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#36 お守り

 思えば、兄は昔から俺が思う以上に俺の心配ばかりしてきたのではないだろうか。 ☆  高校一年の晩夏。  夏休みも終わり、受験生である三年生を気遣うような空気が校内に流れ始めた頃。  父から多めのおつかいを頼まれたその日、俺は渋々ながら兄と共に下校することにした。  ……のだが、その前に、兄が『少し勉強をしてから帰りたい』と言うので、放課後の図書室へ寄った。 (宿題終わっちゃったー)  静かな図書室は勉強も捗り、家でやるより随分早く終わってしまった。これはみんな残って勉強する訳だ。  ちらりと室内を見回す。兄以外にも、ちらほらと三年生らしき人の姿があった。 (どうしようかなー、何か本でも読もうかなー。でも活字あんま興味ないしなー)  暇を持て余してしまった俺は、そのまま机に突っ伏した。  図書室ではスマホの使用が禁止されているので、本当にやることがない。  ちろ、と右を見る。  所謂『赤本』と、英字の書き連ねられたノートが広がっている。  ちろり、とそのまま視線を上げる。  真剣な兄の顔がある。  そういえば兄は、どこの大学に行くのだろう。赤本を持っているということは、もう第一志望を決めているのだろうか。  何となく、無駄に端正な兄の顔を眺めながらぼんやり考えていると、不意に目が合った。 「何」  ぽそり、と小さな声が落とされる。手を止めてしまった。そんなつもりはなかったのだが。 「いや、どこの大学行くのかなって」 「ああ、言ってなかったっけ。逢茜(おうせん)」 「え、近所の?」 「そ」  逢茜大学と言えば、隣駅にある国公立の大学だ。電車に乗れば十分程度で行けてしまう。  確かに、偏差値的には兄に合っていると思うが……。 「じゃあ一人暮らししないの?」 「しない。めんどくせーじゃん」 「高校も『通学めんどくさくないとこ』で決めたよな……」  どこまでも面倒くさがりか。  兄らしいと少し笑ってから、ふと思い至る。 (……家出たら、俺のこと心配だから?)  霊媒体質で悩みの尽きない弟を一人残してはいけないから、なんて思って大学を決めたとしたら。 (……いやいやいや、ないないない。流石に)  もしそうならば、そこまで俺に縛られて生きる必要はないと言いたい。流石の兄でもそれはないと思うが。  兄がいくら俺を大事にしているからって、人生の大事な選択をするというときに俺のことまで考えたりはしないだろう。  俺のそんな思考は、兄の「あ、そうだ」という声に一時停止する。 「俺卒業したら、いつもの『お守り』な」 「あぁ、うん」  会話に一区切りついて兄は再び勉強に戻り、俺は結局そのままずっとぼーっとしていた。 ☆  ワイシャツを着て、紺のネクタイを締めて、キャメルのカーディガンを羽織る。  全くサイズの合っていないぶかぶかの袖を鼻に近付けて、すん、と嗅いだ。  無臭。もう兄の匂いはしない。  これが、兄の言っていた『お守り』。  兄が使ったカーディガンやジャージ、鞄なんかを全てお下がりにして、ほんの少しでも俺の気配を兄の気配で上書きするという寸法だ。  兄が卒業すると、学校で何かあったときに駆けつけてくれる人がいなくなる。そんな不安のある状況を少しでもマシにするために、兄が考えたのだ。  騙されてくれる霊もそれなりにいるので、中学の頃から恒例だった。  しかし、鏡を見て思う。  つくづく自分には、この色が似合わない。 ・ ・ ・ 「この時代はひどい飢饉が続いてだなー、……」  先日授業内で行った日本史の小テストに関する解説を耳に入れながら、ぼんやり考える。  先日の件を経て分かった、"おかあさん" のことについて。  お腹の中にいた赤ちゃんと共に、交通事故で亡くなってしまったこと。  その未練を今でもずっと抱えていること。  俺と母さんが柳家の一員になってから、酷くやるせない想いをしてきたこと。  今の "おかあさん" が、それらの負の念に呑み込まれてしまった悪霊であること。  そして恐らく、望んで悪霊になった訳ではないこと。  ……病院のトイレで意識が混ざり合っていたとき、彼女はこんなことを言っていた。 『分かっている。こんな負の念、抱いていたって仕方ない』  あの時の彼女には間違いなく、理性があった。それが悪霊と化した今、どうなっているのかは分からないが。  それでも。  夢で見た女性の姿を思い出す。  あれは紛れもなく、"おかあさん" だった。彼女は最後に、はっきりと俺を見て言ったのだ。  『ごめんね』と。 (……何で、謝ったんだろう)  借り腹についてのことだろうか。  だとすれば、あの『ごめんね』は確実に、今の "おかあさん" が俺に向けたものだ。 (──それなら、彼女のどこかには今でも理性が残っているはず)  そしてその理性で、彼女はきっと未だに悩み苦しんでいるだろう。  悪霊になってしまったことや、成仏できないことを。  ……全て、妄想とも言えるような憶測だが。 (……でも……できることなら、成仏させてあげたい)  "おかあさん" が今、あの家に縛られて苦しいのなら、自由にしてあげたい。  それはきっと、巡り巡って兄のためにもなる。 (でもどうすれば……)  兄が俺を "おかあさん" から遠ざけていた理由は、今なら分かる。  恐らく、俺が誰彼構わず引き寄せてしまう霊媒体質だからだ。  悪霊と化した "おかあさん" にうっかり手を出されないように、と。  だから、その兄の想いを裏切ることはできない。  俺から "おかあさん" にコンタクトを取るのは、先日のようなことでもなければほとんど不可能だ。  いつの間にか深く考え込んでしまっていたらしい。日本史の男性教師が徐に「柳ー」と俺を当てた。 「ここの答えは」 「へ、あ、え、……すみません、分かりません」 「ここは『打ち壊し』なー。授業で何度も言ったぞー」  ダメだダメだ。流石に授業はちゃんと聞かないとな……受験生なんだから。  考えるのは後にして、真面目に解説を聞く。 「飢饉と言えば、間引きな。この時代は特になー。水子供養の発祥もこの時代と言われていてだなー」  水子。  水子って、何だっけ。聞いたことあるような……。  あ。流産しちゃったりした赤ちゃんのことだっけ。  水子地蔵や水子供養は、怖い話の題材にされることも少なくないので、何となく耳に残っていた。  ……何でビビりのくせにそんなこと知ってるんだって、お兄が無理やり読み聞かせてくるからな! (……待てよ。水子供養?)  ──そういえば、"おかあさん" のお腹の中にいた子は、ちゃんと供養されたのだろうか?お墓は?お寺は?  "おかあさん" は、お腹の子を産んであげられなかったことを酷く悔いていた。  それは間違いなく、今の彼女の未練。 (少しでも未練を断ち切る方法があるなら、試してみる価値はある)  父さんなら間違いなく、水子の供養について知っているはずだ。  ……つらいことを思い出させてしまうことになるけど、それでも、何かしら望みがあるかもしれない。 (うん。聞いてみよう)  よし、と意気込んで、どんな風に父さんに切り出そうか考えていると、また「柳ー」と当てられてしまった。 ★  目を覚ますともう陽向の姿はなく、何となく現在時刻を察した。  枕元のスマホを点けてみれば、案の定昼時。  今日が休講ラッシュの全休で良かった。もうこのまま一日家出ねーぞ。何なら二度寝してやる。  壁と俺との間、少し空いたスペースに、短い黒髪が一本落ちている。ひなちゃんの抜け毛。  ひょいと摘み上げて、数秒。 (……あー、そうだ)  ふとそれを思いついて、俺は緩慢に起き上がった。  前言撤回。さっさと支度して家を出る。 (神仏具店にでも行きゃあるかな)  摘まんだ陽向の髪の毛をゴミ箱に放って、俺は大きく首を回した。 ・ ・ ・  俺は間違いなく油断していた。  いつ "かあさん" の手が陽向に伸びてもおかしくないはずだったのに、いつの間にか母さんが死んだときのあの脅威を忘れてしまっていたのだ。  何て馬鹿なんだ。  俺はあの日、自分を責めて、悔いて悔いて、絶対に陽向だけは守り抜くと心に刻み込んだのに。  ──先日、病院でひとり蹲る陽向を見つけるその直前に、俺は『黒い影』を見た。  母さんが死んだときに見たのと全く同じそれを、だ。  正面玄関に佇むそいつに気が付いた瞬間、俺は全身の血の気が引くのを感じた。突き動かされるように駆け出して陽向のもとへ急いだら、……あとは、あの通り。  あのとき見た、顔も姿も分からない焼け焦げたような黒影。  その正体は、『死神』だ。  死期の近い人間のもとに現れる脅威。  俺は確信している。  あの影は、"かあさん" だ。  母さんを死に追いやったのは、他でもない、俺の実母なのだ。  母さんが死ぬ前、俺は実母の影をどうすることもできなかった。  何度も引き剥がそうとしたが、叶わなかった。  ……当たり前だ。ちょっと霊感が強いだけのガキ如きが、人を死に追いやる力を持ったそれに太刀打ちできる訳もない。  それに、俺は "かあさん" に手出しできない。  どうしてか昔から、何をしても "かあさん" だけは祓えないのだ。  やはり、血の繋がりがある身内だからだろうか。  実母を祓うというのは、すなわち『親殺し』も同然だ。  俺は本能的にそれを忌避しているのかもしれない。  ……それでも、母さんに近づく黒い影に気付いていたのは俺だけだった。  影の正体に気付いていたのは俺だけだった。  俺だけが、母さんを助けられたはずだったのに。  俺が無力なガキだったせいで、母さんは死んだ。  俺は一生、その罪と後悔を忘れられないだろう。  もう無力感に苛まれるのは沢山だと、心の底から思った。  ──だから俺は、力をつけた。  俺を『霊感大魔神』などと称する陽向は知らないことだが、俺の今の霊感は、全部が全部持って生まれたものじゃない。  もう二度とあんな想いをしなくていいように、陽向を全身全霊で守ってやれるように、研鑽を積んだ結果が今の俺だ。 (……二度も目の前で奪われてたまるか)  陽向のためなら、何だってやってやる。  たとえそれが、自分の命を削る行為だったとしてもだ。 「い……ッ、て」  じわり、と赤い鮮血が皮膚に滲む。  俺は血の膨らんだ左手の親指を、人の形をかたどった半紙に押し付けた。 (……こんなもんで足りるか?もっと血出さねぇとだめかな)  ずきずき痛む指の先を擦り付けながら考える。 (……いや、ひとまずこれで様子見だな)  指を紙から離す。鮮やかな赤の滲んだ半紙を摘まみ上げて、今しがた買ってきた白いお守り袋に入れる。 (あとは……)  ハサミを手に取り、自分の横髪を摘まむ。ジョキン、と毛先を一センチ切って、それも封入した。 (中ぜってぇ開けんなよ、って釘刺しとかねーと)  うっかり中見て血染めの半紙と髪の毛なんか出てきたら悲鳴あげるぞ、あいつ。  袋の口を閉じて、完成。  俺作、渾身の陽向専用お守り。  ……お守りなんて体よく聞こえる言い方だが、実際は形代(かたしろ)だ。  ざっくり言うと、俺の分身。  通常、形代には氏名を書き込むものだが、血や髪の毛といった生命の象徴を用いることで、より俺に近いものにした。 (普通のお守り持たせてたときもあったけど、全然効果なかったんだよな)  その点これならば、何かあったときに確実に陽向を守る盾となる。俺の生命力をそのまま切って渡しているようなものだからな。  確かな効力の代わりに、危険度も跳ね上がるが。  要は『身代わり』な訳だ。  いくら俺でも生命力は有限だし、万が一の場合死ぬ可能性もある。  消耗も激しけりゃ、燃費も悪い。  言ってしまえば、禁じ手の手段だ。  だからあまり悠長にはしていられない。  俺のやることはもう決まっている。  ──親子水入らず、霊感勝負と行こうじゃないか。 ☆ 「これ、持ってろ」 「ほへ」  間抜けた顔で間抜けた返事をした陽向の手に、白いお守りを握らせる。  学校帰りそのままの格好をした陽向は、小首を傾げながらそれに目を落として、再び俺の顔を見上げた。 「お守り?」 「そ」 「でも前に全然ダメだね~ってなって頼らないことにしたじゃん」 「それはこのお兄様が作った最強のお守りだから別」 「え!?マジで!?そりゃご利益ありそうだわ……」  納得した陽向は、「ありがと」と言って大人しく受け取る。 「でも確かにその手があったかって感じだな……もっと早くにこうしてたら、お兄に迷惑かけまくらずに済んだのかな」  死ぬわ。俺が。  とは言えないので、適当なことを言ってはぐらかす。 「こういうのは使えば使うほど効果なくなってくんだよ。エナドリも飲めば飲むほど効かなくなるだろ」 「む……確かに……」  こういうとき、弟が素直な阿呆で良かったと思う。  ……つーか、こいつ。  迷惑とかほざいたか?誰が?  心配はしても迷惑なんて一度もしたことない。俺にとって、陽向を助けるのは当然のことだから。  俺が迷惑しながら助けてやってると思ってんのか、こいつは。  多少苛ついたが、他意がないことは分かっている。  家族の欲目と思われるかもしれないが、陽向は随分清い人間に育った。  自分のせいで誰かが損を被るのは嫌なのだろう。ただそれだけだ。 「中は絶対見んなよ」 「え~、そう言われると見たくなっちゃうよ~」 「見たら後悔するぞ」 「え、何それ怖……見ないどこ……」  ぶかぶかのカーディガンのポケットにお守りを仕舞って、陽向が立ち上がる。 「ひな」 「うん?」 「何があっても、自分の身を優先しろよ」 「……?」 「返事」 「わ、わかった」  戸惑いながらも頷いて、陽向は居間を出た。  分からなくていい。  お前が呑気に過ごしている内に、全部俺が、方を付けるから。  だからお前は、ずっとそこで笑ってて。

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