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#25 貪食

 基本的に俺に失礼な兄だが、一際失礼だったエピソードがある。  中二の秋頃の話だ。 ☆  秋といえば?  続く言葉にはどんなものが浮かぶだろう。読書、芸術、はたまたスポーツ。読書にも芸術にもスポーツにも造詣が深くない俺は、専ら『食欲』だ。  食欲の秋。 「ご飯が美味しいねぇ」 「美味しいねぇ」  朝食時の食卓にて、父と顔を綻ばせる。  数日前に父方の祖父母からちょっとお高いお米が送られてきたのだが、これがまたびっくりするほど美味しかったのだ。炊いた白米をお椀によそう毎食のワクワクたるや。 「夕影、起きないねぇ」 「そろそろまた起こしに行ってみるか……、あ」 「はよー……」 「お。お寝坊さんがやっと起きてきたぞ」 「人が起こしてやってんのにウルセェウルセェっても~この子はホントに」  あからさまに肩を竦めて言ってやると、寝ぼけ眼に寝癖だらけのダルダルな兄がぬるりと背後に来てヘッドロックを決めてきた。座る俺と立つ兄でまぁ決まる決まる。 「ぐるじい!!おい!!寝起きのどこにそんな力あんだよ!!」 「夕影、朝ご飯食べる時間ある?」 「あー……ないわ……」 「そっか。菓子パンならあるはずだから持ってって学校で食べな」 「んー……」  ぽやぽやの返事をしながら兄が居間を出ていく。出かける支度をするのだろう。朝一番にこの白米を食えないとは可哀想に。全然思ってないけど。  「ごちそさま!」と茶碗を持って席を立つと、流しに皿を置いて居間を出る。 「や~いねぼすけ」  トイレに行くついでに洗面所を覗いて兄を冷やかす。  兄は歯を磨きながらこちらをちらりと一瞥して、一言。 「制服に米粒ついてんぞ」 「えっ、うそ」  見てみれば、学ランの胸のあたりに一粒、もう固まりかけている米の粒がついていた。 「や~いド間抜け」 「…………」  くっ……悔しい……。  悔しいから取った米粒を兄の寝間着につけてからトイレに行った。 ☆  夕方頃に学校から帰ってくると、きゅるきゅると腹の虫が鳴いた。 (うー、お腹空いた)  帰路の途中から急激に腹が減り始めて、今じゃもうすぐにでも何か食べたい気分だ。  でも夕飯もあるし、変に腹を満たすのも……。  そう思い台所の戸棚を開けてお菓子を漁る。ビスケットくらいならいいかな。そこそこ噛むから気も紛れるだろうし。  テレビを録画に切り替えて、昨晩のバラエティー番組を流し始める。  サクサクとビスケットを食べながらテレビを見ていると、 「……あれっ」  ふと気が付いたときには、一箱丸々食べ切ってしまっていた。  こりゃヤベェと思ったのも束の間。  ぐきゅるるり。  思い出したように腹の虫が鳴いて、また空腹感が襲ってきた。家に着いたときと同じくらいの空腹感だ。 (えぇ、一箱食べたのに?)  我ながら自分が分からなくなる。昼はいつも通り給食を食べたし、午後に体育があった訳でもないのだが。  とは言え、さすがにこれ以上食べるのは罪悪感があるので我慢しようと腹に力を込める。  ……が、 (は、腹減って全然内容入ってこねぇ~)  結局、保温中の炊飯器を開けて少しだけ米を貰う羽目になってしまった。  夕飯の米がなくなってしまうので、本当に少し。小皿にちょっと盛るだけ。  よく噛んで満腹中枢を刺激し……うまぁ~っあぁぁ~~米うめぇぇ~~。  噛み締めるようによくよく噛み、二十分ほどかけて小皿の米を食べ切った。  カタ、とローテーブルに皿と箸を置く。すると、学ランの袖に米粒がついていたことに気が付いた。摘んで取るとカピカピで、今ついたものではないと分かる。昼食……もしかすると朝食のときのものかもしれない。  カピカピの米をじっと見つめる。  きゅきゅきゅるる。  ……いやいや、さすがにこれは食えないでしょ。腹の虫を宥めて、米粒をゴミ箱に捨てる。 (何だろ、成長期かな)  まだ満足していないらしい腹を擦りながら、俺は父と兄の帰りを待った。 ☆  謎の空腹感は、それから毎日続いた。朝昼は普通なのに、何故か学校が終わると無性に腹が減り始めるのだ。その割に夕飯を食べ終わる頃には不思議といつも通りの腹持ちに戻っていて、『先程までの空腹は一体何だったのか』と。  家に着くと台所を漁って何かしら食べて、それでもきゅるきゅると切なく鳴く腹を抱えながら夕飯を待ち侘びる日々。  事態の悪化は突然だった。  いつもの如くきゅるきゅる鳴く腹の虫と帰宅すると、食卓に『お米炊いておいて~(汗の絵文字)二杯分くらいまだ残ってるから、おひつに移して冷蔵庫に入れておいてください。 お父さん』という書き置きがあった。  着替える前に、とそのまま台所へ向かい、保温のされていない炊飯器をぱこりと開ける。確かにまだいくらか米が残っていたので、おひつに移そうと内釜を持ち上げた。  ――途端、猛烈な空腹感が俺を襲った。  暴力的にも思えるほどの空腹感に、一瞬目の前が真っ白になる。  そして次の瞬間、俺は衝動的にしゃもじを引っ掴んでいた。  抱えた内釜の中身をごっそりしゃもじで持ち上げ、口に押し込める。  高い米は冷めても美味い。が、舌鼓を打つような余裕はなかった。  とにかく腹が減って腹が減って仕方がないのだ。気が狂いそうなほどの空腹感を一秒でも早く満たしたくて、ガツガツと脇目も振らず米を喰らう。  食わなければ、餓死してしまうような気さえした。  そうしてあっという間に二杯分の米を平らげてしまったのだが、まだ空腹感が収まらない。それどころか、半端に食べてしまったおかげで益々腹が減っている気がした。  不意に、米びつの入っている棚に目が向く。  鍋やフライパンが収納されている棚の隣。そこをバンッ!と開けて米びつを取り出す。中毒症状でも出ているみたいに手が震えていた。傍らに人がいれば、きっと俺から鬼気迫るものを感じただろう。 (おなか、おなかすいた、ったべたい……!)  何かを口に入れることしか考えられず、俺は無我夢中で米びつの蓋を開けた。震える手を勢いよく突っ込んで、生米を鷲掴む。 「はっ、は、……っ!」  手の中の生米を口に入れる。ザラザラと手から米が零れ落ちていく中、狂ったように何度も米びつから生米を掴み取って口に入れた。  ガリガリ、ボリボリ。  固くて美味しくない。とてもじゃないけど食べられない。なのに、食べないと気が済まない。  頭がおかしくなりそうだ。 「……うぅ~っ、っ、……っ、うぅ~っ!」  バリバリ、ゴリゴリ。  自分でもどうしてこんなことをしているのか全く分からず、床にへたり込んで半泣きになりながら生米を食べ続けていた。  食べたくないのに食べてしまう。収まらない空腹感が全て衝動に変わっている。  まるで身体を乗っ取られたみたいで怖かった。  ――すると。 「うわっ、え?」  台所の入口の方から兄の声が聞こえて、バッと首がそちらを向いた。が、尚も手と口は止まらない。 「お、お兄~っ!止めてぇぇぇ」 「ぶはっ!」  突然破顔したかと思うと、兄がゲラゲラ笑い出した。『は!?』と思ったのと同時に、ムッと眉根が寄る。 「笑い事じゃ、……っ、ないから!んっ、」 「いやそんな食いながら言われても!」  ひぃひぃ言いながら兄が目尻の涙を拭う。泣くほど笑うことある!?目の前で弟がこんな苦しんでるのに!!? 「まぁ、生米って消化に悪いらしいしな」  クソおもしれぇけど仕方ねぇ、と兄がこちらへ歩いてくる。その顔は心底楽しそうに歪んでいた。状況分かってんのか!?人が半泣きになってるってのに失礼な奴め!  生米を貪る俺の目の前にしゃがみ込むと、兄は徐ろに腕を振りかぶった。  パァンッ! 「ゲッ、ホ!!」  思い切り背中を叩かれて、口に含んでいた生米を吐き出す。ザラザラザラッ、と生米が床に落ちる音が耳に入った次の瞬間。 「お、おえ゙ぇ゙っ!」  無茶苦茶に嘔吐いた。吐くかと思ったが、間一髪吐かなかった。  すると不思議なことにスッと冷静さが戻り、我に返ったような気持ちになった。 「……あれ?」 「あー笑った。お前それちゃんと片付けとけよ」 「……へっ?あれ?何?解放?」 「解放」 「……っはぁぁ~!」  立ち上がった兄の横で、へたり込んだまま大きな溜め息を吐く。  確かに、もう空腹感はない。それどころか二杯分の白米と貪った生米の分が今になって腹に来てる。腹九分くらい、正直お腹いっぱいだ。 「何?俺なんか飢え死にした人とかに憑かれたの?」 「それだったらもっと深刻だろ」 「今のだって深刻だっただろ!」  プンスコと怒ると兄は「いやさすがに生米は予想外だったけど」と言ってまた笑った。  ……笑っているのもムカつくが、それ以上に何か引っかかるものを感じる。 「……え、その言い方。……もしかしてだけど、ずっと気付いてた?」 「まぁ」 「いや!そりゃそうだよな!気付いてない訳ないよな!何で!?何でずっと放置してた!?」 「まぁ落ち着けよ。色々ワケがあんだよ」 「何だよ!言ってみろよ!」 「全員通りすがりだよ」 「……え?」  ぱちぱちと瞬く。何を言っている? 「いつもどんくらいの時間から腹減り始めんのかは分かんねぇけど、大体夕飯食ったら元通りだったろ」 「う、うん……」 「毎日毎日、その夕飯時に憑いてる奴が違ったんだよ。食い終わったら憑いてた奴はどっか行って、次の日の夕方になるとまた別の奴が憑いてたの。日替わり。日替わり定食」  やかましいわ。  ……え、ていうことは? 「憑いてたのは餓死した霊でも餓鬼でもなかった。というか全くもって大層なもんじゃなかったからとりあえず様子見してたんだけど」 「……じゃあ何だったの?」 「いやもう、ただただ食いしん坊な霊」 「は、はぁぁぁ!?」  何っだそれ!と思わず呆れ声を上げた。こんな毎日つらかったのに、憑いていたのが『ただただ食いしん坊な霊』!?しかも日替わり!? 「何で!?もう何か色々突っ込みたいけど、何で!?」 「知らね。みんな高い米食いたかったんじゃねぇの?」 「適っ当!」  ――しかし、その適当な返答が合っていたのかただの偶然なのか、翌日にその高い米を食べ切ってからはピタリと空腹感は止んだ。  ……本当にみんな高い米が食べたかっただけなのだろうか?今となっては何も分からない。

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