緩やかに眠気に身を委ね、抵抗する気力もなく瞼が降りていく。 (せんせー、きょうはお話してくれないのかな……)  ぽつりと、眠りに落ちる直前にそれだけが頭に浮かんだが、俺はすぐに意識を手放してしまった。 ☆  それから、せんせーがお昼寝の時間に俺のもとへ来ることは二度となかった。  どうして来てくれないんだろうと寂しく思いしばらくは泣きそうになりながら眠りに就いていたが、その内何を思わずとも眠れるようになっていった。  園舎の日陰で見たあの黒い影も、一度も見ることはなかった。  それらが何を意味するかなんて考えもせず俺は卒園してしまったが、今なら分かる。  せんせーがいなくなってしまった意味も、黒い影が消えた意味も。  『人を呪わば、穴二つ』。初めに聞いたのは兄の口からだったか。  俺は、そのとき初めて自らの過ちに気付いた。  当時のやるせなさは、今でも蘇る。  俺を守って消えてしまったせんせーに、俺は何もできない。せんせーの名前も、顔も、どうして地縛霊になってしまったのかも、何も知らない。  墓前に花を手向けることすらできない。  それは、人を呪おうとした俺の罪なのだと思う。  雪見さんは父親を呪おうとしているし、俺は父親を呪おうとした。  『同じ』だと言われても、仕方ないのかもしれない。  でも、だからこそ、俺は雪見さんを止めなければならないと思った。  多分、せんせーへの罪悪感もある。苦い思い出を、昇華させたいだけなのかもしれない。  それでも、『人を呪う』という行為が何を生むのか俺は知っているから。  無視なんて、できない。  ……できなかった。

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