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#33 嫌な奴
#33 嫌な奴
※グロテスクな見た目の寄生虫みたいなやつがいます
中学一年の頃の話だ。
クラスにすごく嫌な奴がいた。
佐藤という奴だ。
何かと俺に突っかかってきては、不愉快なことを言ったりやったりする奴だった。
その割に俺以外には愛想が良く、それなりに顔が良くそれなりに運動も勉強もできるという質の悪さ。
大半の女子は俺への悪行に目を瞑って佐藤をちやほやしていたし、佐藤の男友達も佐藤の味方をしていた。
今思えば、あいつは俺ではなく兄に対抗心があったのだろう。何故なら、あいつが突っかかってくるのは兄が俺の教室を訪れたときばかりだったから。
☆
「ひなー、今日俺ナツんち寄るから遅くなるわ」
昼休み。
当然のように教室に入ってきた兄に、俺は顔を顰めた。窓側にある俺の席まで平然と歩いてくるのは一体どういうつもりなんだ。
兄はその見た目の良さでそこそこ有名人だったので(謎すぎる。何でだ)、兄の登場で教室内は僅かに色めき立った。
うへぇ、と辟易する。
「平然と入ってくんなよ」
「何だよ」
「マジでどういう神経してんの?『注目されて恥ずかしい!』とかないの?」
「好意的な視線じゃん?」
「うざ……え、つかさっき貸した英和辞典は?」
「あ?あ、忘れた」
「おい」
手ぶらの兄に俺は胡乱な目線を送りつけたが、兄はうんともすんとも言わず前の席に腰掛けた。
何でちょっと居座る気なんだよ。そこの席のやつ戻ってきても文句言いづらいだろ、可哀相に。今すぐ英和辞典取りに戻れ。次使うんだよ。
背もたれに頬杖をついている兄の顔をじとーっと睨めつけながらそんなことを思っていると、「あ、あの!」と横から女子の声が聞こえてきた。
「こ、これ!もし良ければもらってください……!」
クラスメートの女子がもじもじしながら差し出したのは、三時間目の調理実習で作ったクッキーだった。
すると、それをきっかけにあちらこちらから「わ、私も!」「夕影先輩!私のももらってください!」などと声が上がり始めた。
「俺がもらっていいの」
「は、はい!先輩がもし良ければ……」
「好きな奴にあげたらいいのに」
「そ、それは……だって……い、いいんですよ!もらってください……」
最初にクッキーの入った袋を差し出した女子が、顔を赤らめてキュッと口を一文字に結んだ。
あ゙ー!何かその『恋してます』みたいな顔すごい可愛くて無性に悔しい!
お兄の反応もムカつくな!分かってんだろお前!分かってて言わせてんだろ!!
兄は「じゃあもらう。ありがと」とクッキーを受け取って、周りに集まってきていた他の女子のクッキーもひとつずつ受け取り始めた。
教室内をちらりと見渡せば、男たちが歯軋りしている。
分かる……分かるぞ……。憎いよな……。俺も憎いよ……。
そうして両手にいくつもクッキーを抱えた兄が、ふと俺の顔を覗き込んできた。
「ひなはくんねぇの」
「やる訳ねーだろアホか」
「ひっど。かわいい弟の手作り食べたいだけなのになー、冷たいなー」
「おいやめろ!俺が悪いみたいに見えるだろ!」
「柳ひど……」
「一口くらいあげなよ……」
「ほらあ!!」
女子が遠巻きに俺を非難する。
だから言ったんだよ!結局顔がいい奴が正義なんだから!
俺は女子達の蔑視に耐えかね、渋々ながらも自分の作ったクッキーを取り出した。中から適当に一枚取り出して、兄の口まで運んでやる。
……俺が当然のようにあーんした訳じゃない。こいつが当然のように口を開けたんだ。
「まっず」
「てめえ!」
確かに当時はまだそこまで料理の腕がなかったが、全員同じ材料と分量で作っているのにまずくなる訳がない。
俺のがまずいならお前の手の中にあるもん全部まずいからな!……え、俺だけ砂糖と塩間違えたとかある?
不安になって自分の口にクッキーを運ぶ俺に、笑いながら「じゃあな下手くそ」と言い捨てて、兄が教室を去る。
おい聞いたかよみんな、あいつはああいう奴なんだよ。あんなに包み隠さず嫌な部分顕わにしてる奴もいないだろ。あとクッキー普通にうめーじゃねーか!ふざけんなあいつ!
俺のそんな胸中も知らず、女子達は「渡せてよかった~」と嬉しそうに席へ戻っていく。恋は盲目とはこのことだな。
と、苦虫を噛み潰したような顔をしたとき。
「柳ってさぁ、ほんとに兄貴と顔似てないよな」
背後から、もはや聞き慣れてしまった小憎たらしい声が聞こえて、俺はまたしても辟易とした。
佐藤だ。
佐藤は俺の前に回り込み、こちらを見下ろしてきた。
「あの顔の弟がこれって……血繋がってないんじゃない?」
その通りだけど?
と言ってやりたくなったが、それはそれでややこしくなる。
相手をするのが面倒なので、佐藤の嫌味には黙って睨みをきかせるのが常套手段だった。
「父さんか母さんがすげえ美人とか?」
(だとすれば父さんは普通のルックスだから、お母さんが美人だったんだろうな。知らねぇけどな)
「……あ」
(あ?)
「ごめん、母さん死んだんだっけ」
──ぞわりと総毛立つような感覚がした。
一瞬頭が真っ白になって、それから色々な感情が湧く。
『何で知ってんの?』という純粋な疑問、わざわざそれを口にしたことへの怒り、他のクラスメートに聞かれた気まずさ。
俺が何を言えばいいか分からず固まっていると、佐藤は嫌な笑みを浮かべた。
「しかも去年なんだろ?可哀相に。兄貴もあんな感じだけど内心まだ悲しいだろうなあ。お前もまだ引きずってんの?」
──『引きずってる』って、何?
その言い草と声音に込められた明らかな悪意を感じ取った瞬間、沸騰するような怒りが俺の全身を支配した。
「お前に関係ないだろ!」
バン!と机を叩いて立ち上がる。
いつもは黙っているだけの俺がキレたので、佐藤は驚き固まっていたが、さすがにそんなことを言われて黙ってはいられない。
が、俺もその勢いで捲し立てられるほど強くはなく、すぐに『あ』と我に返ってしまった。
怒りの雲間から僅かに覗いた正気は俺に少しの冷静さを取り戻させた。そしてその少しの冷静さで、俺は教室内が俄かに静まり返っていたことに気が付いた。
その瞬間、怒りよりも気まずさが勝ち、俺は何となくその場を離れて教室から出てしまった。
☆
昼休みの人混みの中、どこへ向かえばいいか分からず廊下を彷徨う。
俺は何も悪くないのだから教室へ戻ればいいはずなのだが、何となく、足が来た道へ向かず、かと言って他のクラスで友人と談笑するような気にもならず。
次の授業までそこまで時間がある訳でもないから、本当は早く戻りたいのに。佐藤め。お前なんかお兄に比べたら全然顔かっこよくないからな。バーカ。
……噂をすれば影、とはよく言ったもので。
「おい柳」
上階へ続く階段の横を通り過ぎようとしたとき、後ろから佐藤のニヤついたような声がした。思い切り顔を顰めて振り返る。
「デリケートなとこ触れてごめんって。反省してるから一応。でも拗ねて出ていくってガキじゃないんだからさ」
別に拗ねて教室を出た訳じゃない。気まずくて出たんだ。
……何て弁解は無駄だと分かっているので、黙って佐藤を睨む。佐藤は俺のその目に「お~怖」と大袈裟に肩を竦めた。
「謝ってんじゃん。でもさあ、お前のために言うけど、一年も経ってんだからそろそろ立ち直れば?人につつかれてキレるって超引きずってんじゃん。いつまで悲劇のヒロインみたいな気分でいんの?」
妙に嫌な絡み方をしてくる佐藤に俺はまたふつふつと怒りが込み上げてきて、考えるより先に言葉が出てきてしまった。
「……お前に何が分かんだよ」
俺の低い声を聞いて、佐藤は『まんまと挑発に乗りやがった』というような笑みを浮かべた。
「だってそうだろ?『お母さん死んじゃったんだっけ』って言われただけでキレるとかさあ。同情してやったのにあんな突っぱねるなんて」
「何が同情だよ。おちょくるような言い方しやがって」
「はぁ?おちょくってねえけど。被害妄想やめろよ」
「……っ!」
いちいち腹の立つ言い方をする佐藤に、手が出そうになる。でも、殴ったら俺の負けだ。俺は必死で堪えた。
佐藤はそんな俺を嘲笑うように捲し立てる。
「中学生のくせに恥ずかしくないの?お前の兄貴も家では泣いてたりして。『お母さぁ~ん!』って。あっはは!」
「お前……っ!」
怒鳴りかけたその瞬間、
バコンッ!
と、重くてやたら小気味の良い音がした。
音の正体は探るまでもない。それは目の前で起こったから。
「泣いてちゃわりーかクソガキ」
頭を抱えて蹲った佐藤の背後、階段を一段上がったところ。
兄が、分厚い英和辞典で自分の肩をトントン叩いていた。
……あ、俺が貸したやつ。
──と、そのとき。
視界の端……下の方で、何かが蠢いた。
咄嗟にそちらへ視線を落とすと、頭を抱える佐藤の手の隙間から、ドロドロに溶けたドブ色の触手のようなものが、何本も這い出るように伸びていた。
ニチ、ニチ、と奇妙な音がする。
衝撃的なその光景に、俺は思わず一歩引いた。
縋るように兄を見れば、兄は冷たい目で佐藤を見下ろしていた。当の佐藤は、頭から何本もの触手が這い出ようと蠢いているのに「いって~……!」と呻くばかりだ。
やがて、ずろろ、ずろろと順番に触手が頭から這い出てきた。
長く太い芋虫のような──まるで寄生虫のような見た目をした触手達は、佐藤の頭から離れ床にぽとりぽとりと落ちると、そのまま息絶えたように動かなくなり、すぅっと消えた。
あまりの気味の悪さに吐きそうになり、俺は真っ青になりながら口元を手で押さえた。
痛みが治まったのか、佐藤が立ち上がり「何なんだよ!」と振り返る。そして、固まった。
「そんな痛がるとは。ごめんな?口は達者なくせに痛みには弱いんだな」
「な、何でここに……」
「言葉ってずるいよな。形ないから傷つけ放題だろ。傷痕だって残んねぇしな」
兄が持っていた辞書を床に落とす。辞書は佐藤の足すれすれに着地し、バンッというその重い音に、佐藤は肩をビクつかせた。
「『いてぇ』なら良いじゃん。どこをどう傷つけられたか自分で分かるから言えんだぞ、それ。もしかしたらたんこぶとか出来てたりして。はは」
「な、何がおかしいんだよ」
「あ?何もおかしくねえよクズ。言いたい放題言いやがって。一年経っても十年経っても百年経っても、親の死なんか忘れらんねえよ。お前みてーなクソガキじゃ自分が同じ目に遭わねぇと分かんねぇか」
静かで淡々とした兄のその声音は、鉄のように固く冷たかった。
言葉を浴びる佐藤だけでなく、俺までも兄の怒りに呑まれていた。
「選択肢やる。今俺らに謝るか、それが嫌なら黙って消えろ」
兄の目には、何の色もなかった。本当に、どちらでも構わないという様子だ。兄にとって、こいつの謝罪など何の足しにもならないのだろう。
もちろん、俺も同じだ。
佐藤はしばらく兄の言葉の意味を捉えあぐねていたが、
「……チッ」
小さく舌打ちすると、そのまま苛立たしげに踵を返していった。
ささやかな反抗のつもりなのだろう。くだらないプライドだと思った。
「お前、いっつもあんなこと言われてたの」
小さくなる佐藤の背を冷めた目で見ていると、兄の声と階下に降り立つ足音が聞こえて、俺はそちらを向いた。
「……あんなひどいこと言われたのはさすがに初めてだった」
「ふーん……いつもは?」
「しょうもない嫌味。無視してりゃそのうち飽きるし、うざいなぁくらいにしか思ってなかったんだけど……」
あんなに明確に傷つけられたのは初めてだった。今日はまた、どうしてあんな絡み方をしてきたのだろうか。
湧いたその疑問に答えるように、兄が声を潜めて言った。
「あの寄生虫みたいなのさぁ」
「うえーっ!思い出したくない!マジキモかった……」
「前も見たことあんだよな」
「え」
「小学校んときだな。やたら突っ掛かってくる面倒なのがいたんだけど、あいつもあれに寄生されてた」
つまり、あれは『人を嫌な奴にする怪異』ということなのだろうか?
が、兄はそれに否と言った。
「あいつらは多分、元の性格の悪さに付け込んでるだけ。小学校んときのそいつも、ウザ絡みはしなくなったけど特別良い奴になった訳でもなかった。だから元々あいつが『嫌な奴』だったんなら、その根本は変わらん」
「何だよぉ」
もしかしたら……と思ったが、奴に希望を抱くだけ無駄だったようだ。
うーむ。今日のことを根に持ってエスカレートしなければいいが。
──ふと、兄が俺の顔を覗き込んできた。
「うん?」
「お前が泣いてないのは結構意外だった」
「は~?俺そんな泣き虫じゃないよ!」
「どの口が」
「あんな奴に見せる涙なんてないもん」
兄は「ふーん」と相槌を打ちながらも、俺の顔を覗き込んでくるのをやめない。
何だか含みのあるその視線に、俺は唇を尖らせた。
「……何だよ」
「いや?」
意味ありげに笑う兄に胡乱な顔をすると、兄はいつもと少し違う柔らかな笑みを浮かべた。
「泣きたきゃ泣きゃいいけど、ムカつくときは素直に『ムカつく』って怒ってる方が見てて安心するわ」
「……」
急に兄貴面されると、どういう反応をしたらいいのか分からなくなるからやめて欲しい。俺は照れ隠しに顔を逸らした。
すると突如、両頬がワシッと掴まれる。今度は押しつぶされて唇が尖った。
「うううう!」
「そうやって間抜けな顔してたらなお安心だわ」
兄はケラケラ笑いながら、空いている方の手で俺の顔を指さした。む、ムカつく!!
俺の頬をぶにっぶにっと潰しながら、兄が言う。
「『見える』か『見えない』かの違いなだけで、言葉でつけられた傷だって立派な傷だよな」
──その言葉を聞いて、俺は昔のことを思い出した。
保育園で友達と大喧嘩をして、迎えに来てくれた母にわんわん泣きながら抱き着いたとき。
母は、俺を抱き締めながら『痛いの痛いの飛んでけ』と言ったのだ。
首を傾げながら『ケガしてないよ』と言ったら、母は優しい顔で言った。
──ケガしてるよ。ここがね、痛い痛いってしくしくするから、泣いちゃうんだよ。
俺の小さくて狭い胸を、母の大きな手がポンポンと優しく叩いたことを、俺は未だに覚えている。
『痛いの治ったら、仲直りしようね』と母は言って、ニッと笑った。
言葉でつけられた傷も、見えないだけで立派な傷。
だからこそ傷つけられやすいし、傷つけやすい。目に見える怪我よりも、よっぽど繊細だ。
……そうだ。だからこそ、我慢することなんてないんだった。
次何か言われたら、やり過ごしたりせずに一言物申してやろう。
母の言葉が思い出せたことを、少しだけ兄に感謝した。
☆
エスカレートするかも、と危惧した佐藤だったが、意外にもその日以降、佐藤が俺に絡んでくることはなくなった。
それどころか、翌朝に教室ですごく雑な謝罪をもらった。
どうやら、階段下でのやり取りを見た何人かに、『さすがにあれはない』と苦言を呈されたらしい。よくぞ言ってくれた。
『もうやめてくれるならいい』とだけ返して、佐藤と俺の関わりはそれきり。
言葉によるストレスのない、気楽な毎日が戻ってきた。
が、思わぬ副産物があった。
「佐藤くんに怒ってたときの夕影先輩見た?」
「かっこよかったよね……」
「兄弟想いだよね……」
「もう普通に好き……」
佐藤の下がった株と相対して、兄の株が爆上がりしたのだ。
あーあ!!ほら!結局ちゃっかり美味しいとこ持ってくんだよあいつ!
「ひなー、英和貸して」
「だからお前平然と入ってくんな!」
「お前とかひっど。普通兄貴に向かってそんな口の利き方する?」
「柳ひど……」
「いつもみたいに『お兄』って呼んであげなよ……」
「お黙り!お黙り!!」
結局兄は、卒業するまで俺のクラスに平然と足を踏み入れ、やたらに女子達を味方につけ続けた。
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