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#31 病室

#31 病室  小六の頃、母さんが亡くなる二十日くらい前の話。  学校帰りに母さんの入院する病院へ寄ることがすっかり日課になっていて、その日も俺はいつも通り母さんの病室を訪ねた。 「母さん、ただいま!」 「あ、おかえりひなー」  病室のドアを開けるとベッドの上で漫画を読んでいた母さんが顔を上げてにこりと笑った。  溌剌とした笑顔。生来パワフルだった母さんは、入院中でもその笑い顔だけは変わらなかった。 「何読んでるの?」 「夕が持ってきてくれた漫画。面白いね~これ」  ベッドに駆け寄り母さんの手元を覗き込むと、見覚えのある表紙があった。アクションバリバリの少年漫画だ。少年心のある母さんにはしっかり響いたらしい。  俺がいそいそとベッド脇に椅子を用意すると、母さんも一旦本を閉じた。 「今日は何があった?」 「あのね、俺今日テストで100点取ってね」 「えー!すごいじゃん!見せて見せて!」  はしゃぐ母さんに、俺はランドセルから出したテスト用紙を自慢げに見せびらかした。 「すごーい!花丸だ~!しかもひなの苦手な理科!えらーい!」  パチパチパチ、と拍手してくれる母さんに少々照れる。大袈裟だなぁ。  よく見せて、と言うのでテストを渡すと、母さんが俺の回答を隅から隅まで眺め始めた。 「すごいねぇ偉いねぇ」  母さんが俺の頭をわしゃわしゃと撫で回す。すごく嬉しい反面、何だか気恥ずかしかったので、別の話題を振ってみることにした。 「母さん、今日体調は?」 「元気だよ~、いつも通りいつも通り」 「……そっか」  軽い口調だが、母さんはいつも『元気だよ』と言うのだ。  いつもより体調が優れない日でも、起き上がれないほどつらい日でも。  だから俺は母さんの態度でその日の体調を確かめていた。  今日は、あまり体調が優れない日だ。  本当に元気な日は、母さん自身も嬉しそうに『ほらこの通り!』と大袈裟に身体を動かしてみせるから。  ここしばらくずっと体調が優れていないらしい。  ――母さんには、もう分かっていたのかもしれない。  自分がそう長くないことを。  だからこの日、俺にその話をしたのだろう。  世間話がひと段落ついた頃、母さんがふといつもよりも芯のある声音で言った。 「ひな、あのね。実はね、ひなに知っておいて欲しいことがあって」 「? うん」 「ごめんね、まだ早いってことは分かってるんだけど」  そう前置きして母さんが語ったのは、俺の実の父親のことだった。  実父との出会いから別れまでのすべて。  二人で暮らしていたアパートに実父が何度か訪れていたことも、そのときに聞いた。 「今まで一度も話したことなかったから。……ごめんね」  当時は何度も謝る母さんを不思議に思っていたのだが、今なら何となく分かる。  実父の話は、小学六年生に話すには少々影がありすぎたのだ。  今思い出しても仄暗い話を、当時の俺は必死に受け止めていた。  『話せるうちに話しておかねば』という母さんの真剣な想いが伝わっていたのだろう。 「『どんな人でもひなの本当のお父さんはあの人だから』なんて言わない。ひなのお父さんは、」 「今の父さん」 「……うん、そうだね。ひなのこと大事にしてくれる父さんを、ひなは本当の父さんだって思っていいの。夕も、ひなの大事なお兄ちゃん」 「うん」 「血が繋がってなくたって、ひなの家族は、ひなが家族だと信じる人たちだからね」 「うん」 「だからね、何かあったら、『助けて』って言ってね。…… ”あの人” のことで、もしも、万が一、何かあったら、絶対言うの。約束してくれる?」 「うん」  母さんの差し出した小指に、自分の小指を絡める。  母さんは「ありがとう」と微笑んだ。  指切りなんて久しぶりだ。……最後の指切りだったんだな。  沢山話したからか、母さんはほんの少しだけ疲れたような顔をしていた。  ……そろそろ帰ろうか。 「……母さん、俺そろそろ帰るね」 「うん。気を付けて帰るんだよ。寄り道せず明るいうちにね」 「うん。また明日来るから」 「ありがと。夕も明日は来れるって言ってたから、三人で沢山お話しようね」 「うん。……それじゃあ、ゆっくり休んでね。また明日ね」 「また明日」  帰るときは、寂しかった。いつも別れを惜しむように言葉を重ねた。  一人だったからかその日は特に寂しくて、何だか泣き出してしまいそうだった。  言いようのない、自覚のない不安感が既にあったのだと思う。  母さんの病室がある四階から階段を下り、玄関に向かってとぼとぼと一階の待合室を歩いていると、不意に影が差した。  自分の靴に向けていた視線を上げる。 「っ!」  真っ黒な影が、目の前に佇んでいた。  びっくりして避けると、影はそのままスーッと俺が来た方へと消えていった。  唖然としつつも、病院だし珍しいことではないかと納得する。  実際、その病院では既に何度か霊を目にしていた。大体は高齢の、まだ自分の死に気が付いていないような人だ。害はない。きっとあの黒い影もそういった類のものだろう。  ……頭ではそう思うのに、どうしてか胸がざわついて仕方なかった。 ☆ 「お兄、……一緒に寝てもいい?」  家に帰り晩御飯を食べ、しばらくゆっくりして、夜十時頃。  宿題をしていたらしい兄は、机に向けていた目をちらりとこちらに向けて「いいよ」と言った。  「ありがとう」と返して兄の布団に潜る。いい匂い。安心する匂いだ。  横になって兄の背中を眺める。  胸のざわつきが治まらないのを打ち明けたい気持ちと、どう話せばいいのか分からない気持ちと。  自分でもよく分からない不安感を伝えるには、俺はまだ幼すぎた。  ――それでも。  兄は、そんな俺の気持ちが伝わったみたいに振り向いた。 「俺も寝よ」  兄が布団に入ってくる。「終わったの?」と聞くと「完璧」と返ってきた。 「電気消すぞ」 「うん」  ぱち、と部屋が暗くなり、兄が俺を当たり前のように抱き寄せる。  俺のこんがらがった不安をひとつひとつ解くように、兄が背を叩き始めた。  あの頃、俺が兄と眠りたがるのは決まって母さんのことで不安がある日だった。  だからその日も、何かあったと察したのだろう。 「……あのね」 「うん」 「母さん、今日も体調良くなかったみたい」 「そっか」 「ここ最近ずっとだね。……明日はきっと良くなってるよね」 「……きっと大丈夫」 「……うん」  気休めの言葉を交わすのも、お決まりだった。  あの頃の俺達は、少しでも安心したかったのだ。  ふと、帰り際に見たもののことを思い出す。わざわざ話すようなことでもなかったのだが、不思議と口をついて出てきた。 「……そういえば、帰りに病院の中で変な黒い影見た」 「何かされた?」 「ううん。下向いて歩いてたら急に目の前に出てきて、びっくりして避けたらそのまま行っちゃった」  すると、俺の背を叩く兄の手が止まった。 「……どこに行った?」 「え、……分かんない。一階の待合室ですれ違って、そのままスーッて消えちゃった」 「……」 「……どしたの?」 「……いや。何でもない」  兄の声が固い。それに不安になりながらも、兄が再び背を叩き始めたので俺もそれ以上は追究しなかった。  その後は他愛もない話をぽつりぽつりと重ね、ゆっくり眠りに落ちていった。 ☆  その日以降、頻繁に黒い影を目にするようになった。  最初は一階の待合室ですれ違ったのが、今度は一階の階段で。その次は二階で、その次は二階の階段で、その次は三階、その次は、その次は、……。  相変わらず害はなく、すれ違うだけ。恐怖も驚きも感じなかった。  だが、俺はその影の正体を知ったとき凍り付いた。  最も恐怖すべきものだったと、全てが終わってから気が付いた。  ……聞いたことがある人も多いだろう。  知る人は知る、有名な話だ。  死期が近い人のもとには、黒い影が現れるという。  俺が最後に黒い影を見たのは、母さんの病室を出てすぐのところだった。  その次の日、母さんは容態が急変してそのまま逝ってしまった。  紛れもなく、 “あれ” がそうだったのだ。  俺はそれに最期まで気が付けなかった。  ……いや、気付いていたところで俺に何ができたのだろう。  恐らく兄は、俺よりずっと前から気付いていたはずだ。あの兄ですら、為す術がなかったというのに。  ――母さんの葬式の日、終始気丈に振る舞っていた兄が、一度だけ棺の前で拳を握り締めていた。  何かを呟いていたようだが、何を言ったのかまでは分からなかった。  たったの一瞬だったが、俺は未だに、あのときの兄の後ろ姿が忘れられない。

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