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#24 展示

 中学三年生の秋頃の話。 「そういえば夕影、どうして言ってくれなかったの~」  夕飯時、食卓で父さんがいつもののんびりした穏やかな声を上げた。  何のことかと思えば。 「『はるはな』の二階に夕影の写真が展示してあるの」 「え、そうなの?すごいじゃん」 「部活動だよ。全員写真一枚出せって言われただけ」  『はるはな』とは、最寄り駅である日入(ひいり)駅から徒歩五分ほどの場所にあるショッピングセンターだ。日入の住民は高頻度ではるはなに足を運ぶのだが、そんな場所に写真が飾られているとは。  もっと誇らしげにすればいいものを、兄とくればこの澄まし顔だ。全く可愛げがない。  「すごくいい写真だったから陽向も見ておいで」と父さんに勧められ、今度の週末にでも足を運んでみようと思う。 「お兄は自分で見に行ったの?」 「いやまだ」 「じゃあ一緒に行こうよ、俺ついでに服見たい」 「めんどくせえなぁ」 「弟と出かけんのめんどくさがんなや」 ☆  その週の土曜日。出不精を発動する兄を引きずって俺ははるはなへ向かった。  別にそうまでして連れて行きたかった訳ではないのだが、『はるはな行くならおつかいお願い』と父さんに渡されたメモが明らかに兄同行前提だったのだ。  一人で持ち帰るのは流石に無理、と思ったので止む無く引きずって来た次第。恨んでくれるな。 「どこ飾られてんの?」 「二階」 「だから今二階にいんだろーが」  未だに面倒くさそうな顔をしている兄が、渋々といった様子で前を歩き始める。  ……ははーん、こいつさては。 「何、恥ずかしーの?」 「うるせーわ」  ニヤニヤしながら横に並び顔を覗くと、兄がシッシッと犬にでもするみたいに手を振ってきた。  照れることないのに。いくら自分がカメラなんて繊細なものと不釣り合いな粗雑人間だからって。  ……なんて冗談を言うと恐らく踵を返されるので、ここは我慢しておく。  少し歩いて、奥の方。イベントスペースになっているそこで写真が展示されているらしい。 「『小さな幸せと平和』……へ~」  展示スペース入り口のポスターには、大きな字でそう書かれていた。平和と幸せをテーマにした写真展ということか。  撮影者名が羅列しているところにしっかり『暮方高校写真部二年 柳夕影』とあったのを確認して、中へ入る。  展示スペースには数人ほど人がいたが、ゆっくりとした足音や微かな衣擦れの音が鳴るのみで、すごく静かだった。  白い壁に等間隔で一枚ずつ貼られた写真を、順番に見ていく。  プロかアマチュアか分からないが、写真部の生徒だけではなく大人も参加している展示会らしい。  公園に咲く小さな花や、雲一つない綺麗な青空。時折被写体が人間だったりもしていて、撮影者それぞれの考える『小さな幸せと平和』が伺える。面白い。  うちの兄貴の『小さな幸せと平和』は一体何なのだろう、と少しワクワクしながら歩く。  後ろの兄をちらりと見れば、真剣な顔でひとつずつ写真を見ていた。  何だかんだでちゃんと写真が好きなんだなぁ。ただの淡泊男ではないのだ、意外と。  ふと、ひとつの写真に目がついた。自然と足が止まる。  兄の写真だったからではない。  その写真だけ、明らかに異質だったからだ。  写真は、暗い部屋の写真だった。六畳一間くらいのアパートの一室だろうか。  全体が暗くてよく見えないが、ベッドの上の布団はくちゃくちゃで、コンビニ弁当の空容器やビールの空き缶、ペットボトルのゴミなどもその辺に散乱しているようだ。端の方にある大きな段ボールは何だろう。あれもゴミかな。  清潔さはないが、一人暮らしの人の家って案外こんなもんなのかな、とも思う。  ……これが、『小さな幸せと平和』?  普通の日常のように見えるが……。どういうことなのだろう?  考え込むようにその写真と向き合った瞬間。  ふっ、と。辺りの電気が消えた。 「!?」  驚いて周囲を見回す。停電だろうか? 「お、お兄?あれ?どこ?え、お兄、停電かな」  慌てて兄がいた辺りに手を伸ばすが、何も掴めない。……それどころか、俺の呼びかけに答える声すらない。  不安になって一歩踏み出す。  すると、ベコッと何かを踏みつけたような音がした。びっくりして飛び退く。  何を踏みつけたのか目を凝らしてみた瞬間、  ピカッ!  ゴロゴロゴロ……  一瞬辺り一面が光って、少し遅れて雷の音が鳴った。  音にもびっくりしたが、光った一瞬で見えたものに俺は目を見張った。  踏んづけたのは、空になったコンビニ弁当の容器だったのだ。  そして床は先程踏んでいた白いタイルではなく、薄汚れたマット。  ハッとしてポケットから携帯を取り出し、画面の光で辺りを照らしてみた。 「……えっ」  そこはまるで、先程見ていたあの写真の部屋のようだった。……いや、そのものと言ってもいいかもしれない。  踏んづけた弁当容器、机に放置されたビールの空き缶や空のペットボトル。後ろを見れば、くちゃくちゃになった布団とベッド。  部屋を見渡したところで、また辺り一面がピカッと光る。  ゴロゴロゴロゴロ……  光ってから音が来るまで、少し間がある。まだ遠いのだろう。しかし、先程よりも近づいてきているような気がした。  ……雨の音がする。そういえば、心なしか寒い。  窓の方に目を向けると、カーテンだと思われる影が微かに揺らめいていた。開いているのか。  ドッ、ドッ、と心臓が早まっていく。  ここは一体何だ。俺はどうしてここにいる。  兄に助けを求めようにもその術がない。  とりあえずこの部屋から出てみようと思い、手探りで玄関を目指す。何が落ちているのか分からないので、床を照らして壁に手をつきながら慎重に。  が、一歩踏み出したところでガッ!と何かに躓いた。 「ってぇ!!」  思わず携帯を取り落とす。  結構な重量のものを足で蹴ったらしい。い、痛い……。  すると、不意に手が照明スイッチに触れた。 (! 電気だ、点くかな)  スイッチを入れてみるとパッと呆気なく電気が点いて、思わず溜め息が出た。  今しがた俺が蹴りつけたそれを拝んでやろうと思いキッと下に目を向ければ、そこにあったのは大きな段ボールだった。 (あ、これもさっき写真で見た……)  しかし、ただの段ボールだと思っていたそれはどうやらゴミなどではなかったらしい。  携帯を拾うついでにしゃがみ込む。  中には沢山の野菜や果物、レトルトのご飯パックやインスタントの味噌汁などがぎっしりと詰まっていた。  そして、その上に載っていた小さなメモ。 『元気でやっていますか?慣れないことばかりで大変だろうけど、お仕事がんばって。でも無理はしないでね。 母より』  端正ながらもどこか丸みを帯びた、少し右肩上がりの字。暖かみのあるその字と文章に、何となくこの部屋の住人の背景が見えてくる。  『小さな幸せと平和』。  きっと、あの写真を撮った人にとってはこんな日常が小さな幸せで、平和なのだ。  一人暮らしを始めて、慣れない生活があって、それでもこうして遠くから見守ってくれる家族がいて。  それが、撮影者の考えた小さな幸せと平和。  俺は何だか暖かい気持ちになって、くすりと微笑んだ。  また訳の分からないことに巻き込まれたと思っていたが、中々良い体験ができた。  どうしてこんな状況になっているのかは未だに分からないが、こんな風に写真の中に入り込めるなんてきっと俺の霊感と巻き込まれ体質が故だ。  いつもは嫌なことしかないが、たまには悪くないじゃん。なんつって。お兄が聞いたら呆れそう。  瞬間。  ピカッ!とまた外が光ったかと思うと、  ――ドォンッ!!  すぐに凄まじい音がした。  驚いて窓の方に顔を向けて、俺は固まった。  ――スーツ姿の男性が、窓の転落防止柵に括りつけた縄で首を吊っていた。  ふわりと吹いた風が、男性の短髪をさらさらと揺らす。  風が運んできた死臭が鼻を掠めた瞬間、胃液が込み上げてきた。 「ゔ、っぇ゙、」  咄嗟に口を手で抑える。  ――この部屋の住人だろうか?……自殺、なのか?  どうして、自殺なんか。  込み上げた吐き気に涙が滲んでくる。  見ていられなくて顔を逸らした。  ギュッと目を瞑り、次に瞼を持ち上げたとき。 「大丈夫か」  そこには、兄の顔があった。  ぱち、と目が開く。ぱち、ぱち、とそのまま瞬きをしてから、俺は飛び起きた。 「えっ!?」 「大丈夫そうだな」  どうやら展示スペース脇のベンチに横になっていたらしい。  パ、と見てみると、頭を寝かせていた部分に兄の上着が丸めて置いてあった。  事態を把握できないまま再びぱちぱち瞬いている間に、兄が枕替わりになっていた上着を羽織る。 「あんま変に興味湧かすな。多分お前の巻き込まれ体質の一因」 「へ」 「『これがこの人にとっての幸せと平和?』とか考え込んだんだろ」  こちらに目を向ける兄に「う」と気まずい声を漏らす。 「だ、だって気になったんだもん。撮った人はどんなこと考えたのかなって……それが醍醐味でもあるじゃん……」 「お前、撮影者の名前見た?」 「え、そこまでは見てない」 「なかったんだよ」 「へ?」 「撮影者の名前。誰が撮ったか分かんねぇの」 「……え、でも、……そんな写真」 「そう。誰のか分かんねぇ写真なんか飾られる訳ないんだよ」  「……俺らにしか見えねー写真ってこと」と兄が言い、俺は何だか言われるまでもなく予感していたような、そんな腑の落ち方をした。 「……何か、伝えたかったのかな。あの写真で」 「さぁ」  淡白にそれだけ言った兄が、「……でも」と続ける。 「『小さな幸せ』も、『平和』も、常に崩壊と紙一重ってのは、分かる」  兄が柄にもなく神妙に言うので、俺はその言葉の意味を深く考え込んでしまった。  小さな幸せと平和は、崩壊と紙一重。  あの写真が本来映していた『小さな幸せと平和』は、紙一重の差でガラガラと崩れてしまったのだろうか。  どうして彼が死んでしまったのか、予想はできても俺には分からない。  でも、俺は俺の『小さな幸せと平和』が常に崩壊と紙一重なんだってことを思い知らなければならないのかもしれない。  そう知っているのと知っていないのとでは、きっと大きく違うから。  知っていれば、きっと俺は俺の『小さな幸せと平和』を、もっと大事にできるから。  ……俺の『小さな幸せと平和』って、何だろう。  兄が立ち上がった。  俺も一旦思考を止めて、立ち上がる。    ……と、展示スペースから離れようとしていた兄に気付いてその腕を掴んだ。 「どこ行くの」 「あ?もういいだろ、写真見たし」 「お兄のまだ見てないよ!」 「俺は見た。しっかり一周した。いや~満足したわ」 「俺は見てない!ちょっとお兄のだけ一瞬見てくる」 「あ。ちょ、待てやおい」  出口の方から入れば、先程の写真を見ることもないだろう。  制止する兄の声を無視して小走りで展示スペースへ戻る。  たくさんの綺麗な写真を流し見するのは少し勿体ない気がしたが、仕方ない。待たせるときっとブーブー言い始める。 「……あ。……えっ?」  出口から早歩きして五秒。  兄の写真を見つけて立ち止まったはいいが、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。 『柳夕影 「陽」』  そう書かれたプレートの上に、拡大されて飾られた写真。  夕陽の綺麗な橙色が印象的なその写真の被写体は、紛れもなく俺だった。  学ランを着た後ろ姿が、歩きながらのんびり伸びをしている。  ……えっ、俺だよね? 「言っとくけど、適当に出しただけだかんな」  後ろから聞こえた兄の声に振り返る。  いつものポーカーフェイスで何気ないように吐かれた言葉は傍から見れば本当のように聞こえるが、分かる。俺にはばっちり分かるぞ。 「へ~っ、これがお兄の『小さな幸せと平和』か~、へぇ~っ」 「うざ……」 「ふ、ふっふふ、へぇ~~っ!ふふっ!」  妙に面倒がって来たがらなかったのはそういうことだったのか。  ふ、ふっふふ、ふふ。何て愉快なんだ。兄が可愛く思える。  俺は満足気に頷きながら兄の背をバシバシと叩いた。 「よしよし、じゃあおつかいしに行くか!『小さな幸せと平和』と一緒に!なぁ!」 「マジでうぜぇ」  ハッハッハッハ!と、静かな展示スペースに俺の高笑いが響いた。  腹いせにおつかいの荷物をほとんど持たされて調子に乗り過ぎたことを後悔するまで、あと三十分。

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