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#18 援交(後編)

★ (!)  ふわふわと水の中を浮遊するように浮き沈みを繰り返していた意識が、不意に、ゆっくりゆっくり浮かび始めた。  な、なんだ!?  身を任せてもいいのか、それとも抵抗すべきなのか、分からないままバタバタともがいていると、  ――いいよ。身を任せても。  聞き馴染んでしまった鈴のような声が聞こえた。  咄嗟に首を回して見渡すと、パッと手首が掴まれる。  白くて小さい、女の子の指だった。  あ、と思って上を向く。  歓楽街で見たあの黒髪があった。顔は、長い髪に阻まれて見ることができない。  少女は、俺を引っ張り上げるように上へ上へと進んでいく。  が、もちろん大人しくそれに従える訳もなく、俺は慌てて抵抗した。 「ちょっ、ちょちょちょ!やだやだ!怖い怖い怖い!」  ――うるっさいな、身を任せてもいいよって言ってんじゃん。 「いや、いやいや、信じられる訳ないじゃん。抵抗するじゃん」  ――もういいの。 「え?」  ――私、出ていくから。ほんとだよ。だからもう抵抗しなくていいの。 「……いやいやいや、むりむり信じらんないもん」  ――大体さあ、よく考えてみなよ。私女の子。きみ男の子。身体乗っ取ったところで私困るじゃん。 「いやいやいやいや!『身体欲しい』って言ったじゃん!!」  ――それは、……もういいんだって。きみが入りやすそうな身体してたから、入ってみただけ。 「……いいの?」  ――は? 「い、いや、出てってくれるなら嬉しいよ!そりゃ今すぐ出てって欲しい、け、ど……」  ――……だから、もういいんだって。  言葉にはせずとも、このとき俺と少女の思考は一致していたと思う。  あんなところで地縛霊になってしまうほど執着を抱いていたもの……――恐らく、エレベーターで見たあのスーツの男性だろう。  援交相手、だったのだろうか。 『私、あなたのこと、本当に好きだったんだよ』  少女の声が、フラッシュバックする。  それに続くように、俺の手を引く少女が呟いた。  ――……男の子でも、よかった。また、生きて会えるなら。 (…………)  ……何があったのか、俺には分からない。きっと、聞いても答えてはもらえないだろう。  でも、『もういい』と言うこの子は、それで成仏できるのだろうか?  そんな俺の考えを読んだかのように、少女はくすりと笑い声を漏らした。  ――きみ、ひどいお人好しだね。自分を乗っ取ろうとしたやつのこと心配するなんて。 「い、いや……だって……」  ――ねえ、一緒にいた人……きみの、お兄ちゃん? 「え、うん」  ――ふふっ!全然似てないの。 「な、何だよ!」  ――でも、あの人も、……優しい人だね。私のお願い、聞いてくれた。だから多分、大丈夫。 「……」  顔は見えないが、少女の声音は柔らかかった。  俺は、何も言わなかった。  ――私も、私がどうなるのかは分かんない。  だから、確かめて。目が覚めたら、きみの目で。  そのとき、初めて少女が振り返った。  黒くて綺麗な長い髪が、ふわりと舞う。  見えた少女の顔は、可愛らしい笑顔だった。  年相応に笑む何のしがらみもないようなその顔が、だんだんと霞んでいく。  俺の手を引いていたはずの小さな手はいつの間にかそこになく、俺は慌てて目を凝らそうとした。  が、あっという間に視界は白んでいき……―― 「……」  気が付けば、目の前にあったのは白い天井だった。  窓からは爽やかで眩しい光が射し込んでいる。チュン、チュン、と外から小鳥の囀りでも聞こえてきそうだ。  ぱち、ぱち、と二度瞬きする。  眠って、いたのか?でも、寝起きのぼんやりした感じはない。むしろ目も頭も冴えている。  身体の中にあの少女の気配はない。どうやら本当に出ていってしまったらしい。 『だから、確かめて。目が覚めたら、きみの目で』 (――そうだ、あの子がどうなったのか……)  そう思いながら起き上がろうとして、  失敗した。 「おっ……」  左半身が、上から押さえつけられているような感覚。  びっくりして見てみると、兄が昨日上着の下に着ていた白いカットソー姿で、俺の左半身の上に身体を倒して眠っていた。  間近にあった兄の顔に驚いて声が出そうになる。 (あっ……ぶねー!こいつ寝起き極悪だから変な起こし方したら殺される……!)  咄嗟に右手で口を塞ぐ。と、左手の違和感に気が付いた。  兄の身体の下から僅かにはみ出ているらしい左手を頑張って覗き見てみると、 「うわっ!……えっ!?」  兄の指が自分の指に絡まっていた。  思わず出てしまった声に再び口を塞ぐ。  恐る恐る兄を見てみたが、どうやら起こさなかったようだ。  あぶねえ……じゃなくて!何これ!?何で恋人繋ぎ!?!?  あ。  一瞬混乱して、すぐに答えに辿り着いた。 「……」  急に、妙な気分になる。  俺が押し黙ると途端に衣擦れの音もなくなって、室内はひたすら静寂に包まれた。  と。 「うっせーぞこら……」  バチンと右頬を結構な力で叩かれた。 「ッた! え!?」 「うるせー……何時だと思ってんだ……」 「いや知らんけど……えっ、今起きたの?時間差何?」 「お前がでけー声出したときに起きたわ……再起動に時間かかんだよ……」  呻き声のように言いながら、のそのそと俺の上で兄が身動ぎをする。重い、重いんだよ!  寝坊助の肘がうっかり鳩尾に入ってしまう前に、兄の上半身を無理やり起こしてベッドから抜け出す。  と、兄が「あ」と声を上げて自分の右手を見た。寝起きの据わった半目で、ぼんやり右手と睨めっこ。  と思うと、「あー……」と唸ってそのまま頭をがしがし掻いた。  ……何となく落ち着かなくて、目を逸らす。  少し覚醒してきたらしい兄が俺の方を見て口を開いた。 「マジで今何時?」 「ん……と。あ、7時だ」  室内を見渡すと、ベッド脇にデジタル時計があった。時刻はちょうど朝の七時を回ったところ。  兄は俺の言葉を聞いてまた「あー……」と唸る。 「どうせ土曜だしチェックアウトまで寝ててもいいけど……家帰って寝直したい気もする……」 「じゃあ家帰ろうよ。俺もこのまま寝たら制服シワんなっちゃう」  言うが早いが、俺は帰り支度をし始める。 「何でお前そんな覚醒してんの」 「何か眠くないんだもん」 「へー……」  ぼんやり、まだ寝起きな様子の兄が返事にもなっていないような声を出す。  そこらに放られたスクールバッグやら兄の上着やらをかき集めながら、『あれ、そういえば』と小首を傾げる。 「お兄、俺のコートとブレザーとカーディガンは?」  ずっと着ていたような気がしたのだが、いつのまにかワイシャツ一枚になっていた。……そういえば、ネクタイもない。上のボタンが三つも外れている。 「あー……脱がしてどっかやった」 「脱がっ、…………あー……」  何となく察して、口を噤む。  いや、何も変な意味ではないので別に口を噤む必要はないのだろうが。つい、それ以上続ける言葉が見つからず押し黙ってしまった。  結果、何か変な感じになる室内。  反対のベッドサイドに落ちていたコートとブレザー、カーディガンとネクタイをかき集めて、着直す。  静かな室内で黙々と制服のボタンを留めていると、兄が呟いた。 「…………正直、ちょっと意識あったろ」  図星。  これがそうでなければ何なのだというくらい、図星だった。  え、そんなド直球に触れてくる? 「………………うん」 「………………だよな」 「…………………………うん」  そう。その通り。  兄に言われて『あの子』を受け入れたあと、俺の身体に浮上したのはあの子の意識だったけど、もちろん俺の意識もその下には僅かながらあった訳で。そもそも、この身体は俺のものな訳で。  ずっとずっと、そこはかとなく、あの子と兄が何をしていたのかを俺自身も感じてしまっていたのだ。  直接的な感覚ではなくやはり水の中にいるような感覚で、ふわふわと、何となくぼんやり知覚できるような程度だったけど。  手を繋いだり、名前を呼ばれたり、……こう、色々、うん。……したり。  だから、何で今ちょっと気まずい空気が流れているのかも、うん。分かってる。  露骨に顔を逸らした俺に、兄が呟く。 「いや、何かごめん」 「や、別に…………」 「当然ファーストキスだとは思う。ごめん」 「おい、当然って何だ」 「悪いとは思いつつ、あの女子高生が求めてたことだったんで仕方なく」 「おい、当然って何だ」  いやスマン、マジで。と兄が顔の前で手を立てるが、謝って欲しいのはそこじゃない。  高校三年生の男子に向かって堂々と『お前どうせ童貞だろ』という旨の発言。これは到底許されるべきではない。憤慨して然るべきではないか。 「誰が童貞じゃい!」 「いやそこまで言ってねーよ。でもファーストキスまだだったんならまず間違いなく童貞だよな……」 「憶測で失礼なこと言うな!」 「いやまぁ、ファーストキスに関しちゃ俺が奪っちゃったけど、お前ほとんど意識なかったしノーカンノーカン」 「決めつけで慰めんな!」 「いやでも実際は?」 「…………」  ほらな、とでも言うように指をさして兄がケラケラ笑い出す。  は~~ムッカつく。自分が恵まれた生活送ってきたからって年頃の男子にこんなデリカシーのない発言。許されていい訳がない。  俺はあからさまに頬を膨らませていじけ始めたが、正直ちょっとホッとしたり。  いやだって実際、兄弟なこと考えたら色々やばいでしょ。  これ以上考えちゃ行けない気がするレベル。  だからまぁ、これ以上は考えないけど。  とにかく、あまり気まずくならなくて良かった。後日笑えるくらいのネタに収まってくれて、良かった。俺のプライドと引き換えにだけどな!! ☆  ホテルを出てすぐ、俺は兄に『もう一度歓楽街のあの場所に行きたい』と言った。 「お願い」  兄は渋い顔をしていたが、俺の真剣な様子に溜め息を吐きつつ了承してくれた。 「ここだろ」  兄を追って閑散とした朝の歓楽街を歩いていると、見知った場所に辿り着いた。  客引きもおらず、あのとき見たギラギラ光る看板もただの板になっていたが、確かにここで彼女を見た気がする。  ……気がする、という言葉の通り、彼女はもう、そこにはいなかった。  気配がなくなっただけだ。彼女が成仏できたのかは、結局のところ分からない。でも地縛霊だった彼女がここにいないということは……そうやって、良い意味で捉えたかった。  最後の、あの笑顔を見たから。 「……どうして、来てあげなかったんだろ」  彼女がしゃがみ込んでいた場所を見下ろして、呟く。 「……援交相手か?」 「うん。ずっと待ってたって言ってた。だけど来なくて、それでもずっと待ってたら、そしたら……どう、なったんだろ。その先は分かんない」  しばしの沈黙のあと、兄が口を開いた。 「言うか言わないか、迷ったんだけど。お前がいいなら、言う」  兄の顔を見る。幾分眠気の抜けたらしいその顔は、真剣な表情だった。  俺が「言って」と言うと、兄は少し息を吐いてから、口を開いた。 「又聞きだから、真偽は定かじゃない。……十年くらい前に、この辺りで援交してた高校生がチンピラ連中にレイプされて自殺したんだと」 「……っ!」 「援交相手を待ってるときに狙われたらしい」 「そ、れって……」 「……噂だぞ。ましてや十年前。噂なんて、知らねー間に必要なもんが抜けて余計なもんが足されて、全然違う話になってくもんだかんな」 「…………うん………」  顔が青ざめていたのだろうか。  兄が、俺の背中を撫でた。 「……お前が一番分かってるだろうけど、相当念の強い奴だったろ」 「……うん」 「梃でも動かせないような執念でここにいた奴がいなくなったんだ。……もうここに縛られなくても良くなったんだって思っても、俺はいいと思う」 「…………うん」  俺は頷いて、そのまま俯いた。  後ろにいる兄の手首を握ったのは、無意識だった。  この場所で手を合わせても、あの子は嫌な顔をするだろう。だから、手は合わせない。  でももし、無事に成仏できたなら。  次は、幸せに。  そう強く思う気持ちは、抑えられなかった。

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