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#28 踏切
高三の春頃の話。
昔、近所の踏切で事故が起きたらしい。小さな男の子が亡くなった痛ましい事故。転がったボールを追いかけて、遮断機の下りた線路に立ち入り、そのまま撥ねられてしまったと聞いた。
近所と言ってもその踏切は学校の真反対に位置していたので、足を運ぶことはそうなかった。
だから偶々だったのだ。滅多に行かない図書館へ向かうため、その踏切に訪れたのは。
☆
カンカンカンカン……
(あ)
渡ろうとしたところでちょうど遮断機が下りてきて、立ち止まる。
通過していく電車が切る風を浴びながら、『警報機の音って何か不安になるよなぁ』なんて思う。
しばらく待つと電車の最後尾車両が目の前を通り過ぎて行って、遮断機が上がった。
線路を渡る際、ふと脇に目を遣ると献花があった。
(あぁ、そうか。ここで……)
事故が起きてからしばらく経っているが、献花は真新しく、未だにここへ訪れている人がいることを悟らせる。
手でも合わせた方がいいかな、と立ち止まったが、兄がいたら『だから憑かれんだよお前』と言われそうだ。周囲に "それらしき" 姿は見当たらないが、念のためやめておいた方がいいだろう。
献花から目線を外し、俺は再び歩き出した。
・
・
・
図書館内の、DVDを視聴できるスペース。俺は今日そこに用があった。何故かと言うと、DVDを見るため。もっと何故かと言うと、アメリカの映画を見るため。もっともっと何故かと言うと、先日の英語の授業でその映画を視聴した際、ものの見事に爆睡して全編見逃したためだ。
ただ寝過ごしただけなら『コリャやっちまったぜ』で済んだのだが、生憎『来週までに感想文を提出すること』と来た。仕方がないのでこうして図書館に足を運び、ひとり映画を見直すことにした訳だ。
お目当てのDVDを見つけ、視聴スペースの一角で映画を流し始める。
仕切りで隣と区切られた席でヘッドホンを装着し、一時間ほどテレビ画面と睨めっこ。
映画自体は、爆睡して見逃したことが惜しいくらい面白かった。こりゃ先生も丸一時間使って見せる訳だ。
さてついでだし感想文も書いてしまおうと席を立つ。
今度は共用スペースの広々とした机に移り、紙とペンを出した。
……が。
(あれ~……?なんか全っ然集中できないぞ……)
ペンを持ち紙に向かうが、何か考えようとしたらすぐに頭が真っ白になってしまうのだ。
先ほど見たばかりなので内容は完全に頭に入っている。何だったら、視聴中に『ここのシーンについて書こうかな』なんて考えたりもしていたのに、どうしてか何も思い浮かばない。
とりあえず今日の日付は、と思いスマホを机上に出して、待ち受けに表示された数字列を確認。
紙に日付を記入しようとして、『あれ、結局何日なんだっけ?』とスマホをまた確認。
おいおい、一体俺どうした?映画見て疲れちゃったかな。
何でかほんと、何も考えられないや。
気が付けばすぐにボーッとしてしまう。
――というか何か、意識が朦朧としてきた?
ぼんやりする。視界に入るもの全てがピンボケして見える。頭が真っ白になる。
……何も、考えられない。
「……」
ボーッと虚空を見つめながら、どこか遠くの方で音が鳴っているのが聞こえた。
カンカンカンカンカンカンカンカン……
おかしいな。図書館で踏切の音なんてするはずないのに。
どうしてだろうと考えるその思考も、また真っ白に塗り潰される。
ペンキをぶち撒けたみたいに、全部白く、白く、白くなっていく。
カンカンカンカンカンカンカンカン……
鳴り続ける警報機の音の隙間を縫って、誰か、……俺かな?分かんないや。とにかく、俺か、誰かが、何かを言った。
――これ、多分ヤベーわ。
俺の意識は、そこでバツンと途切れた。
☆
カンカンカンカン……
さっきから、なんだろう?
おおきい音だなあ。
そんなことよりボール、ボールさがさなきゃ。
せっかくおかあさんが買ってくれたのに、せっかくおとうさんが一緒にあそんでくれてるのに、なくしちゃだめだもん。
ボール、ボール……
あ!あった!
きいろとくろのしましま、くぐったらとれる。よかったぁ。
あ、おとうさん!ちょっとまってね、今ぼくとるよ。えへへ、ひとりでいけるよ、だいじょうぶ。
……?
おとうさん、こわいかおしてどうしたの?
なんて言ってるの?
カンカンカンカン、って、うるさくてきこえな
「ひな!!」
グイッ、と、強い力で引っ張られた。
腰に回った両腕が、ぎゅうっと痛いくらい抱き締めてくる。
きょとんとしたのも束の間。
ゴオオオオオオオ――
すぐ目の前を、轟音と共に電車の足が通り過ぎた。
アスファルトにぺたりとへたり込んだまま、電車が切る風を浴びる。自分の髪が、鬱陶しいくらい靡いた。
ガタン、ガタンとやがて最後尾車両が去って行き、静寂。
事態が飲み込めない。一体今、何が起きた?
何も分からないのに心臓はバクバクと気持ち悪いくらい脈打っていて、背中には冷や汗が伝った。頭だけ置いていかれたような気分だ。
乱れた髪もそのままに呆然としていると、不意に首筋を何かが擽った。
ピクリと跳ねた首に、俺を後ろから抱き締めているその人の頭が埋まる。
腰に回っていた腕が俺の上半身に巻き付き、そのまま俺の服を強く握り締めた。
「何してんだよ……っ!」
――兄の声は、ひどく震えていた。
声だけじゃない、抱き締めてくる腕も、俺の肩口に埋められた頭も、全部が震えていた。
俺は、そこでようやく声が出た。
「お、お兄……?」
兄がビクリと肩を跳ねさせる。しばらく静かな間があってから、兄はふっと腕の力を緩めた。
背後の兄が立ち上がって、離れていく。
座り込んだまま振り返り、見上げて、俺は息を詰めた。
兄は、見たこともないくらいつらそうな顔をしてそこにいた。
夕陽が滲む空の茜色を色素の薄い髪に溶かして、俺を見下ろしていた。
言葉が出てこない。
何と声をかければ良いのか、分からなかった。
しばらくそのまま見つめ合っていると、兄がふいと顔を背けて言った。
「……帰ろう」
俺はそれに、ただ頷くことしかできなかった。
・
・
・
「……」
「……」
踏切を渡り、二人で並んで家に帰る。
俺達は、手を繋いでいた。
繋いだのは俺からだった。言葉が出ないから、何となくそうするしかないような気がした。
兄はとても驚いた顔をしていたが、何も言わずに手を握り返してくれた。
自分達の長い影を見ながら、すうっと息を吸い込む。
「お兄、」
緊張しているのか、少しだけ出だしが掠れた。
「ごめんね」
歩きながら、下を見ながら、俺はそう言った。
いっつも心配させて、ごめんね。
兄の顔は見えない。
少しの間があって聞こえたそれも、兄がどんな顔をして言ったのか俺には分からなかった。
「……お前が謝ることじゃない」
「……」
何となく肯定も否定もできなくて、口を噤む。
カンカンカンカン……
遠く後ろの方で、踏切の音が鳴っている。
何がどうしてああなったのかは、俺にも分からなかった。
図書館で意識が途絶えて、気が付けば踏切の遮断機を四つん這いでくぐり抜けようとしていた。それが俺の頭に残っている全てだ。
どうやら俺は、意識が完全に切れるその直前、机上に置いていたスマホで兄に連絡を取ったらしい。
そのメッセージも、『た』『あ』という意味を成さない一文字ずつのみだったようだが。
ミスか何かかと思った兄は、何の気なしに俺に電話をかけた。からかってやろうと思ったらしい。
『何、 "た" "あ" って』
『……あ゙、うー……ゔぅ、』
『……ひな?』
プツリ、とそこで電話が切れ不信に思った兄は、俺が図書館に出かけたことを父から聞き家を出てきた。が、図書館へ着いたは良いもののどうやら中で入れ違いになったらしく、慌てて外へ出て、間一髪遮断機をくぐろうとしていた俺に追いついた……というのが、兄が来た経緯。
兄によれば、俺は憑りつかれたらしい。恐らく、あの踏切で亡くなった子に。
兄が来なければ死んでいた。
間違いなく、亡くなったあの子のように電車に撥ねられていた。
今まで散々怖い目に遭ってきたが、いざ本当の死を目の前にすると何だか現実味が湧かなかった。
ただ、握っている兄の手が冷たいことだけは分かる。
いつも暖かい手が、氷のように冷たく汗ばんでいる。
それだけが、俺にとっての事実だった。
☆
家に帰り、いつも通り父の作った夕飯を食べた。
口数の少ない俺達を見て父は心配そうにしていたが、『俺が憑かれて死にかけた』とはとても言えなかったし、兄も言わなかった。多分父は、喧嘩でもしたに違いないと思っただろう。
夕飯を食べ終わって、いつも通り居間でテレビを見た。内容はあまり入ってこなかったけど。
風呂が沸いたらいつも通り順番に入って、少しだけ早めに自室に戻って、布団に入って。
中々眠りに就けず、目を瞑ってそのまましばらく。
ガチャリと、部屋の戸が開いた。
ぱち、と目が開いて顔を上げれば、兄が立っていた。ぱちぱち瞬きながらリモコンで部屋の電気を点ける。
「どしたの」
「いや、……別に」
そう言いつつ、兄はパタンと後ろ手に戸を閉めてこちらへ歩いてくる。
黙ってその様子を見ていると、兄は徐に俺の布団へ入ってきた。
「!?」
「詰めて」
「あ、はい」
言われるまま少し壁側に寄る。……狭いな。そりゃそうだ。高校三年生と大学二年生が二人でシングルベッドは色々キツい。
兄の無駄に整った顔が間近に置かれる。栗色の前髪が額をサラリと滑るのを見ながら、俺は我に返ったように言った。
「……え、寝んの?」
「お前あっちで寝てもいいけど?」
「いやそれ全然意味分かんないじゃん」
ぱちぱち瞬きながらも、部屋の電気を再び落とす。
暗くなるとより静寂が耳につき、兄の身じろぐ音がやけに気になったりする。
俺はほんの少しだけ躊躇ってから、それを口にした。
「……こわかった?」
俺が、死ぬかもって。
暗闇に少しだけ慣れてきた目が、すぐそこにある兄の顔を見つける。
じっと見つめていると、兄は観念したように呟いた。
「……怖くねー訳ねぇだろ」
ふるり、と心臓が震えた。
そっか。怖かったのか。……そりゃ、そうだよな。一歩遅かったら、俺死んでたんだもんな。
同時に、胸の奥にじわりと暖かいものが広がった。
そっか。怖かったから、不安になったんだ。だから俺の部屋に来たんだ。
……知ってたけど、俺、大事にされてるんだった。
「お兄、いつもありがと」
ふっと頬を緩めて、兄の顔に手を伸ばす。
きっとムスッとしているのであろうその頬を、ふに、と触った。
「……能天気なこと言いやがって」
「だって謝んなくていいって言われたもん」
「……はー。マジでお前のそのクソ霊媒体質どうにかなんねぇかな」
「え~そりゃどうにかしたいけどさぁ。体質ってどうにかなるもん?」
「知らん。つーかそもそもお前そんなんで俺と会う前どうやって生きてきたんだよ」
「覚えてないよもう」
どうにかできるなら、それに越したことはない。もう怖い思いしなくて済むし、兄に余計な心配かけなくて済む。
でもそんな方法、あるとは思えない。体質なんだから。生まれつき足の短い人間が何をしたところで、足の長さは変わらない。それと一緒……別に俺のことじゃないぞ。今のは完全にたとえが悪かった。
……でも、だけど、だからといってこのままでいい訳もない。
特に今日のなんて、
「……マジで、死んでたかもしんないんだかんな」
「……」
返す言葉もない。
……俺、なんでこんな体質なんだろう。考えたって仕方ないことだけど、恨みたくもなる。
それでもやっぱり、兄がいるという安心感は俺の危機感を鈍らせている気がした。今日だって死にかけたってのに、未だにその実感が湧かない。
兄の言う通り、俺は少々能天気が過ぎるのかもしれない。
ふと、兄が動いた。ギシ、とベッドが鳴る。
寝返りでも打つのかと思ったら、兄は俺を腕の中に閉じ込めた。
ぎゅ、と俺を抱き締めて、兄が言う。
「頼むから、」
――いなくなんないで。
小さく掠れたその声に、俺は何と返せば良いか分からなかった。
口で何かを言ったところで、ぺらぺらの紙みたいに頼りない言葉になる気がした。
でも、寄る辺ない様子の兄を放ってはおけなくて、俺はこの一時でも安心してくれればと兄を強く抱き締め返した。
俺、助けてもらってばっかのくせにこんなことしかできないんだな。
何だか少しやるせなくて、胸に苦さが広がった。
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