31 / 49
#26 人の悪意は渦を巻く
※作中で『ホモ』という単語が複数回出てきますが、同性愛に理解のない人物を描く表現として用いております。ご了承ください。
高校一年のときの話だ。
「お兄さあ……男同士って、どう思う?」
夕飯後、兄の部屋に漫画を読みに行ったとき。受験勉強をしていた兄が休憩に入ったので俺も何となく頁をめくる手を止めて、そんな話題を口にした。
兄は、飲んでいたお茶をごぽりと吐きかけた。
「……は?」
「いや、だからさ。男同士で付き合うのってお兄的にはどうなの?」
「……何で?」
「何でも!とりあえずどう思うかだけ教えて!」
「はぁ……そんなん言ったってそういうやつ身近にいねーし分かんねーよ」
「じゃあ、俺がもし男を好きだったら?」
「……」
兄は数秒何かを考えて、顔を顰めた。その反応に何だかもやっとする。
が、兄は嫌悪というより憐みのような色を顔に滲ませて言った。
「お前じゃ一生報われなさそう。可哀相で想像したくねー」
「あんだと!」
「そうだろ。ただでさえ奥手なのに相手男ってじゃあ逆にお前どうすんの?」
「……」
自分がもし男を好きになった場合。……想像して手も足も出ないと思った。どうするって、どうしようもない。諦めるしかないじゃないか。
思わず俺も兄のように顔を顰めた。
兄は勉強机の回転椅子をくるりとこちらに回し、机に頬杖をついた。
「で?何その話」
「いやさ、うちの学年に男同士のカップルがいるらしくて」
「へー」
兄の反応はすこぶる淡泊なもので、内心『え、そんな反応?』と思ったが考えてみれば当たり前だ。兄は他のものや人への興味が薄いため、男だ女だの以前にそもそも誰が誰と付き合っていようが全くもってどうでもいいのだ。
「クラス遠いみたいだから関わりないんだけどさ、何か周りから色々言われてるらしくて。『気持ち悪い』とか『おかしい』とか、『理解できない』とか……」
「ひなはどう思ってんの?」
兄が改めてお茶を口に含む。俺は「うーん……」と考え込んだ。
俺のこのもやもやは、どう説明すれば伝わるのだろう。兄のように端からどうでもいいと思っている訳ではない。むしろ男同士のカップルがいるという話は、最初聞いたとき驚いた。でも、その後の『キモいよなー』という何気ない風に吐かれた言葉は、よく分からなかった。
「何か、『別にいいじゃん』って。何でみんながそんな煙たがるのか分かんない」
「まー、そいつらの中にも何で自分が嫌悪感むき出しにしてんのか分かってない奴結構いるんじゃねーの。根付いた偏見が先行してんだろ」
「偏見かあ……」
確かに嫌悪感こそないものの、何となく『同性同士』というものが社会にどう認識されているのかは分かる。
みんなが『おかしい』と思うのは、『おかしい』と思うことが『おかしくない』社会で今まで生きてきたからで、『おかしい』ことを……何か、頭がゴチャゴチャしてきたな。
「……でもさ、『お前もそっちなの?』とか言われんのかなって思うと、何か『別にいいんじゃん』って言うのが怖くて、曖昧に笑って誤魔化しちゃって」
「あー……」
周りの反応が怖くて、だからこそ誤魔化してしまったことにもやもやする。こんな風に胸の内で異論を唱えたって、口に出さなきゃ意味がない。
自分が情けなくて俯いて唇を尖らせていると、兄が俺の両頬を鷲掴みにした。尖らせていた口がむにゅ、と更に尖る。
「俺はそれだって悪いことじゃねぇと思うけど」
むにむに俺の頬を潰しながら兄が何でもなさそうに言うので、思わず脱力する。
……うん。お兄はそう言うだろうなと思ってた。他人より自分の身が可愛くて何が悪い、って。
俺も結局のところそれと同じようなことを思って生きているんだと思うんだけど、どうしてか胸のもやもやは消えなかった。
今思えばそのもやもやは、所謂『嫌な予感』でもあったのかもしれない。
☆
「あ。あいつだよ、噂のホモ」
「え?」
体育の授業へ向かう廊下で、クラスメートの一人が少し先を指さした。釣られてそちらを見て、誰のことを言っているのかすぐに分かってしまった。
見た目とか、仕草とか、佇まいとか、そんな話ではない。その男子生徒は、俺やタケやクラスの男子と何ら変わりない風貌だった。
眼鏡をかけた彼は、三人の男子生徒に追い詰められて何か一方的に言葉をぶつけられているようだったのだ。困ったように身体を縮こまらせている。
横をすれ違う一瞬、男子たちの声が聞こえた。
「端歩けよ、ホモうつんだろ」
「やめとけって~話しかけたら襲われるぞ」
「やめて襲わないで~!ケダモノよ~!」
やけに楽しそうな声音で紡がれるその言葉たちが俺には不愉快でしかなかったのに、後ろを歩いていたクラスメートは「ひっでぇな~」と言いながら笑っていた。
「タケ、タケはどう思う?」
更衣室で着替え終わったあと小声でそう尋ねると、タケは何でもないような顔で何でもないことのように言った。
「特に何とも。ていうか姉貴バイだし」
「えっ、タケの姉ちゃんバイだったの?」
「うん」
俺はびっくりして目を丸くしてしまった。
小学校から付き合ってきて今初めて聞いた。タケの姉ちゃんは九つも上なので、確かにそこまで接点はなかったのだが……――タケにとっては、わざわざ言わなければならないような特別なことではなかったのだろう。
偏見はなくても、結局俺の根底にはまだ『恋愛=男女』という先入観があるのだ。だから恋愛対象が異性じゃないとびっくりしてしまうし、特別なことのように感じてしまう。
何だか少しだけ、舌の上に苦さが広がった気がした。
「ああいう奴らって、自分のきょうだいとか親友がそうだったとしてもああやって言うのかね」
タケは心底不思議そうに言った。
自分のきょうだいや親友が、同性を好きだったら。俺は昨日、兄に『俺がもし男を好きだったら?』と問いかけたことを思い出した。
もし兄が、タケが、同性を好きだったら。……片や彼女いない歴0年みたいな男と、片や俺同様浮いた話のない男だ。結局いまいちイメージが湧かなかった。
でも、どうしたってあの三人のようにはならないだろうなと思った。
・
・
・
体育の授業が終わり、昼休み。教室へ戻る廊下の途中で、不思議なものが見えた。
青黒い渦のような、何かの塊。五十センチほどはあるように見える。それが、壁際に佇んでいた。
近づくにつれて、だんだんその渦がはっきり見えてくる。
俺はハッと息を呑んだ。
青黒いそれは、全て文字だった。
文字の羅列がぐるぐると渦を巻いて蠢いている。
『ありえない』『キモい』『話しかけんな』『ホモうつんだろ』
はたと、気が付いた。その渦があった場所は、先ほど件の男子生徒達を見かけた場所だった。
「わ、何だこれ」
タケも気が付いたようで、足を止めた。二人で立ち止まりじっと見つめるが、文字の羅列は水が排水溝に吸い込まれていくみたいにぐるぐると緩やかに渦を巻くばかりだった。
ふと、視界の端で青い何かが足元を這うのが見えて視線を落とした。
『異常者』
その三文字が、青黒い渦に吸い込まれていった。
渦はその分、少しだけ大きくなった。
俺は何だかすごく嫌な気持ちになって、目を逸らしてしまった。
「行こ、タケ」
「あ、うん」
しげしげと渦を見つめるタケを促して、俺は足早にその場を立ち去った。
☆
それからというもの、渦は見かけるたびに大きくなっていた。
初めて見たときは五十センチほどしかなかったが、いつの間にかそれは床から天井までめいっぱいの大きさになっていて、それなのに、その前を歩く生徒たちはその渦に目も向けていなかった。当然だ。見えていないのだから。
放課後。廊下から人気がなくなるのを待って、俺は渦の様子を見に行った。
渦は、窓から差す夕陽の色にも染まらずただただ青黒いままそこにあった。
ぐるぐると渦を巻き続けている文字達は、もはや何が書いてあるのかさえ分からないほど小さな文字になっていた。
それでも、渦の前に立つと分かった。それらが全て悪意に満ちていることが。
どうしてみんな、気が付かないんだろう。
見えなくて当然だと分かっているのに、そんなことを思ってしまう。
「ひな」
後ろから声が聞こえて振り向く。兄がこちらへ歩いてきていた。俺が呼んだのだ。
「これか、言ってたの」
「うん」
兄は俺の横に立つと、すっと渦を見上げてぼそりと吐き捨てた。
「気持ちわりぃ」
兄は顔を顰めて、すぐ傍の窓を開け放った。途端、強い風が吹き込んできたかと思うと、渦の文字がぐらぐら揺れ、徐々に散り散りになり始めた。
「あ……」
悪意に満ちていた文字の羅列が、意味を成さない文字列となって宙を舞う。しばらく風に煽られてあちらこちらを彷徨っていたが、そのうちぴたんぴたんと床に落ちると、意味を失った言葉達はその存在意義も失ったようにひとつふたつと消えていった。
俺は、文字達の消えた床をただじっと見ていた。
「こんなことしたって結局、人の悪意が消えない限りは堂々巡りだ」
兄はそう言うと窓を閉めた。夕陽の橙が射す廊下は、再び静寂に包まれる。
人の悪意が消えない限り、堂々巡り。その通りだ。きっとまた明日になったら、どこかに小さな渦ができる。どこか確信に近い気持ちでそう思ってしまうことに、やるせなさを感じた。
「でも、溢れる前に気づけてよかったな」
兄は言いながら腕組をして窓にもたれ掛かった。外から射す夕陽の色に、兄が染まる。色素の薄い茶色の髪に眩しいくらいの陽の色が反射して、煌めいていた。
いつもと違う、少し優しげな笑みで見つめてくる兄の言葉の意味を、俺はそのとき分からなかった。
分かったのは、翌朝になってからだ。
「なあ聞いた?6組の相田くん、学校の屋上から飛び降りようとしたらしいよ」
「相田ってホモの?眼鏡かけてる方?」
「そうそう」
「え、自殺?」
「多分。未遂だけどな。屋上って立ち入り禁止じゃん?でそのドアのとこで何か思い詰めたみたいに立ってたんだって。先生が見かけて声かけたら、相田くん手に屋上の鍵握ってたって」
「ええ、やばいねそれ」
「ほんとさあ、6組の奴らやりすぎだよな。かなりひどいこと言ってたらしいよ」
彼の名前を、そのとき初めて知った。相田という苗字だったのか。
……未遂。未遂で済んで良かったなどと、決して思ってはいけない。
今朝、職員室の戸の前で、渦を見た。
結局根本は何も解決していないのだ。
それでも。
「でも先生がたまたま気づいて良かったよなー」
「ほんとだな」
『こんなことしたって結局、人の悪意が消えない限りは堂々巡りだ』
それすらも、きっと多くの人は気づいていない。
ともだちにシェアしよう!