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#10 かくれんぼ

 小学生の頃の話。  兄がまだ中学に上がっていなかったから、小四くらいかな。  学校が終わって、友達はみんなそれぞれ予定があったので俺は真っ直ぐ家へ帰ってきた。  両親は共働きで兄もまだ帰ってきていなかったので、俺は部屋に荷物を置くと居間に降りて一人でテレビを見ることにした。 (何もやってないなー)  平日の中途半端な時間は、子供が見て楽しいような番組は特にやっていない。  比較的笑いの多いニュースバラエティにチャンネルを回して、『流し見しながら宿題でもやろう』と再び二階へ上がった。  自室へ入ると、帰ってきてすぐ机の傍に放ったはずのランドセルがそこになかった。 「あれ」  部屋を見回しても、それらしいものはない。 (一階に置いたんだっけ?)  首を傾げながらとりあえずは部屋を出て階段を下りる。  居間の戸を開けると、点けていたはずのテレビが消えていた。  広い空間に不自然なほどシーンと沈黙が下りている。ぐるりと見渡すが、ランドセルはやはり見当たらない。  パッと廊下に顔を出して玄関を見る。やはり、何もなかった。  ……どこに置いたっけ。  ゆっくり戸を閉めてじっと考え込むと、衣擦れの音すら消えて、居間の中の静寂が嫌なほど耳につく。  何だか不気味だったので、とりあえずテレビを点けることにした。リモコンの電源ボタンを押す。 『ピーーー』 「!」  テレビから流れた無機質な音に俺はビクリとした。  画面に黄色やら赤やら紫やらのバーが現れている。  いわゆる『カラーバー』というやつだが、当時の俺はそれを知らず、ただただテレビが壊れてしまったと恐ろしくなった。  慌ててリモコンのボタンを押すが、一切反応はない。電源ボタンを押しても画面は変わらなかった。 「ど、どうしよう、」  主電源の方を切ってみようとテレビに手を伸ばす。  すると、顔の間近に迫った画面がパッと切り替わった。  音も止む。俺は慌ててテレビから離れた。  画面を見ると、色味のないモノクロの映像だった。  ザザッ、と荒れながら、ピントが合うようにだんだん画質が鮮明になっていく。  映っていたのは、俺の家の玄関だった。 「へ……なに、これ」  高い位置から玄関のドアと三和土と靴箱を俯瞰で映した、監視カメラのようなその映像は、白黒のまま一向に動かない。  訳も分からず画面を見続けて、一分ほど。  玄関のドアが、ゆっくり静かに開いた。 「!!」  兄が帰ってきたのかもしれないと思いつつ、その姿を確認しようと画面を見る。  入ってきたのは、ボサボサの黒髪に黒いワンピースを身につけた知らない女性だった。  鮮明な白黒の映像の中で、彼女の姿だけが時折砂嵐のようにザッ、ザザッ、と揺れる。 (だ、だれ、"おかあさん"じゃ、ない)  俺は呆然とそう考えてから、ハッと我に返った。  逃げなきゃ。でもどこに逃げればいい?戸を開けて廊下に出てしまったら、右手はもう玄関だ。  俺は混乱する頭で、居間の中を見渡した。  そうだ、台所の下の戸棚。鍋やフライパンを仕舞っている大きな戸棚がある。あそこなら――  監視カメラを見ながら、後ずさる。テレビの中の女は緩慢な動きで歩を進めていた。  急いで台所に向かう。目当ての戸棚を開けると、思っていたより調理器具でいっぱいだった。 (どうしよう、入れない……!)  必死で器具を退かし、スペースを作る。何とか空いた隙間に身体をねじ込み、戸を閉めた。と同時に、ガチャッ、と居間の戸が開く音が聞こえる。 (!)  思わず身体が跳ねた。雑に退けた戸棚の中の鍋に足がぶつかって、音が鳴る。やばい。 (ど、どうしよう、きづかないで……!)  恐怖で涙が込み上げてくる。最悪だ。  嗚咽を噛み殺そうと両手で口を強く抑える。しかし抑え込めば抑え込むほどしゃくり上げたときに肩が大きく跳ねてしまい、俺の焦りは募るばかりだった。  足音が聞こえる。  トッ……トッ……トッ……という音は、だんだん大きくなっていく。  ――こちらに来ている。俺は必死で息を潜めた。  足音はついに、すぐ傍まで来た。  音は辺りを物色するように動いて、……あっさり台所から出ていった。  聴覚を研ぎ澄まして女の動向を探っていると、やがて居間の戸が開いて、閉まる音が聞こえてきた。  ――部屋を出た?  ホッと安堵して脱力する。肩が重く感じた。外に出ようと戸棚に手を掛けたその瞬間、ふと脳裏に記憶が蘇った。 『これ超怖くない?』  兄の見せてきた漫画。現実で事足りるだろうに、何故か兄はホラー漫画を読んでいた。  それは幽霊の出てくるホラーではなく、所謂「お化けより人間の方が怖い」ホラーで、見せられたのは家にいるときにストーカーが侵入してくるという話の一頁だった。  咄嗟にベッドの下に隠れてストーカーの足だけを見ていると、その足は家の玄関に向かっていく。  帰ってくれるのかと思えば、ストーカーはドアを開けて、何故かそのまま閉めた。  主人公からは足が見えているので、ストーカーが家を出ていないことは分かる。  何故そんなことをしたのか主人公は考えて、ある可能性を閃いた。  『ドアの音で帰ったと思って私が出てきたところを――』。  俺はバッと戸棚から手を離した。  まだ、いるかもしれない。再び息を潜めて、しばらく。  暗闇の中でじっと居間のある方向を睨みつけていると、ガチャリと音がした。心臓が飛び跳ねる。 (!う、うそだ)  キイィ、という音がして、ゆっくり戸が閉じられる。念のためまたしばらく待ったが、物音は一切聞こえてこない。  出ても大丈夫だろうか。  でも、これもフェイクだったら?いっそのこと、兄が帰ってくるまでここに隠れていようか。  ……いつ帰ってくるか、分からないが。  俺が帰ってきたのは三時頃だったと思う。兄が遊んで帰ってくるなら、長くてあと三時間はこのままだ。 (……そんなに耐えられる気、しない)  それに兄が帰ってくるまでにこの戸棚をあの女が開けない保障も、ない。  そこでふと思いつく。居間の窓から家を出てしまえばいいじゃないか。  ……あまりの恐怖と混乱でそんな単純なことさえ思いつかなかった。  居間の中で物音は、未だしない。  俺は意を決して恐る恐る戸棚を開けた。  静かに、慎重に居間を覗く。誰も、何もおらず、ひとまずホッとした。  忍び足で窓まで歩き、ふと点いたままのテレビに視線を向ける。  画面には、脱衣所に入っていく女が映っていた。今のうちに逃げなければ。  窓の鍵に手をかける。が、鍵はびくともしない。両手で握って全体重をかけても、鍵は回らなかった。  焦りながらテレビを見る。女は風呂場にいた。  俺は急いで居間を出て、玄関に向かう。鍵は開いていた。なのに、こちらもドアノブが回らない。  ……あまり音を立てるのはまずい。家から出られないなら、ここで時間をロスするのは得策ではない。また、どこかに隠れなければ。  そう考えて、俺は迷わず階段へ向かった。廊下に出られたなら、逃げ込む場所は一つしかない。  恐らくこの家で最も安全な部屋、兄の部屋だ。  が、階段の一段目に足をかけたところで、脱衣所から物音がした。  思わず身体が固まる。  こんなところで足を止めている場合じゃないのに。意思に反して、身体は微動だにしない。  顔が、目が、音のした方へ釘付けになる。  あちこち跳ねて艶のない黒髪が戸から覗いた。  女の横顔が、ゆっくりこちらに向いて――  そこでようやく俺の身体が動いた。  咄嗟に階段と廊下を隔てる壁に身を隠す。四つん這いになって、急いで階段を駆け上がった。  なるべく音を立てないように努力したが、鳴らなかった自信は全くない。  兄の部屋に滑り込む。内側から戸を閉めると一気に肩の力が抜けた。もう安心だ、と思ったのも束の間。  階段を昇る音が、聞こえる。  呼吸が止まった。やはり、バレたのだろうか。  とは言えここは兄の部屋だ。あの兄の。いるだけで霊を突っ撥ねる兄の部屋とあれば、もはや天然の結界と言っても良いのでは。 (………本当に?)  ふいに湧いた自問に、自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。  確かに兄は、霊など造作もなく跳ね除けてしまうような人間だ。  でも、だから兄の部屋が安全だなんて確証はない。肝心の兄がいなければ、この部屋もただの部屋なのではないか?  考えている間にも、足音はどんどん上がってくる。 (わ、わかんない、お、おれ、どうしたらいいの、)  女の緩慢な足音を耳に入れながら、俺は震える手で兄の部屋のクローゼットを開けた。  せめて、隠れなければと思った。  中へ入りクローゼットを閉めれば、部屋の窓から入っていた光は一切遮断される。  視界が真っ暗になり、鼻孔いっぱいに兄の匂いが満ちて、途端に目から涙がボロボロ零れた。  危機的状況なのに、どうしようもなく安堵してしまう。でも、やっぱり怖い。自分の気持ちがどこにあるのか全く分からなくて、パニック状態だった。  ひっく、ひっく、と嗚咽が止まらない。膝を抱えて口を埋めたが、喉から漏れる音は止めきれなかった。  どれだけそうしていただろうか。  クローゼットの中からは女の足音はよく聞こえない。  今、どこにいるんだ。  ふとそう思ったとき、ガチャッ!と部屋の戸が開いた。  ヒュッ、と息が止まる。  女が、入ってきた。やっぱりダメだったんだ。お兄が、いなければ。台所の戸棚に隠れていればよかった。いや、それより、異変を感じた時点ですぐに家を出たら良かった。始まりは、ランドセルがなくなったあのときだったはずだ。あのときに家を出ていれば。  後悔が雪崩るように押し寄せてくる。クローゼットの中は、兄の匂いと俺の後悔でいっぱいだった。  聞こえてくる足音は粗い。部屋中を歩き回っているようだ。このクローゼットが開けられるのも時間の問題だろう。  そう考えるとまた涙が込み上げてきた。手で涙を拭い、んくっ、と嗚咽を飲み込む。もう嫌だ。何で涙なんか出てくるんだ。  すると、足音がピタリと止まる。一瞬の後、迷いのない様子で音が近付いてきた。 (こわい、こわい!やだ、こないで、や、)  バン!  クローゼットの戸が開いた。  目の前には、兄がいた。 「……見つけた」  窓の光を背中に浴びて逆行になった兄の顔に、笑みが浮かぶ。  目の前の光景にゆっくり瞬きをすると、次の瞬間、堰を切ったように両目から涙が溢れた。  クローゼットから飛び出て兄に抱きつく。 「おにい、おにいっ!おにいぃ、」  ぎゅう、と兄をきつく抱き締めてしゃくり上げると、兄が抱き込むように俺の頭に腕を回した。 「はいはい。だいじょーぶ、だいじょーぶ」  兄が頭を撫で付けてくる。俺は、気の済むまで声を上げて泣いた。 ☆  泣き疲れて眠ってしまったらしい。気が付けば真っ暗な部屋でベッドに横になっていた。  むくりと上半身を起こす。ふと、クローゼットの中に隠れていたときの暗闇を思い出して急激に心細くなった。  瞳にじわりと涙が滲む。と、部屋の戸が開いて電気が点いた。 「お。起きたな」  兄が部屋に入ってくる。  我に返って部屋を見渡せば、そこは兄の部屋だった。 「い、いまなんじ」 「夜10時。飯食う?」 「くわない……」 「そ」  兄がベッドに腰掛ける。  俺は先程感じた心細さを埋めたくて、起こしていた上半身を兄の膝の上に倒した。  兄は驚いたように少し固まってから、掌で俺の頬をぐりぐり回してきた。 「う~」 「お前、偉いじゃん」 「うん?」  唐突に投げかけられたその言葉に、俺は首を傾げた。  兄の顔を見上げれば、ニッと笑ってこちらを見ていた。 「せーかい。俺の部屋に逃げ込んだの」 「……へ。ほんと?」 「おー。ドアの前でウロウロしてた。あの変な女」    入れなかったんだろうな、と兄が悪戯っ子みたいな笑みを浮かべる。  あ……あれで、よかったんだ……。  俺は心底から安堵した。 「俺も知らなかったわ。俺の部屋にそんな結界みたいな役割あったとか。やっぱ俺すげーな」 「ほんと、それは否定しない」  うんうん、と俺は頷く。  兄が「あ、そうだ」と思い出したように声を上げた。 「お前の部屋、一応見てやったんだけど。すげー量の髪の毛出てきて引いた」 「えっ……」 「多分、あの女のだと思うんだけど」 「ふ、うぇ、」  思わず涙ぐむ。  何故わざわざ言う。  兄はさすがにからかいすぎたと思ったのか「あー泣くな泣くな」と言って頭をわしゃわしゃかき混ぜてきた。 「ちゃんと片付けたから。もうない。な」  多分、と兄が付け足す。少し引っ掛かりはあるが、涙は引っ込んだ。  俺が「ありがと」と呟くと、兄は「ん」とだけ返してきた。そして言葉を続ける。 「あとランドセル。家の前に転がってたけどどうした?」 「え、家の前にあったの?」 「そう」 「……分かんない。部屋に置いたと思ったらなくて、探してたら、あの女が家に入ってきて」 「ふーん。…………」  何やら思案しているようなその様子に俺は首を傾げたが、兄はすぐに表情を変えた。 「じゃあ部屋戻って寝ろ」 「ええ!うそでしょ!無理だって!」 「そうやって明日も明後日もその先も部屋で寝ねーのかよ」 「うっ……そ、それとこれとは違うじゃん!今日は無理なんだって、気分的にさぁ……! ……こわいんだもん……」 「えー、じゃあ一緒に寝んの?」 「だ、だめ?」 「せめーじゃん」 「端っこで寝る」 「……仕方ねーなぁ」  兄が渋々といった様子で布団を持ち上げる。  俺はいそいそと兄の膝から頭を起こし、壁際に寄った。 「いいよ別に端っこで寝なくて」 「え、でも」 「俺がいいっつってんだからいいんだよ」  そう言って兄が横になる。  俺は「……それじゃあ」と兄に近付いた。すると、兄ががばりと俺の身体に腕を巻き付けてくる。 「あーいい抱き枕」 「うー、重いー」 「一緒に寝させてやるんだから我慢しろよ」  兄がリモコンを操作して部屋の電気を消す。  俺は不満げに唸りながらも、大人しくその位置に収まった。  重いけど、暖かくて安心する。包み込んでくる兄の身体は、二歳しか変わらないのに随分大きく思えた。  兄の温もりを感じながら、俺はあっという間に眠りについた。

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