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#11 海の死体
高校二年生のときの話。
夏休みのお盆シーズンに、俺たち家族は海沿いにある父の実家へ帰省した。
「ただいま」
「おかえりなさい。さあさ、夕くん陽ぃくんもお上がり」
「ばーちゃん久しぶり!」
「久しぶりだねぇ、二人共元気でよかった」
家の戸を叩くと、婆ちゃんが優しく迎えてくれた。
中へ入るとテレビを見ていた爺ちゃんがこちらを向いて「おお」と言う。
「おかえり。一年ぶりか?」
「そうだね、今年は正月顔出せなかったから」
「夕の受験があったもんなぁ。受かったって聞いて安心したよ」
「いやーお陰様で」
兄が畳に荷物を置いて適当な場所へ胡座をかく。俺も近くに荷物を下ろした。
「陽ぃは来年受験生か、早いなぁ」
「うわー考えたくねー」
頭を抱えた俺に、爺ちゃんがカラカラ笑う。
父方の祖父母なので血は繋がっていないのだが、爺ちゃんと婆ちゃんは本当の孫のように接してくれる。だから俺も、二人のことを本当の爺ちゃんと婆ちゃんのように思えた。
俺は畳でぐだーっと座る兄の腕を引っ張った。
「お兄、海行こ!海!」
「え~?今来たばっかじゃん、暑いじゃん」
「暑いから行くんじゃん!」
「何でそんな元気なんだお前……」
「夜ご飯まで少し時間あるし、行っといでよ」
父に促されて兄は渋々腰を上げる。
婆ちゃんが、「これこれ、暑くて倒れちゃうよ」と麦わら帽子を持って来てくれた。
揃いの麦わら帽子を被って二人で玄関を出る。
兄は全く乗り気ではないが、俺は浮き足立っていた。
祖父母の家から歩いて十分のところにある海は、水が澄んでいる上に田舎のため人も少なく、俺のお気に入りの場所だった。
真夏日の太陽に汗を滴らせながら歩き、海へ着く。
まさに青い海!白い砂浜!で、俺は思わず駆け出した。
「転ぶなよー」
「転ばないー!」
波打ち際まで来ると、俺はサンダルを脱ぎ片手に持って、ぺちゃりと素足を一歩踏み出した。
「うはー!きもちー!」
ザブザブ海水をかき分けて進んでいく。
膝丈のハーフパンツを太ももまで捲って、腕もジャプッと海面下に沈めた。
と、そのとき。
「うおっ!」
ドン!と背中に衝撃を受けた。
あっさり体勢を崩し、べチャンと身体が海に浸かる。浅瀬の砂に手をつき慌てて体勢を立て直した。
振り向くと、くつくつ笑う兄の姿。
「お~に~い~?」
「いやいや、これを期待してスマホも財布も置いてきたんだろ?」
「そっちこそ!」
そう言ってすかさず俺は兄に飛びつく。
「うわちょ、やめろ!」と抵抗する兄の足を海の中で払えば、あっさり体勢を崩した。
が、道連れとばかりに兄が俺の胸倉を掴み、二人で仲良く浅瀬に倒れ込む。
海の中で上半身を起こして、びしょ濡れになった互いの姿を見る。俺達は同時に笑い声を上げた。
「恒例のやつ!」
「毎年とりあえずびしょ濡れになっとくっつーね」
立ち上がって海の中を歩く。
これでもう服が濡れることを気にしなくていい。
歩きながらまた何度か互いを海に沈め合ったり二人で倒れ込んだりして、しばらく。
遊び疲れた俺と兄は、海から上がり波打ち際に座り込んだ。
「上がるとあちー」
「だねー」
陽射しは相変わらず強くて、濡れた衣服が一瞬で渇いていくような気さえする。
砂浜も太陽に熱せられていて、触れている尻と足が熱い。
僅かに水に浸かる足をパタパタ動かしていると、突風が吹いた。
「うわ!」
咄嗟に頭を抑えたが遅かったようで、被っていた麦わら帽子はもうそこにはなかった。
慌てて辺りを見回すと、少し離れたところでぷかぷか海面を揺蕩っている。
拾いに行こうと立ち上がると、また突風。麦わら帽子は更に遠くへ行ってしまった。
「うわーもー……。ちょっと拾ってくる」
「ちょっと待て」
「え」
「何か嫌な予感がする」
兄が立ち上がって自分の麦わら帽子を俺の頭に乗せる。飛ばないようにしっかり紐を顎にかけられた。
「いいよ。すぐそこにあるもん」
「すぐそこで拾えればいいな」
「え?」
問い返したとき、またもや突風が吹いて海面上の麦わら帽子が飛んで行った。
「うわっ、また風……さっきまでそよ風すら吹いてなかったのに、……って、……俺も嫌な予感してきた………」
「さすが、察しがいいな」
兄がニヤッと口の片端を上げる。ニヤッじゃねーよニヤッじゃ。
先程まで本当にそよ風すら吹いていなかったのだ。それが突然、断続的に強い風が吹き始めて麦わら帽子がどんどん遠くへ行ってしまう。
俺の第六感、すなわち霊感が言っている。誘われている、と。
麦わら帽子の方へ歩き出した兄に慌てて声をかける。
「い、行くの?」
「そこで待っててもいいけど」
言葉に詰まる。俺は逡巡して、兄の後を着いて行くことに決めた。傍にいた方が安全だろう。
浅瀬をジャブジャブ歩く。案の定、手が届くところまで来ると突風が吹いて麦わら帽子は遠くまで飛んでいってしまう。
中々拾えないことに俺はだんだん苛々してきた。
「どこまで歩けばいいんだよ!」
「ほんとだよ……クッソあちー」
「あ、お兄、麦わら帽子いいよ。ありがと」
「いい。お前脆弱だから絶対熱中症になる」
「何だと!」
優しいのか意地悪なのかどっちなんだよ。
「そんなに暑いなら涼しくしてやるよ!」
「ちょっ!」
俺は不意をついて兄の身体に体当たりした。
ザプン!と飛沫を上げて沈む兄に笑い声を上げる。と思うと、海中から腕を引っ張られて体勢を崩した。ザブンッと尻餅をつく。
「うわっ!」
「何してんの」
「はぁ!?お兄が引っ張ったんじゃん!」
「いや俺引っ張ってねーけど」
「え?……」
兄の顔を凝視する。
俺の顔を見つめ返す兄に嘘を吐いている様子はない。俺は徐々に顔から血の気が引いていくのを感じた。
と、兄がふと視線を外して、「あ」と呟いた。
背後を指さされたので振り返ってみると、海面を揺蕩っていたはずの麦わら帽子がいつの間にか砂浜に転がっていた。
風、吹いたっけ。
先に立ち上がった兄の手を借りて、俺も立ち上がる。
二人で砂浜に上がり麦わら帽子に向かって歩いていくが、どれだけ近付いてももう風は吹かなかった。
恐る恐る拾い上げる。砂を払ってくるくる回してみたが、特に異変はないようだった。
被っていた麦わら帽子を兄に返そうと頭に手を伸ばす。
と、ぐいっと鍔を下げられて視界を隠された。
「えっ、え、何?」
「……何でもない。……こともないけど。わざわざ見なくていい」
兄はそう言うと俺の肩を掴んで反対方向へ押して行く。
疑問符を浮かべつつも押されるままに足を動かし、俺達は海から離れた。
しばらく歩いたところで麦わら帽子を直され、視界が元に戻る。
とりあえず、手に持っていた麦わら帽子を兄の頭に被せ……ようとしたら、背伸びをされた。
「何でだよ!」
肩をぺチンと叩くと兄が笑って踵を地面につける。帽子を被せてやると、兄は口を開いた。
「どざえもんって知ってる?」
「何?ド●えもん?」
「言うと思った。土左衛門(どざえもん)な」
「土左衛門?何それ」
「水死体のこと」
「えっ……」
「あったんだよ、さっき」
思わず立ち止まって兄を見上げた。兄の表情は、帽子の影ではっきりとは分からない。
「え、……ほ、本物?」
「多分」
「み、見たの?」
「……まあ」
俺に『見なくていい』と言ったのは、水死体があったからだったのか……。
「……さっき、海で尻餅ついたとき。引っ張られたって言ったよな」
「へ、……あぁ、うん」
兄はそれきり押し黙る。
何やら思案している顔を見つめながら、俺は兄が心配になった。
普段からエグめの霊を目にすることは多々あれど、生きていた人間の生の死体を見るのはさすがに初めてのはずだ。
不安げな瞳で見上げてくる俺に色々察したのだろう、兄は安心させるように表情を崩した。
「スマホもねーし、誰かに通報してもらわねーとな」
「う、うん……」
兄が何でもないようにまた歩き出したので、俺もそれに着いていく。
砂浜から出てコンクリートの上を少し歩くと、小さな駐車場に行き着いた。古びた管理人室が見える。
開きっ放しになっていた戸の中をちらりと覗くと、管理人らしきおじさんともう一人、男性の姿。
おじさんは電話をしており、男性は顔を青ざめさせながら椅子に腰掛けていた。
俺と兄は顔を見合わせる。
とりあえずおじさんの電話が終わるのを待った。受話器を置いたおじさんが男性の方を振り返る。
「すぐに警察の方が来るそうなので、すみませんがもうしばらくお待ちください」
俺達は再び顔を見合わせた。
「け、警察ってもしかして」
「水死体すか」
顔を青ざめさせていた男性が兄の言葉に肩を震わせた。恐々こちらを見て言う。
「あなた方も見たんですか」
「まあ」
「じ、実は私も見まして……今警察に通報してもらったところなんです」
おじさんがこちらを向いて口を開く。
「すみません、見たのは先程ですか?」
「ついさっきす。見つけてすぐこっちに」
兄は簡単に見たものの状況説明をした。
見たものも見たときの状況も先に来ていた第一発見者の男性と同じだったので、念のため兄の電話番号を控えておいてもらって俺達は帰ることになった。
日が長いためまだまだ空は青かったが、時刻は夕方頃だ。
俺と兄は、寄り道せずに真っ直ぐ家路を辿っていた。ペタペタと二人分のサンダルが音を鳴らす。
俺は、先程横で聞いた兄の状況説明を思い出していた。
水死体は勿論見たことがないので、話で聞いてもいまいちイメージが湧かなかった。
しかしそれを兄が実際に見たのだと思うと、何だか隣を歩く兄が気になって仕方なくなった。
ちらりと兄の方を見遣ると、ばっちり目が合った。兄が苦笑して俺の頭に手を伸ばす。
「大丈夫だって」
麦わら帽子の上から頭を揺らすように撫でられる。見透かされたのが何だか恥ずかしくて、俺は唇を尖らせた。
「う、んー……」
「自分より動揺してる奴がいると冷静になるよな」
「ぐぐ……」
見てもねーのに俺より慌ててらぁ、ってか。
兄の横顔を盗み見たが、帽子の影の下の顔は存外柔らかい表情をしている。
「ほんとに大丈夫?夕飯食える?」
死体なんて見た後じゃ、夕飯も喉を通らないだろう。
本気で心配して尋ねたのに、兄は目をぱちくりさせたかと思うと次の瞬間ゲラゲラ笑い出した。
「な、なんで笑うんだよ!ばーちゃんのご飯食いたいだろ!?」
「あっはははは!くい、食いたい!あはは、はははは!おま、可愛いなぁほんと」
そんなに笑うことないだろというくらい笑われて、俺は完全に拗ねた。
だって婆ちゃんのご飯すっげー美味いんだよ。俺も兄も帰省の度に楽しみにしてて、だから水死体なんか見てご飯食べる気なくなっちゃったら可哀想だなって思ってさぁ!人が心配したのに!
もー、何か変に恥ずかしい。でもいいよもう。死体見て気落ちしたりしてないなら良かった。ご飯も食べられるようで良かった!
「ただいまー!」
「ただいまー」
「おかえりー、って、あはは。今年もびしょ濡れだ」
夕飯の支度できてるから着替えてきな、と父に促されて脱衣所へ向かう。台所からは煮魚の香りがしていた。
「わー!お兄、カレイの煮付けだよー!」
「いやー嬉しいなぁ。ばーちゃんの飯食えるの幸せだわ」
兄が含みのある笑顔を向けてくる。
夕飯のことで頭がいっぱいで、一瞬何のことかと思ったが兄のその顔を見てすぐに思い当たった。
俺は黙って兄の背中を平手打ちした。
兄が見た水死体に関するニュースは、その後特に見当たらなかった。
見逃した可能性もあるが、兄も俺も、父も、地元で起きた事故や事件の情報は得ていなかった。
電話番号を控えてもらったが特に連絡もなかったし、事件性が薄かったのだろうか。
遊泳客が海で泳いでいる最中に溺れて亡くなった――それならば、大々的なニュースにもならないのかもしれない。
だとすれば、俺の第六感か一つの可能性を浮かべてしまう。
麦わら帽子を追いかけていたときに、海の中から俺の腕を引っ張った何か。尻餅をつかせるほど強い力だった。もしも、あれに足のつかないところで引っ張られて沈んでしまったら。きっと、そう簡単には戻れないだろう。
あの海が心霊スポットだという話は、特に聞いたことがない。兄も父も祖父母も、そんなことは言っていなかった。
もし水死体が霊の仕業なら、気まぐれな悪戯だったということだろうか。何にせよ、人が死んだのは確か。
今でも忘れられない、夏の記憶のひとつだ。
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