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#13 蠱毒

※エグめの虫表現あり  中三の秋の話だ。  兄と同じ高校に行きたくない一心で寝ても覚めても勉強しかしなかった日々の、とある平日。  学校帰りに塾へ寄り、みっちり試験対策に勤しみ、帰路についたのは22時頃だった。家から近い塾を選んだので、夜遅くの帰りでも基本的には一人で帰っていた。 のだが、その日は珍しく迎えがあった。 「あれ?お兄だ」 「おー」 塾の入っているビルの階段を降りると、兄が一階の玄関前で壁に凭れてスマホを弄っていた。駆け寄ってみれば、手には二本の傘。 「えっ!もしや雨降ってるからって迎えに来てくれたの!?」 「もしやって何だよ。だったら悪いかコラ」 「いや珍しいこともあるもんだなぁって……雨でも降るんじゃ、ってもう降ってんのか」 「あーこいつ置いて帰ろうかな」 「うそうそうそ冗談冗談!ちょうど折りたたみ傘忘れてきたんだありがと!マジ感謝!一緒に帰ろ!」 「必死か」  踵を返した兄を慌てて引き止めて、傘を一本奪い取る。  ビルから出ると外は予想以上にどしゃぶりだった。それに雷も鳴っているらしい。遠くでゴロゴロと嫌な音がしていた。 「うわ、こんなに降るなんて天気予報で言ってたっけ?」 「20時くらいから降り始めてちょうど家出た頃に地獄かってくらい雨脚強くなったな」 「マジで?やっぱお兄のせいじゃない?」 「傘没収すっか?」 「や!それはやだ!いや、だっていっつもこういうとき来てくれるの父さんじゃん」 「……」  急に黙り込んだ兄に『おや?まさか怒った?』と思う。傘で顔が見えないので屈むような体勢で下から覗き込もうとすると、兄がぽつりと呟いた。 「何か嫌な予感したんだよ」 「へ、何が……」  もう少しで顔が見えるというところで兄の言葉にピタリと止まる。  と、その瞬間。 バシャッ。  車道を走る車が水溜まりの上を走り、撥ねた水が丸々俺の身体にかかった。 「!?!?」 「ブハッ」  何が起きたのか把握できず混乱する俺を余所に、兄が雨音に負けないほど高らかにゲラゲラと笑い声を上げた。  ぽた、と傘の下で髪の毛から雫が滴り落ちる。 「や……やな予感ってこれか!?」 「フハッ、ちょいマジで笑わせんな腹痛いわ」 「笑い事じゃねーっつの!ちょぉ、やばいってほんとにびっちょびちょ……」  衣服が泥水を吸って肌に張り付くのが本当に気持ち悪い。最悪。帰ったら速攻で風呂だ。  これでもかというほど気落ちしながら再び帰路を辿る。やっとの思いで家まで着くと、思わず大きな溜め息が出た。  軒先で傘を閉じ、傘の水気を飛ばす。 「はー風呂風呂」 「俺先入っていい?」 「ダメに決まってんだろ!」 「ははは、嘘嘘」 「はははじゃねんだわ」  兄が玄関の戸を開ける。俺も続いて中に入ろうとしたが、足元に何かが転がっているのが見えて立ち止まった。  何だろ、大きめの……瓶?暗くて中身までは見えない。もっと近くで…… 「触んな」 「!」  しゃがみ込んで瓶に手を伸ばそうとしていた俺を、兄の鋭い声が止める。ビクリと肩が跳ねた反動で、人差し指の爪が瓶のガラスに一瞬だけ触れて、カン、と音がなる。慌てて指を引っ込めながら、俺は兄の方を見た。  兄は俺の腕を引っ張って家の中に引きずり込むと、入れ替わるように外へ出て転がる瓶を拾い上げた。 「……嫌な予感、これかよ」  吐き捨てるように言って、兄は瓶を片手にそのまま外へ歩き出した。 「えっ、お兄どこ行くの」 「すぐ戻る。お前はさっさと風呂入れ」 「う……うん……」  有無を言わさぬ様子で踵を返してしまったので、大人しく従って中へ引っ込む。詳しい話は後で聞くことにして、とりあえずこの泥まみれの身体をどうにかしようと俺は風呂場へ直行した。 ☆  風呂から出ると、リビングには食卓でひとり晩酌を楽しんでいる父と、ソファに腰かけテレビを見ている兄がいた。 「あ、お兄おかえり」 「ただいま」  隣に腰かけてタオルで髪をわしわし乾かしながら兄に尋ねる。 「さっきの瓶なんだったの?」 「あー……。蠱毒、っつって分かる?」 「こどく?何それ」 「ざっくり言うと呪いの道具」 「えっ」  何故そんなものがうちの軒先に……。思わず固まる俺を横目に、兄は続ける。 「ひとつの容器に複数の虫を入れて飼育すんだよ。そんで互いに食い殺させ合って、最後に生き残った一番強い虫を使って人を呪うっつーえげつねぇ呪術なんだけど」 「こ、こっわ……」 「うわあ、何かまた怖い話してる……」  話が聞こえたらしい父が食卓から怯えた声を上げる。  俺と父はすこぶる怖がりなのだ。兄はそんな俺達の反応を楽しんでいる節があるのでタチが悪い。  さっきの瓶は、その蠱毒の瓶だったということだろうか。 「どこの馬鹿が作ったのか知らねーけど、まぁ見たとこ作ったばっかって感じだったし最強が決まる前に中の虫全部放ったから大丈夫だろ」 「そっかぁ、よかったー……」  ホッと胸を撫で下ろす。が、兄はその顔に少し神妙な色を浮かべている。一体どうしたのかと小首を傾げていると、兄が口を開いた。 「……でも、何か妙なことあったらすぐ言えよ」 「うん?……うん」  『大丈夫だろ』という台詞を聞いたはずなのに、念を押すような兄の言葉に、何だか少し胸がざわついた。 ☆  翌日。前日と同様、学校帰りに塾へ寄り、みっちり試験勉強に勤しんで、22時。  今日は特に雨も降っていないので迎えはなく、俺は普段通りひとりで帰路についた。  自宅のある住宅街は、外灯が少ない代わりに家の灯りがあちらこちらから漏れている。明るくはないが、暗くもない。そんな道を歩いていると、ふと靴の爪先が何かを蹴り飛ばした。  何だろうと視線を落として、俺は息を呑んだ。  昨日見たのと、同じような瓶だった。  いや、大きさどころかシルエットも同じだ。……中身は。  瓶の中身を確認しようと恐る恐る屈む。夜目の効く距離まで近づいて、俺は思わず飛び退いた。 (蓋、開いてる……!)  住宅街の静寂の中、俺は飛び退いた体勢のまま固まった。遠目から瓶を凝視していると、暗闇の中、瓶の中の"何か"がごそりと蠢いた気配がした。 「ひっ……!」  俺は咄嗟に走り出した。兄ではないが、激しく『嫌な予感』がした。このままその場に留まっていてはいけないような、直感。  俺はそのまま一度も立ち止まることなく家まで走って帰った。 「いやほんとに!マジで!」 「ふーん……」  家に帰り、兄に件の瓶の話をする。俺は兄の部屋のベッドに腰かけ、兄は勉強机の回転椅子に腰かけている。俺の話を聞いた兄は、何やら思案しているようだった。 「中に入ってた虫は全部放ったんだよね?」 「放ったし、入ってた瓶も粉々にして捨てた」 「えっ」 「……お前自身には今のところ何もないんだな?」 「う、うん。特には」 「とりあえず、当分は注意しとけ。お前は"引き寄せ"やすいから」 「う……分かった」  兄に言われて、言葉に詰まりながらも頷く。  もう夜も遅いので話はそこで切り上げて、俺は自室へ戻り眠りにつくことにした。 ☆  ――寝苦しい。  何だか妙な感触がする。肌を、何かが這っているような。  夢か現か曖昧な心地を抱えながら、俺はぼんやりと目を開けた。肌を這う何かの感触は消えない。むしろ、徐々に覚醒していく頭が感覚を鋭敏にしていく。  ……気持ち悪い。肌を、全身を這う何かの感触がどんどんはっきりしていく。  カサカサ、ズルズル、肌の上を滑る。短い無数の毛のような足が、あちこちを這いずる。  この感触はまるで、虫、みたいな。  ゾクッと肌が粟立った。瞬間、脳裏にイメージが湧く。  ベッドに横になった俺の身体中を、大きなムカデやミミズ達が這っている、そんなイメージ。 「っ!」  バッと上半身を起こした。はぁ、はぁ、と荒い息が部屋に響く。ガタゴト音を立てながら部屋の電気のリモコンを手で探り、急いで電気を点ける。  パッと点いた明かりに目を細めながら、俺は自分の身体を見回した。  ――虫の姿は、どこにも見当たらない。  夢、か……。  はぁ、と息を吐く。そのままベッドに倒れ込んで、目を瞑った。 (気持ち悪い……)  夢のはずなのに、肌には妙に生々しい虫の感触が残っていた。  ……明日も学校なんだ。とにかく、忘れて寝てしまおう。  俺は再び電気を消し、頭まで布団を被った。 ☆ 「う……」 「さ、38度……。陽向、つらい?大丈夫?」 「きもちわるい……」 「吐きそう?ば、バケツ持ってくるから、ちょっと待っててね」  心配そうに俺の顔を覗き込んでいた父が小走りで部屋を去る。  朝。目が覚めると、俺は起き上がれないほどの倦怠感に襲われていた。熱があるらしく身体が暑いのに、背筋にはずっとゾクゾクと寒気が走っている。  気持ち悪い。ひたすらに、気持ち悪い。  ……でもそれは、熱にうなされているからじゃない。  昨日の夜中の、肌を這う虫の感触が一向に消えない……いや、それどころかよりはっきりと感じているからだ。  身体中を埋め尽くすほどの、無数の虫。ミミズやムカデ、カマキリ、アリ、ゴキブリ、クモ、思いつく限りの虫達が、互いを押し退けるように蠢いている。  身体のどこを見ても虫なんていないのに、その感触と頭に浮かぶイメージだけが嫌にはっきりしていて、俺はただただ気持ち悪さに脂汗を滲ませて呻いていた。  すると、ガチャリと部屋の戸が開く。 「大丈夫か」  視界に、兄の顔が映った。  大丈夫じゃない。助けて。もうやだ。  涙目でゆるゆる首を振ると、兄がこちらに手を伸ばしてきた。  大きな手のひらが、額に乗る。冷たくて気持ちいい。 「寝てろ。起きたら、楽になってるから」  兄の手が額から瞼へ下りてくる。視界を隠されて、俺はそのままゆっくり意識を手放した。 ☆  ――真っ暗だ。辺り一面、真っ暗。  ここは、どこだろう。  見渡しても暗闇は変わらず、戸惑う。恐る恐る、足を踏み出してみた。  何だか無性に、光を浴びたい気分だった。ここから抜け出したい。光、光はどこにあるのだろうか。  数歩ほど歩いてみると、ゴツンと頭が硬い何かに当たった。 『いってー……!』  額を抑えて蹲る。まさか壁があるとは思わず、モロにぶつけてしまった。  唸りながら額を摩る。ぶつかった壁を睨みあげるが、目の前には何も見えない。変わらず、真っ暗闇だけが広がっている。  不審に思い恐々と壁に触れてみると、つるりとした感触が指先に伝わった。ひんやりしている。壁、というよりはガラスのような……。  爪が当たって、カン、という軽い音が鳴る。  すると、後ろから物音が聞こえた。カサ、カサ、と嫌に耳につく音。音の正体は一体何だと後ろを振り返ると、そこには、  ――見上げるほどの、大きなムカデ、が 「っうわぁ!!」  俺は飛び起きた。全身に嫌な汗をかいている。息が乱れているようで、呼吸をする度に背が大きく上下した。……似たようなことを昨日の夜にやったな。  ふと、布団を照らす橙に目が行き、部屋に西日が差し込んでいることに気がつく。  夕方、か。どうやら朝からずっと眠っていたらしい。  窓に目を向けようと首を動かして、思わず固まった。  ベッド脇、すぐそこに、長い髪を垂らして項垂れている女性がいる。夕陽に照らされているとは言えやけに影が濃くて、その異質な存在感にヒュッと喉から息が漏れた。  この人、は。  脳が動き出そうとするのを、何かが必死で止めている。息が、上手く吸えない。  と、ふと部屋の戸がガチャリと開いた。 「陽向、具合どう?」  入ってきたのは父だった。咄嗟にそちらに目が向く。もう一度ベッド脇に視線を戻したときには、もう髪の長い女性は姿を消していた。 「……父さん、仕事は?」 「切り上げてきたんだ、急に熱なんて心配だから……。明日、病院に行こう。でも顔色だいぶよくなってるね」 「ん、確かに言われてみれば身体もだるくないかも……」 「とりあえず、熱測ってみよう」  父から手渡された体温計を脇に挟む。  ……うん、気分的には全然問題ないっぽい。どうやらぐっすり眠って治ったみたいだ。例の気持ち悪さも、ない。  ややあってピピッと音を鳴らした体温計を見てみても、36度6分と至って平熱。  ――兄の顔が頭に浮かぶ。  恐らく、何かしてくれたのだろう。帰ってきたらお礼を言おう。  それに、"あの人"のことも言っておかなければ。  西日に照らされた、髪の長い女性。伸び切った前髪で顔が隠れてしまっていたが、間違いない。  あれは、兄の実のお母さんだ。 ☆ 「ひな、具合は」 「あ、お兄。おかえり。もうすっかり元通り」 「そ」  制服姿のまま部屋に入ってきた兄が、どさりと俺のベッドに腰かける。……が、ちょうど足のあった部分に座ってきたため俺は悲鳴を上げた。 「ってぇー!!ばか!そこ足あるから!」 「マジ?ごめんごめん」 「ごめんごめんじゃねーよ早く退け!重いから!」 「元気かよ」 「元気だよ!やかましわ!」  絶対わざとだろこいつ。少しずれた場所に座り直した兄を、俺は寝たままじろりと睨み上げた。  素直にありがとうと言うつもりでいたのに、何だか癪になってしまった。どうしてくれるんだ。  むくれていると、兄がふと床に視線を落とした。何かを拾い上げる。  長い、髪の毛だった。 「あ……」 「……"来た"のか」 「……うん」  兄が、摘んだ髪の毛をすり潰すように指先に圧をかける。すると細くて長い黒髪は砂のように砕けて見えなくなった。 「何も、なかったか」 「うん。何も」 「そ」  飄々とした、ポーカーフェイスとも言われる兄の顔が、心なしか安堵に緩んだように見えた。  兄がベッドから立ち上がる。部屋を出てしまう前に、俺は兄に声をかけた。 「お兄、……ありがと。今回も助けてくれて」  兄は一瞬立ち止まったが、すぐに「べっつに~」と何でもないように軽やかな声音で言って、そのまま部屋を出ていった。  夕陽が少し沈み暗くなってきた部屋で、再びひとりになる。  考えるのは、兄のお母さんのことだった。  兄の、夕影の、"おかあさん"。今日はどうして、現れたのだろう。  考えるけど、それ以上は考えちゃいけない気がして、俺は目を瞑った。  ちなみに俺はそれ以来、虫が大嫌いになった。

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