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#18 援交(前編)
※過呼吸の描写
高校三年の頃の話。
「もしもーし、俺ー。うん。……今ねー、駅の入口んとこ。……ん。んー、分かった」
プツリ、と電話が切れる。
自宅の最寄り駅である日入(ひいり)駅の入口で、綺麗な茜色の夕空を見上げた。
季節は晩秋で、もう随分寒い。
今日は父が出張で家におらず、お互い夕飯の支度も面倒だということで大学帰りの兄と待ち合わせて外食でもしようという話になっていた。
学校から真っ直ぐ駅まで来たので、制服にコートを羽織った恰好だ。周りには同じような服装の学生が何人もおり、傍目からでは紛れてしまっているかもしれない。
『まもなく、一番線に電車が参ります』
プラットホームの方からアナウンスが聞こえてきて、次に電車の走行音が聞こえた。
電話では、この電車に乗って帰ってくるとのことだった。
しばらくすると、改札からぞろぞろと人の波が溢れてくる。爪先立ちでキョロキョロと見慣れた顔を探していると、
「ひな」
「ふおあ!?!」
「ぶはっ」
ぽん、と後ろから肩を叩かれて、そのまま心臓が飛び出たかと思うような声が出た。
後ろを振り向くと、ゲラゲラ笑っている兄。
「い、いつ出てきた!?」
「お前が改札の左側キョロキョロ見渡してるときに一番右から出てきた」
驚かせる気満々だったってか……趣味の悪い奴め……。
「何食う?」
「俺あそこ行きたい、あのさ、歓楽街のとこのラーメン屋さんあるじゃん」
「あー、いっつも行列できてるとこ?ラーメンな、いいじゃん。行ってみっか」
「店閉まってたらどうしよね」
「繁盛しすぎて?」
「うん」
「まぁそんときゃそんときだろ」
「あの辺って他にも色々ある?」
「居酒屋とかだけどな。あるよ」
「そっか、じゃあいっか」
目的地が決まり、揃って歩き出す。
地元と言えど普段歓楽街までは足を伸ばさないので、新鮮な気分だ。兄は大学に上がってから訪れる機会も増えたようで、足取りに迷いがない。
正直ここからの道は一切分からないので、道案内は兄に任せて俺はのんびり隣を歩くことにした。
☆
「はー!美味しかった!」
「開いてて良かったな」
「ね!」
目当てのラーメン屋は運良くまだ開店しており、少し並んだものの、並んだ甲斐あってかなり美味しかった。
満足感に笑みを零しながら店を出る。
空はすっかり暗く、歓楽街は仕事終わりの社会人達で賑わっていた。
「さっさと帰るか。この辺客引きうぜーんだよな」
「わは、すっごいね。俺補導されないかな」
「ねーだろ。援交の温床だぞ」
「えっ」
右から左からどんどん湧いてくる客引きの男達に一切目もくれず、兄は人波を掻き分けてさっさと歩いていく。
ネオン街で黒い革のスタジャンのポケットに手を突っ込んで歩く兄の姿は、無駄に様になっていた。
はぐれないように兄のスタジャンの裾を掴みながら、通りをちらりと見渡してみる。
援交の温床、と言ったか。
テレビやネットの向こうの話だと思っていたが、この街にもあるんだなぁ。もしかしたら俺が知らないだけで、うちの高校の生徒もやってたり……?べ、別世界の話みたい……。
ふと。
ギラギラ光る看板が目立つ店の横。建物の影になったその隙間に、制服姿の少女が座り込んでいるのが見えた。
しゃがみ込んだ膝を抱えて、腕に顔を埋めている。黒くて綺麗な長髪だ。クリーム色のカーディガンが、ギラギラ眩いネオン街で妙に浮いて見える。
何となくその子が気になって、俺は足を止めた。
必然的に、俺が上着の裾を掴んでいた兄も歩みが止まる。
何、と兄が言ったのと、黒髪の女の子が顔を上げたのと、どちらが先だっただろうか。
次の瞬間、グンッ!と自分の意識が強く上方に引っ張り上げられるような感覚がした。
代わりに、何かが入り込んでくるような――ズプリと、胸の辺りに何かが沈み込んだような、妙な衝撃が身体に走る。
あれ、あの子、いなくなって、
目が、かすむ
「ひな!」
バッ!と、左手が取られる。強く握り込んでくる兄の右手に、意識が持ち上げられた。
途端、背筋にゾクリと寒気が走る。
急激に、高熱でも出したかのような寒気が襲い掛かってきた。
身体がガタガタ震え出すほどの悪寒。
――誰かの記憶が、入り込んでくる。
夜、歓楽街、ホテルの横で、人を待ってて、誰かを待ってて、たぶん、だいじなひと、でもその人はこなくて、俺は、私は、ちがう、俺は、おれ、は、
写真みたいな風景が次々にフラッシュバックしていく。
その度に自分の記憶が侵食されていくようで、怖くて、怖くて仕方なかった。
ぎゅう、と、兄の右手を無意識に握った。
すると、羽織っていたコートのフードが被せられる。
左手が、強く握り返された。
ゾクゾク震える俺の身体を、兄が引いて走り出した。
・
・
・
「空き部屋、どこでもいいです。すぐ入れるとこ……――」
兄の声が聞こえる。
近く、なのは分かる。でも、すぐ隣なのか、距離があるのか、分からない。意識が朦朧としていて、でも、寒気だけは異様にはっきり感じる。
俺は、私、私、私、は、今、
ちがう、俺は、私じゃなくて、ちがう、ちがう、出てって、やめて、ここにいさせて、やだ、いたい、いたい、
――意識が、俺じゃない誰かの意識と溶けだしてしまいそうで、怖い。
乗っ取られる。
そう思うと、考えるまでもなく身体が『誰か』を押し出そうとして、その度に身体中がゾクゾクと暴力的なまでの寒気に震えた。
俺の意思とは関係なく頭に響く少女の鈴のような澄んだ声音が、この世の何よりも恐ろしいものに聞こえる。
思考も、身体も、何もかもぐちゃぐちゃでめちゃくちゃだ。
さむい、楽になりたい、じゃあ私にちょうだい、このからだ、やめて、私にちょうだい、ねえ、ねえ、ねえ、ちょうだい、ちょうだいよ、欲しい、欲しいの、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
「ひな」
意識が、掬い上げられるように。
兄の俺を呼ぶ声が耳に届く。
「エレベーター、乗るから」
静かな声が耳元で聞こえて、腰に手が添えられる。何故か、身体がビクリと震えた。
兄に支えられてエレベーターに乗り込むと、すぐに扉が閉まった。
俺は握ったままだった兄の手を、ぎゅうっと強く握った。
応えるように、兄が俺の腰を強く抱き込む。
ぎゅ、と身体が密着して、兄の肩口に頭が凭れる。あぁ、安心する。嗅ぎ慣れた兄の匂いが、朦朧とする意識の中微かに鼻を掠めた。
ずっと、こうしていてくれたら。
ゾクリ、ゾクリと腰が跳ねる。
どうして来てくれなかったの、どうして来てくれなかったの、待ってたのに、私ずっと待ってたよ、寒かった、でもずっと待ってて、あなたのこと、待ってた、そしたら、そしたら私、
俺の自我をすり潰すように、『誰か』の、――『少女』の声が、頭の中を支配する。
自分の意志とは関係なく、頭が持ち上がった。
俺を、私を、支える人の顔が、視界に映る。
――スーツを着ている、男の人。眼鏡をかけていて、しっかり締められた胸元のネクタイは緩みも乱れも知らない。
あぁ、遠野さん。
私、あなたのこと、本当に好きだったんだよ。
なのに、ひどいよ。
――ち、がう、俺は、きみじゃない、俺は、俺で、目のまえ、に、いるのは、
いつの間にか、部屋の中にいた。
意識を混濁させている内にエレベーターから降りて、どこかの階の一室へ入っていたらしい。
ガチャリと鍵のかかる音がする。
視線を持ち上げるとそこには俺の左手を握る兄がいて、何だかホッと脱力した。
ほら、俺は俺で、ここにいるのは、お兄だよ。
安心してそう胸の中で呟くと、
頭の中で何かが弾けた。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!邪魔しないで!!!
せっかく、せっかく、……っ!!
途端、
「……!ッは、っ、けほ、ッひゅ、!、ッひ」
息が荒くなったと思ったら、吸った息が吐き出せなくなった。
息が、息ができない、くるしい、
「ひな? っひな、」
兄の声が聞こえる。息ができない、返事ができない。涙で視界が滲んでいく。
兄は動揺したように声音が揺らいでいたが、俺の様子を見てすぐに持ち直した。
「ひな、大丈夫、大丈夫だから。ゆっくり息吐け」
促されて部屋のベッドまで歩み寄るとゆっくり肩を押されて、白いシーツの上に身体が倒れた。
兄が、俺の指に自分の指を絡める。指と指の間に兄の長い指が通って、ぎゅっと強く握られた。
手から伝わる体温が、白んでしまいそうな俺の意識を持ち上げる。
「ゆっくり、吐くことだけ考えろ」
「っひ、ぁ、……っはぁ、ふ、ぅぅ」
「……そう、いい子」
兄の、繋いでいない方の手が俺の顔に伸びる。目の端に滲んだ涙を、指でなぞるように拭き取られた。
そのまま、その手が頭に乗る。
髪を梳くように撫でるその手は、緩やかに、それでいて確かに、安心感を与えた。
「吐いて、吐いて、」
「……っはーッ、……っぁ、ッふぅー……っ」
言われた通り、息を吐くことだけを考える。
嗚咽のように何度も細かに入ってくる息を、兄の静かな声に合わせて吐き出す。
苦しさに兄の手をきゅ、と握ると、すぐに強い力でぎゅ、と握り返される。
灯りもつけないまま入った薄暗い部屋で、兄の声と俺の嗚咽だけが響く。
覆い被さるように俺を見下ろす兄の顔があまり見えないことが、ただ、心細かった。
荒い息が少しずつ、少しずつ整っていくと、先刻まで身体を襲っていた異様な寒気もまただんだんと戻ってきた。
ゾクリ、ゾクリと。
背筋が震え出す。
頭の中で、また『少女』の声が響き出した。
かわいそう。脆いんだね。感じやすいんだね。つらいでしょ?苦しいでしょ?楽になりなよ。ね?私に身体くれたら、楽になれるよ。ねえ、くるしいの、我慢することないよ。私も、我慢できなかったもん。だから、ほら、
「ひな、」
少女の声を遮るように、兄が俺の名前を呼んだ。
「受け入れちまえ」
「……っへ、?」
「つらいだろ。大丈夫だから、受け入れろ」
兄の言葉が、ふわりふわりと頭に入る。
受け入れる?そんなの、いいの?
怖い。
受け入れたら、俺、もう戻ってこれないんじゃないの。
『この子』に、乗っ取られちゃうんじゃないの。
繋いだ手から困惑が伝わったのだろうか。
兄が、俺の左手をぎゅ、と握った。
「ひな、大丈夫だから」
怖い、のに。
そうやって名前を呼ばれると、どうしたって俺は、安堵してしまうから。
少女の侵食に抵抗していた意識の糸をひとたび緩めてしまえば、不思議なことにそれまで俺を襲っていた強い寒気は見る間に引いていった。
意識が、底の方へ沈殿していくような感覚。
意識の端の端で、水の中のように不鮮明な兄の声が聞こえた。
「この手が繋がってる限りは、絶対、奪わせないから」
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