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#14 セルフ―雪見

 美化委員の校内清掃を終え、雪見は学校から出た。通学路を辿り真っ直ぐ向かったのは、彼の家ではない。  白く高い壁で覆われたそこは、病院だった。  勝手知ったる様子で中へ入り、階段を上っていく。  『雪見 春子』。  そう書かれたネームプレートのかかった病室の前で、雪見は立ち止まる。何かを思案しているような顔。  が、雪見はすぐに戸に手をかけた。 「あら、おかえりなさい」  病室の大部分を占める大きなベッドの上で、長い髪を右耳の下でひとつにまとめた女性がにこりと笑う。 「ただいま、母さん」  雪見は、女性とそっくりな笑みを顔に浮かべた。  彼女――春子は、雪見の母親だ。  雪見は後ろ手に戸を閉めると、ベッド脇の椅子に腰掛けた。  普通にしているつもりで雪見は通学鞄を床に置いたが、春子には息子の姿がいつもと違って見えたらしい。 「なぁに?何かいいことでもあった?」  ニコニコと柔和に笑むその目尻に、皺が寄る。雪見はぱちくりとひとつ瞬いてから、脱力したように笑った。 「どうして分かっちゃうんだろう。すごいね」 「お母さんだからね」  上品な歳の重ね方をした春子の顔が、得意気になる。雪見はそんな母を見てただ可笑しそうに笑った。  いつもよりも少し朗らかに見える息子の笑顔に、春子の胸には幸せな気持ちが満ちる。 「あなたがそうやって笑顔を見せてくれることが、お母さんには何よりの生き甲斐よ」  母の言葉に、雪見は思わず固まってしまった。  揃いの黒髪を揺らして、母は続ける。 「退院したら、お姉ちゃんのお墓参りに行こうね」 「……うん」  どこか物憂げな笑みで頷いた息子の顔を、春子は敢えて見ない振りした。  春子は、息子に『強く生きてほしい』とは思わなかった。ただ、つらくとも、悲しくとも、立ち上がれなくとも、息をすることだけはやめないでいてほしいと、そう思っていた。  今、何かに悩んでいるのだとしたら、無理に解決しようと奮闘しなくていい。焦らなくていい。生きている限り、何事も変わるのだから。  たった十数年で人生が一変してしまった彼だからこそ。  ゆっくりと、急がずに生きてほしい。  春子は胸の奥で、ただそれだけを願った。

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