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#34 アルバム
俺が高校三年、兄が大学二年の、夏の匂いがすっかり濃くなった頃の話。
夏休みにも関わらず受験勉強のために朝から学校へ行き、夕方になって制服のシャツをパタパタ扇ぎながら帰宅すると、一体どこから引っ張り出したのか、兄が居間で大きな本をめくっていた。
「おー、おかえり」
「ただいま。何それ、アルバム?」
「そー。俺らが小学生ん頃の。母さんが撮ってたやつだな」
「え〜懐かしい」
ソファーに駆け寄って横からアルバムを覗き込む。
母さんは事あるごとに写真を撮る人だった。『思い出は作るもの!』と、意気込んでいたのをよく覚えている。
「はは、これ覚えてるわ。お前が運動会のかけっこで転んでギャン泣きしたあとの昼休み」
兄が指さしたそこには、むすーっとした顔で目に涙を溜めながら、唐揚げを頬張っている幼き日の俺が写っていた。膨らんだ左頬に、大きな絆創膏が貼ってある。
「あ~覚えてる覚えてる、二年生のときだ。いやてかこれ!こんときのはお兄が怪我したとこ突っついたせいじゃん!」
そうだ、思い出したぞ。
クラス対抗のかけっこで靴が脱げて派手に転んでしまい、救護室で手当を受けたのだ。
そのあと昼休憩の時間に家族で集まったとき、唐突に兄が俺の頬の傷を絆創膏の上から突っついたのである。それも結構な勢いでだ。
びっくりしたのと痛かったのとで、泣きながら激怒した直後の写真だ。
「そーだそーだ。つい好奇心で」
「サイテー」
兄がページをめくる。
今度は遊園地に行ったときの写真だった。
おどろおどろしい屋敷の出口前でボロ泣きしている俺と、それを見て大笑いしている兄。
その下の写真には、同じ場所で楽しそうに笑う母と、顔面蒼白の父が写っていた。
「あ、これ俺達と母さん達で別れてお化け屋敷入ったやつだ」
「母さん達のは俺が撮った写真だな」
「このときほんとに出たよね?お化け」
「そう。そんでこの号泣」
兄がクスクス笑う。写真の兄もそうだが、なぜ人の怖がる姿を見て笑えるんだ。こっちは必死なんだぞ。
「この頃は可愛かったなぁ。ビビりで泣き虫でいっつも『お兄~お兄~』って。いや今も変わんねーじゃん」
「変わんねーことねーだろ!もっとマシになってるわ!」
「変わんねぇよ」と笑う兄に、俺は露骨に顔をしかめてみせた。
その後もあーだこーだと思い出話をしながらゆっくりページをめくっていく。
……が、しかし。
「その辺のホラー番組より心霊写真出てくんな」
そう。やけに霞みがかっていたり、一部だけ妙な色味になっていたり、写るはずのないものが写っていたりと、何やら様子のおかしな写真が多いのだ。
極めつけはこれ。
「あ、これお前右足ない」
「またぁ!?うわっ、ほんとだ!も~、やだよ~」
俺にだけやたらと異変が起きているのである。
霊媒体質ゆえ仕方がないのだろうが、如何せん気味が悪い。
「お兄はいいよね……何もなくて……」
「まーな」
恨みがましく送った視線をさらりと跳ね除けられる。
俺がこれだけ気分を悪くしているというのに、兄の写る写真には全くもって異変がないのだ。
最凶霊感恐るべし。
兄がまたページをめくる。
「あ」
「終わっちゃった」
俺が小五で兄が中一のときの写真を最後に、アルバムは終わっていた。
ちょうど今座っているこのソファで漫画を読んでいる兄と、その膝に寝転がってゲームをしている俺の写真。
……母さんが作ったアルバムだ。亡くなってしまったので、もう続きの写真はない。
母さんは、いつまで家族の写真を撮るつもりでいたのだろう。
生きていたら、俺と兄がこうして並んでアルバムをめくっている背中を撮ってくれたりしたのだろうか。
「そういやお前、ここに来る前のアルバムは?」
「あるよー。持ってこよっか。あ、ていうかお兄のちっちゃい頃のアルバムも見せてよ」
「あー」
二人で立ち上がり各々の自室へ向かう。
俺はついでに部屋着へ着替えてしまい、本棚から取り出したアルバムを片手に再び居間へ戻った。
既に戻っていた兄が自分のアルバムをパラパラ流し見ている。
「見せて見せてー」
「おー。初めて見せるよな」
「うん」
ぽす、と先ほどと同じ位置に腰掛け、何となく俺も、久しぶりに見る自分のアルバムをパラパラ捲ってみる。
アルバムはエコー写真から始まり、自分でも覚えていないような赤ん坊の頃の写真が続いた。
兄が横から覗いてくる。
「うわすげー、何か感動。俺が知らねーひながいっぱいいる」
「何か妙な気恥ずかしさがあるな……」
少し渋い顔をしながらアルバムを手渡し、自分も兄のものを受け取った。
「そういやお前、元は『佐原 陽向』か」
「あぁ、そだね。うわぁ、何か違和感」
園児の俺が『さはら ひなた』という名札をつけている写真に、二人で目を落とす。
「お前あんま顔変わってないな」
「え、そうかな」
「目丸っこいのとか、笑うとへら~って感じになんのとか全然」
言われてみると、確かにあまり変わっていないかもしれないと思った。
子供の頃とまるきり顔違う人とか、結構いるもんな。
俺の保育園時代の写真が集まったそのページに目を落としながら、俺はポツリと呟いた。
「……母さんの写真がないなぁ」
「まぁ、お前まだ園児だし代わりに撮るとか……あ、これ母さん写ってる」
「え、……ほんとだ」
それは、ひまわり畑の前で俺と母さんが手を繋いでピースしている写真だった。
記憶よりずっと若い母さんは、俺の背丈に合わせてしゃがみ込んでいる。
「ひまわり畑だ。どこだこれ、覚えてる?」
「うーん……覚えてない。でも同じ日の写真にじーちゃんとばーちゃんいるから、多分家族で行ったんだと思う。今度聞いてみよ」
「おー。……こうして見ると似てんなぁ」
「ねー」
言いながら、写真を眺める。俺は兄曰く『へら~っ』と笑っていて、母さんもそんな笑い方をしていた。
写真に写る自分達の何のしがらみもないような能天気な笑顔を見て、ほんの少しだけ泣きそうになってしまった。
兄がまたパラパラとページをめくっていく。何となく俺もそのまま、自分の幼少期を眺めていた。
柳家での写真のように、家の中での何でもない写真が多い。
ご飯を食べている写真や、テレビを見ている写真、ベランダでしゃぼん玉を飛ばしている写真や、寝顔の写真。
当たり前だが俺しか写っていないので、人に見せるのは何だか妙な気分だった。
「ん、何だこれ」
「……あ、引っ越しのときのだ」
残りのページも少なくなってきたところで、あちこちにダンボールが写り込む家の中の写真が出てきた。写真の俺はカメラに向けてピースをしていたり、気付かず服を畳んでいたり物を片付けたりしている。
その下に、ピンボケした母さんの写真があった。
「はは、これお前が撮ったやつじゃね」
「あ、覚えてる!撮らせて~って言って貸してもらったんだ」
全然ダメじゃん、と俺と兄は笑った。
母さんは、ぼやけたピントでも分かるくらい幸せそうに笑っていた。口の形がニッとなるのが母さんの笑顔の特徴だ。笑うと若く見える。
アルバムは、俺が撮った母さんの写真で終わっていた。
「そんでこっちの頭に続く訳か」
兄が傍らに置いていた柳家のアルバムを膝に乗せて開く。
一番最初の写真は、真っ白な外壁の一軒家──柳家の外観を写した写真だった。
これも覚えている。ちょうどこの写真を撮っているときに、玄関から父さんが「何してるの~」とのんびり顔を出してきたのだ。
兄が再び俺のアルバムを手に取り、一ページ目を開く。
もう一度ちゃんと見るらしい。
(……ほとんど俺しか写ってないけど、見てて楽しいのかな)
アルバムをめくる兄の横顔をちらりと盗み見る。
俺の写真に目を落とす兄の端正な横顔は存外優しげで、何だか気恥ずかしい気分になったのですぐに目を逸らした。
俺も兄のアルバムを見ようと思い、膝の上の分厚い表紙をめくる。
「……え」
開いた兄のアルバム。
ずらりと並んだ写真に映っていたのは、
(何、これ……)
──顔を黒のインクでぐちゃぐちゃに塗り潰された、長髪の女の人だった。
見開いたページの後半へ行くに連れて、お腹が大きくなっている。
妊婦さん……というか、これは、多分、
「あ、母さん」
「!」
兄が俺の手元を覗き込んでそう言った。
「最初の方は妊娠中の写真だな。多分この辺りから……」
兄がパラパラとページをめくる。
「あった。俺の写真」
「……っ」
兄と思しき赤ん坊も、それを抱く女の人も、みんなみんな顔が塗り潰されている。
誰か判別がつかないほど徹底的に黒く塗られたそのぐちゃぐちゃの筆跡に、俺は寒気がした。
「……ひな?」
何の反応も見せない俺に、兄が首を傾げる。
兄には、何も " 視 " えていないのか。
" あの " 兄に、視えていない。
その事実から本能的に感じ取ったのは、──俺 " だけ " に向けられた敵意。
が、兄も伊達に十年以上俺の兄貴をやっていない。
俺のおかしな様子から、何かを察したようだ。
「……ひな、こっち見てろ」
「あ……」
兄が俺の膝からアルバムを取り上げて、柳家のアルバムと交換する。
「 " これ " はまた今度」
そう言うと、兄は自分のアルバムを持って居間を出た。
……一体あれは、何だったのだろう。
そう考えることすら、何だか気が引けた。
★
先ほど持ち出したばかりのアルバムを、自室に持って帰る。
陽向の様子がおかしかったのは、恐らくこのアルバムに理由がある。
……が、俺には何の変哲もない自分のアルバムにしか見えなかった。
一冊分スペースが空いたままの本棚の前で、手に持っていたアルバムを開く。
久しぶりに見た母さんの──血の繋がった母さんの、若い頃の写真。
妊婦のときから写真を撮っていたらしく、エコー写真や病院での写真などを経て、赤ん坊の俺が出てくる。写る頻度的に、このアルバムの写真を撮ったのは父さんだろう。
何枚ページをめくっても、懐かしい写真としか思えない。
陽向が絶句するほどの何かは、どこにも見当たらなかった。
……だが。
先ほどの、陽向の青い顔を思い出す。
目を逸らしたくても逸らせないような何かが、確かにそこにあるようだった。
(陽向に " 視 " えて、俺に " 視 " えない?)
釈然としない気持ちを抱えながらアルバムをめくり続けていると、最後のページにひらりと一枚の写真が挟まっていた。
(……エコー写真?)
どこかから抜け落ちたか、とページを戻ったが、空いたスペースは特に見当たらない。
不思議に思いながら何となしに写真を裏返して、
──冷水を浴びせられたような感覚と、妙な納得感が降り落ちてきた。
(……あぁ、なるほど)
やはり、陽向にあのまま読ませなくて良かったかもしれない。
陽向は知らなくていいことだ。
アルバムを元の場所に戻して、居間に戻る。
妙にいい顔をしながらアルバムを眺めている陽向を横目に、ソファへ腰掛けた。
再び陽向のアルバムをめくり始める。
しかし、不意にあることに気が付いて手が止まった。
──このアルバムを見始めてからずっと、そこはかとない違和感を覚えていた。
その違和感の正体が、今、分かってしまったのだ。
心霊写真が一枚もない。
本来ならある方がおかしいのだが、あくまで『本来なら』の話。
柳家のアルバムにはいくつも心霊写真があったのだ。それなのに、陽向の幼い頃のアルバムにはただの一枚もない。
何が写っていようと、誰が撮っていようと、一切関係なく。
どれだけ探しても、全てが何の変哲もない普通の写真。
" あの " 霊媒体質の陽向が写っているというのに、だ。
違和感の正体に気付き、俺はひとつの疑問を抱いた。
『陽向の霊媒体質は、本当に生まれつきのものなのか?』
──もしそうでないのならば、今陽向が霊を引き寄せているのには、何か原因があるはずだ。
その“原因”とは、一体何なのだろうか。
……俺はもう、分かり始めている気がした。
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