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#35 カリバラ
高校三年の秋頃の話。
父が仕事中に階段から転げ落ちてしまい、右足を骨折した。
全治三か月、入院二週間。悲しみに暮れる父のもとへ、俺と兄は足繁く通った。
そしてようやく明日で退院、という日のこと。
「やっとおうち帰れるよ~」
「よかったねー」
「二人だけで上手くやれた?困ったことなかった?」
「お兄にはいつも困らされてるよ」
「俺のセリフだわ」
「何だと!」
「あはは、いつも通りやれてたみたいで安心安心」
ふと、父が壁の時計を見て「……あ、もうこんな時間」と呟く。
釣られて見遣れば、面会終了三分前だった。
「じゃあそろそろ帰るわ」
「うん。二人とも来てくれてありがとうね。寄り道せずに真っ直ぐ帰るんだよ」
「はーい。明日また来るね」
「うん。夕影は用事があるんだっけ?」
「あるけど、夜からだからひなと迎えに来る」
「そっか、ありがとう。じゃあまた明日ね。気を付けて帰ってね」
ベッドの上で手を振る父に見送られて病室を出る。
来た時よりも静かな廊下は、病棟の白い灯りが妙に無機質に感じられて少々不気味だった。
一階玄関まで来たところで、「あ!」と思い出す。
「病室に家の鍵忘れた!」
「俺持ってるし明日でよくね」
「いや、思い出しちゃったから取りに戻らないとムズムズする。すぐ帰るからちょっと待ってて」
「はいはい」
兄を玄関に残し、来た道を早歩きで戻る。父の病室は三階だ。階段でパーッと行ってしまおう。
てとてとと上を目指していると、不意に子供の泣き声がした。
……いや、赤ん坊の泣き声か。
けたたましいほどの声が遠くから反響して聞こえてくる。
産婦人科はないので、病棟に面会をしに来た子連れだろう。
階段を上がるにつれ、どんどん声が近くなる。
二階まで来たところで、赤ん坊がこの階にいると分かった。右耳をつんざくような泣き声。
何の気なしに廊下の右奥に首を回して、俺は固まった。
真っ暗だった。
そして不意に気が付く。
病棟があるのは、"三階" からだったはずだと。
こんな真っ暗なフロアで、赤ん坊連れの面会者が一体何を?
考えず、気にせず、さっさと父の病室へ戻るべきだ。嫌な予感しかしない。
そう思うのに、何故か足が勝手に動いた。自分の意志に反してどんどん廊下の奥へ進む。闇に引きずり込まれているようだ。
(嫌だ、行きたくない、止まれ、止まれ、)
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、
俺の思考をかき消すように、泣き声が大きくなっていく。
ばくばく鳴る心臓を取り残して暗闇を進み続けると──
(あ)
足元に、赤ん坊の姿が見えた。
白い布に包まれて泣く赤ん坊。
暗闇で自分の靴すら見えないのに、何故かその子だけが目に入った。
最早一切の制御も効かない身体が、勝手に膝を曲げる。
赤ん坊の前に屈み、伸ばした手が小さな身体に触れたその瞬間、
──急激に、腹の奥が熱くなった。
ぐるぐると、底から湧き上がるように熱が渦巻く。
あつい、あつい、きもちわるい、はきそう、なにこれ。
腹を抱えて蹲る。
赤ん坊の姿はいつの間にか消えていた。目の前に広がるのは、闇一色。
奇妙な感覚と込み上げてきた吐き気に必死で耐えていると、突然廊下に「ひな!」という声が響き渡った。
(おに、い……?)
駆け寄ってくる足音は、俺の背後でピタリと止まった。
後ろを向いて縋りたい気持ちでいっぱいだったのに、とてもじゃないができない。
ただ腹を抱えたまま蹲っていると、兄の呆然としたような呟きが落ちてきた。
「……カリバラ」
カリバラ……?
聞き慣れない単語を呟いた兄は、俺を立ち上がらせると、そのままどこかへ歩き出した。
「う、え゛っ」
動いた途端、激しい吐き気を催し、咄嗟に口元を抑える。
相変わらずぐるぐると渦を巻く腹の熱に加え、この強烈な吐き気。
意識を朦朧とさせていると、バタンッ!と扉が閉まる音がした。
涙でぼやけた目線の先には、かすかに洋式便座のようなものが見える。トイレの個室……?
場所を認識した途端、本格的に吐き気が込み上げてきた。まずい、吐く。
「そのまま吐いちまえ」
俺を支えるようにして後ろに立っていた兄が、囁くように言う。
促されると俺はすぐにタンクに手をつき、前屈みになって胃の中のものを吐き出した。
不意に下腹部に手が滑りこんでくる。兄の冷たい手が直接肌に触れて、びくりとした。
兄はそんな俺を無視して、そのまま腹に爪を立てた。
「ごめん、結構キツい、かも」
「は、ッうあ゛、ぁ」
兄の手が、ずぶずぶと腹の奥に入り込んでくるみたいな。下腹部を内側からまさぐられているような感覚に、俺は思わず声を上げた。
ぞくりぞくりと悪寒がする。瞼の奥がチカチカと火花を散らしてまぶしい。
気を飛ばしそうになっていると、不意に遠くから女の人の声がした。
『……や、……いや、嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌……!どうして、何で!こわい、こわい、くやしい、かなしい、くやしい、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうして
どうして!!!』
女性の叫び声はどんどん迫ってきて、最後は俺の中で強く響いた。
──俺の "中" に入ったのだ。
それに気が付いた次の瞬間、掻き乱されたように意識が滅茶苦茶になった。
鳴り響くクラクション、目の奥を刺すような光、轟音、叫び声。
『キャーッ!!』
『何!?交通事故!?』
『救急車!早く救急車呼んで!!』
何だ、知らない記憶が流れ込んでくる。何だこれ、誰の記憶、誰の意識、分からない。
俺に分かるのは、今も尚感じ続ける吐き気だけ。三半規管がイカレてしまったように、気持ち悪くてたまらない。
『お、おとーさん……おんなの人、血……いっぱい……』
『こら!見るんじゃない!』
『し、死んでるんじゃないの……!?』
『あの勢いじゃ即死でもおかしくない』
「……いや……いや……やめて……死にたくない……せめて、この子だけは……」
勝手にそう口が動いて、勝手にボロボロ涙が零れた。
きもちわるい、わけがわからない、自分が自分じゃないみたいだ。もうやだ、誰が俺のなかにいるの、出てって、出てってよぉ。
兄の手が、俺の腹の奥から "何か" を取り除くように蠢く。
それを感じた瞬間、『俺に憑依した誰か』と意識が強く混濁した。
「やめて!」
びくり、と兄の手が固まる。
ちがう、やめないで、くるしいの、はやくたすけて。おなかが熱い、ぐるぐると "何か" が暴れ回っているのが分かる。きもちわるい、俺のおなか、"何" がいるの。
俺の混乱など知らない様子で、『誰か』の記憶がどんどん流れ込んでくる。
走馬灯のように駆け巡っていくその記憶の中で、俺は驚くべきものを目にした。
『なんで、どうして……こんなのひどいよ……』
『と、とうさん。かあさん、なんで起きないの?なんでとうさん泣いてるの?ねえ、とうさん』
『夕影……』
(と、うさんと、お兄……?)
遺体のようなものが横たわる寝台に、父さんと思しき人が縋りついて泣いていた。
その横には、栗色の頭をした小さな子供。困惑した様子で目線を行ったり来たりさせている。
──あれが、父さんとお兄で間違いないなら、この遺体は……。
途端、ブツンとブラウン管テレビが点いたようなノイズが鳴り、場面が切り替わった。
──柳家だ。
見慣れた我が家のリビング。先ほどより少しだけ老けた父さんに、大きくなった兄。
そして、幼い頃の俺と、生きて笑っている母さんの姿があった。
四人の姿を視界に収めた途端、沸々と感情が湧いてくる。
「くやしい、くやしい、くやしい、くやしい、」
また勝手に口が動いた。止まらない。俺の意志じゃない。
じゃあ、誰の意志?
……俺にはもう、分かっていた。
「さみしい」
四人が食卓を囲んで笑っているのを、俺は、──兄の "おかあさん" は、部屋の隅でただ見ていた。
この記憶は、交通事故で亡くなったという兄の実母の記憶だ。
"おかあさん" を通じて感じたのは、苛烈な喪失感だった。
悔しい、虚しい、寂しい。あまりに理不尽に、全てを奪われた。私が一体何をしたの。私が、"この子" が、何をしたと言うの。
……分かっている。こんな負の念、抱いていたって仕方ない。
新しく家族に迎えられたこの二人も、この二人を迎えた私の家族も、何も、誰も悪くない。私が願っていたのは、いつだって大好きなあの人とあの子の幸せだった。
だからこそ虚しい。虚しくてたまらない。
私はこのまま、ずっとこの家に縛られるのだろうか。
"この子" を産んであげられなかった後悔と未練を、永遠に忘れられないまま。
「せめて……せめて…… "この子" だけは……」
産んであげたかった。
言葉が喉を押し上げて出てくる。うわ言のように続けながら、俺は泣きじゃくった。
"おかあさん" の涙なのか、自分の涙なのか、もう分からない。
ただ、"おかあさん" の激しい感情が、痛くて、苦しくて、たまらなかった。
「ひな、ひな、だいじょうぶか」
ふと、兄の必死な声が聞こえた。答えてあげたいけど、そんな余裕はないほどぐちゃぐちゃだ。
後ろから俺を抱えて支える兄は、必死なままで続けた。
「ごめん、痛いかも、ごめん、ごめんな」
「う゛っ!!あ゛、あ、っう」
「気持ち悪かったら、吐いていいから」
「う、げほ、っう゛ぇ、」
ぐちゅぐちゅと、腹の中を掻き回されるような感覚。
それに抵抗するように、熱いものが暴れ回って腹の内壁を何度も蹴る。
いたくてあつくてきもちわるくて、俺は何度も吐いた。もう吐くものなど何もなさそうなのに、それでも治まらなかった。
兄がぎゅうっとしがみ付くように俺を抱き締めて、苦しげに声を絞り出した。
「 "かあさん" ……っ、ひなを苦しめないでくれよ……!」
──瞬間、一際強い意識の混濁が起きた。
弾けるような感情に耐えかねて、俺はとうとう意識を飛ばしてしまった。
・
・
・
『ねーむれー……ねーむれー……母の胸ーにー……』
──どこかから子守歌が聞こえて、俺は目を覚ました。……真っ暗闇だ。ここはどこだろう。
優しい声の主を探してキョロキョロしていると、不意に光の漏れる場所を見つけた。
壁に空いた小さな穴のようなそこから、向こうを覗く。
そこには、暖かな光に照らされる長髪の女性と、白いタオルに包まれた赤ん坊がいた。
女性は、自分の腕で眠る赤ん坊を愛しげに見つめている。
綺麗な人だった。すごくすごく綺麗で、優しそうで、──どことなく、兄に似ている気がした。
幸せの象徴のようなその光景を、ずっと見ていたいと思ったのに、ろうそくの火が揺らめくみたいにみるみる景色が霞んでいく。
穴の向こうの女性が、ふとこちらを向いた。
もう輪郭くらいしか認識できないそのひとは、哀しげに一言だけ呟いた。
「ごめんね」
ふ、と辺りが暗くなる。ぱち、と瞬くと、今度は見慣れた顔が視界に入った。
「……お兄」
「……どした、怖い夢でも見た?」
ここは……兄の部屋か。いつの間にか家に帰って眠っていたようだ。
横になった兄が、俺の目のふちを指の腹で擽った。そしてフ、と力なく笑う。
「目、赤」
「……」
そういう兄は、目の下が暗かった。
ずっと起きていたのだろうか。時刻が分からないが、部屋はうっすら明るいので恐らく明け方だ。
「お兄、ずっと起きてたの?」
「……別に」
目を逸らした。どうやら俺はまた、あの兄が眠れないほどの心配をかけてしまったようだ。
かなり意識が混濁していたのであのときの記憶はほとんどないが、兄の苦しげな声だけは、耳にこびりついている。
……それから、兄の "おかあさん" の記憶も。
「……お前、しばらくここで寝ろ」
「……え」
「ここには、"かあさん" は入ってこないから」
「あ……、……うん。分かった」
──俺が引っ越してきたとき、兄は "おかあさん" のことを『害はない』と言った。
ところが、母さんが亡くなった頃から、必死に俺と "おかあさん" を引き離すようになった。
恐らく "おかあさん" は、あのまま負の念に呑み込まれて今の状態に……所謂、『悪霊』のような状態になったのだろう。
兄は、自分の母が悪霊になってしまったことを知って、俺を守ることを決意したのだ。
(きっとつらかったろうに、俺は何も分かってなかった)
俺は少しだけ身体の位置を上にずらして、兄を抱き締めた。
貧相な胸板で悪いが、それでも良ければ貸そう。
胸に抱いた兄の頭をぽんぽんと撫でつける。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから、寝ていいよ」
ぽそりと、うるさくないように囁いたら、兄は少しの間の後に恐々と目を瞑った。
幸せな夢の世界まで送り届けてあげるように、俺は頭を撫で続ける。
──思えば俺は、兄に頼ってばかりだった。
助けて、どうにかして。そればっかりで、碌な危機感もなく、ずっと兄に心配をかけてきた。
ごめんなさい。情けなくて、ごめんね。
俺、お兄には笑っていて欲しい。
(どうする。どうしたらいい。俺にできることは一体何だ)
俺にできること……違う、"おかあさん" の想いを知った俺に『しか』できないことが、絶対にあるはずだ。
考えろ。考えろ。
俺はもう、『頼るばかりの情けない弟』をやめるんだ。
……兄はどうやら、完全に寝落ちたらしい。僅かな寝息が聞こえる。
(いつも守られてばかりだった。お兄を守る人は、誰もいないのに)
お兄の心がもう不安に蝕まれなくていいように、今度は俺が、お兄を守るから。
ちょっと頼りないだろうけど、でもどうか、俺を頼って。
眩い朝日が差し込む部屋の中、俺は眠る兄をぎゅう、と抱き締めた。
☆
その後、俺はある言葉を調べた。
廊下で兄が呟いていた『カリバラ』という言葉。
正しくは、腹を借りると書いて『借り腹』。
何らかの理由で子供を産めない夫婦の体外受精卵を第三者の子宮に入れ、代理出産してもらうことらしい。方法は他にもあるらしいが……。
"おかあさん" がしきりに口にしていた "この子" 。
そして、俺の腹の中で暴れ回っていた熱いもの。
その正体は恐らく、 "おかあさん" が交通事故で亡くなったときに一緒に逝ってしまった胎児だ。
生きていれば、兄の本当のきょうだいになっていた子。
"おかあさん" の『産んであげたかった』という未練が、"この子" を俺に宿したのだ。
兄はきっと、母と共に逝ってしまったきょうだいがいたことを知っていたのだと思う。
だからあのとき、『借り腹』と言ったのだ。
結局は俺も、産んであげられなかったが。
それでもきっと俺にできることはあるはずだから。
考えよう。それが、今の俺にできることだ。
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