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#37 墓(上)

 "かあさん" の墓参りには、毎年陽向を連れて行かない。いや、連れて行けない。  何故か必ず、熱を出して体調を崩すからだ。  まるで "かあさん" が『来るな』と言っているように。  母さんも陽向の看病のために家に残っていたから、結局最期まで母の墓参りに訪れることはなかった。  陽向を母の墓に連れて行くつもりは、今後もない。  行けば最後、陽向は恐らくあちら側に引きずり込まれるだろう。 ☆  よく晴れた平日の午後。俺は、母の墓がある霊園に来ていた。  街中よりも多く漂う霊の横を通り抜け、『南無阿弥陀仏』と彫られた灰色の墓前まで来る。  母の姿はない。  だが、『呼べば』来るはずだ。  俺は上着のポケットに入れていたフォールディングナイフで、自分の掌を切りつけた。  鋭く走る痛みに眉を顰めながら、傷つけた場所を圧迫して血を滲ませる。 (いッ、……てぇなクソ)  文化系だから痛みには弱えんだよ。  生きていた頃の母ならば、『我が子が怪我をした』と救急箱片手に大慌てで飛んで来ただろう。  でも今の "かあさん" は…… 《……》  ただ、人間の『生』の気配に引き寄せられるだけの悪霊だ。  目の前に現れた長髪の女の姿に、俺は口角を上げた。こめかみを伝う冷汗は、知らない振りをして。  瞬間、俺の意識は母の墓前から天高く放り上げられるように、どこかへ飛ばされた。 ☆ 「っ!!」  ハッと気が付けば、そこは駅のホームだった。  見知らぬ駅だ。日入じゃない。  スーツを着た社会人や、見慣れない制服を纏った学生たちが、眩しい朝空の下でガヤガヤとひしめき合っている。  どうやら俺は壁に背をつけて座り込んでいたようだ。『何でこんなところに』と思いながら顔を上げると、 「……大丈夫ですか?」  陽向が、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。 「……ひな」 「え……何で俺の名前、」 「佐原~、電車来るぞ~……知り合い?」 「あ、えっと……」  知らない男子高校生が言ったそれに、引っかかる。  ──『佐原』?  佐原は、母さんの旧姓……つまり、柳家に来る前の陽向の名字だ。  ……それにこの制服、暮方のじゃない。恐らく、近所のどの高校でもない。  声をかけてきた男子と揃いの、見知らぬブレザーを着ている陽向を見て戸惑う。  佐原と呼ばれた陽向は、友人らしきそいつに控えめな笑みを見せて言った。 「ううん、知らない人」  俺が目を見開くのと同時に、電車が通過する旨のアナウンスがホームに響く。  行くぞー、と声をかけられた陽向は、こちらをちらりと気遣わしげに見遣りながら去って行く。 「すっげーイケメンだな、あのお兄さん」 「ね」 「二日酔いかな」 「かも」  友人の話に随分大人しく相槌を打つ陽向の背を、俺は呆然と見つめるしかなかった。  どういうことだ。  ここはどこなんだ。  何で、陽向は。  遠くから電車の音が聞こえてくる。この駅には止まらない電車らしく、スピードを落とすことなく走ってくる。  風を切る電車がホームに滑り込んできたその瞬間、  ──視界の端で、誰かが宙に弾かれた。  あっという間の出来事だった。  俺が聞いたのが轟音だったのか、鈍音だったのかも分からないほど。  ピチャッ、と頬に何かが飛んできた。  無意識のまま、緩慢ながらも半ば反射のように、右手がそれを確かめる。  ぬるりと指に付着したのは、鮮血だった。  そこでやっと、呆然としていた俺の耳に周囲の音が戻ってくる。 「きゃああああ!!!」 「ひ、ひとが、ひとが、」 「いやああああ!!なにこれ!腕!?」  地獄絵図のような光景の端で、先ほど見た知らない男子生徒が錯乱しているのが見えた。 「佐原!佐原ぁ!!」  ひなが、何だって?  ふらりと勝手に身体が動く。這いずるように立ち上がって、阿鼻叫喚の人混みの中を歩き出した。  そこら中に血や肉片が飛び散っている。  違う。ひなのじゃない。違うだろ、ひなの血じゃ、 「……」  佐原、佐原、と狂ったように何度も叫ぶ男子の横には、当の陽向がいなかった。  代わりにいたのは、男子を宥める大人達。  そして、傍らに落ちるよく見知ったスマートフォンだった。画面は割れて真っ暗になっている。  ひな。ちがうよな。どっかに、いるんだろ。  ──何を白々しい。  頭の片隅で俺が言う。  見ただろ。  ホームに立っていた陽向が押し飛ばされて電車に轢かれるところを。  小さな身体が先頭車両に当たって赤く千切れるところを、この目で見ただろ。  地面を見下ろして立ち尽くす俺の視界が、不意に翳った。  ぱき、とスマホが誰かの足に踏まれる。  虚ろな目を持ち上げると、そこには、 「…… "かあさん"」  長い前髪の下で笑む母がいた。  …… "かあさん" が押したのも、俺見たよ。  笑ったまま口を閉ざす母の声が、脳内で響く。 《はやく、こうしてやりたい》  ──俺の意識は、その声と共にまた暗転した。 ・ ・ ・  気が付けば、今度は住宅街にいた。  また見覚えのない場所。そして少し先には、 「……ひな」  先ほどと同じ、見知らぬ制服を纏った陽向がいた。  歩道の脇を俯きがちに一人で歩く陽向の背を見ながら、混乱する頭を必死で動かす。  何となく分かってきた。  まず初めに、これは現実じゃない。冷静に考えれば当たり前だが、肌で感じる空気や街の香りなどがあまりにもリアルで、油断すると混乱しそうになる。  この幻影の舞台は、恐らく『俺と陽向が家族にならなかった世界』。先ほどの陽向を思い返しても明白だ。  そして、こんな世界を見せる母の意図は── 「きゃああ!!」  思考を遮るように、知らない女の悲鳴が響き渡る。  咄嗟に周囲を見渡すと、数メートル先の曲がり角から包丁を持った男が飛び出してきた。 「っひな!!」  急いで陽向のもとへ駆けだす。  幻だと分かっていても、目の前の弟を見捨てることなど出来ない。  俺は陽向の背中に必死で手を伸ばした。  ──だが、あと数センチというところで視界に赤が飛び散る。  男は執拗に、何度も何度も陽向へ刃物を下ろした。  まるで迷いがないその狂気に呆然とする。目の前で崩れ落ちた弟の身体は、もう既に事切れていた。  尚も陽向を刺し続ける男の包丁に、震える手を伸ばす。  もうやめろよ。やめてくれよ。  穢さないでくれよ。  しかしその手は、後ろから伸びてきた青白い手に止められた。  また、まただ。  振り向かずとも分かる。 「"かあさん"、……性格悪すぎ」  見えないのに、母が笑ったような気がした。 ・ ・ ・  ……暖かい水の中にいるような感覚がした。  何も知覚できない。ただ、そこが暗闇であることは分かった。  『胎内』。  何故か、その二文字が頭に浮かんだ。  果てもない暗闇は、俺に無力感を植え付けるには充分だった。  ──何度も、俺の目の前で陽向が殺された。  場所や時間、手法を変えて何度も、何度も。  あと少しで助けられる、というところで、必ず陽向は死ぬ。俺が何をしても、全て無駄だった。  ……まるで "かあさん" が、陽向を殺して俺の心を折っているように。  舞台は全て、『俺と陽向が家族にならなかった世界』。  母の思惑は恐らく、『何をしようともこいつは死ぬ』と俺に刻み込むことだろう。  母がそうまでして陽向の命を狙う理由は、何なんだ。  ……やはり、他所から来た人間に大切な場所を奪われた恨みなのか。  聞きたくても、もう叶わない。  母は最早、意志の疎通すら不可能なほど変わり果ててしまった。  俺が悪かったんだ。  俺だけが、かあさんのことを止められたのに。  陽向と母さんが柳家に来たとき、母は悪霊ではなかった。それだけは確かだ。  だから、俺が止めるべきだったのに。  かあさんが悪霊になるのを俺が止めていれば、母さんは死ななかったのに。  陽向は、苦しまなかったのに。   "かあさん" は、こんなことしないで済んだのに。  ……もうどうしていいか分からない。 (敵う気が、しない)  そんな弱音が胸の奥に吐き出された瞬間、 《可哀相な夕ちゃん》  ──母の声がした。暗闇に木霊するように、反響を伴った声。  ハッとして上体を起こす。目の前に、 "かあさん" がいた。  ……もう記憶にはほとんどない、生前の姿をして。  白い清潔感のあるワンピースを着た母の、俺によく似たその顔は、心底から同情しているようだった。 《ごめんね。ごめんなさい》  哀しそうに言って母は俯く。 「かあさん……?」 《ママもね、夕ちゃんに辛い想いさせたくないの》  懐かしいその声からは、理性が感じられる。母が悪霊になってからというもの、対話は愚か声を聞くことすら叶わなかった。  ……今なら、言葉を交わせるのだろうか? 「……かあさん、あのさ」 《でもね、止められないの》 「え?」 《自分で自分を止められないの。だって、だってね、》  徐々に口早になっていく母が、震えながら頭を抱えてガクンと身を折った。  ──そして、 《だって憎いんだもの!!憎くて恨めしくて仕方ないの!!あの子とあの人!》  顔を上げてはっきりそう叫んだ母は、見慣れてしまった "かあさん" だった。  死んだあの日に着ていた白いワンピースは血と砂埃で汚れて、自慢だった黒の長髪は艶を失い、乱れて顔を覆う。 「かあさ、」 《あの場所は、あの家は、私のものだったのに!!夕ちゃんの隣には、"この子" がいるはずだったのに!!奪われた!理不尽に!!どうして!!私が、私達が、何をしたって言うのよ!》 「かあさん、かあさん、」 《夕ちゃんだって、……ずっと面倒かけられて嫌だったでしょう?あの子、厄介者だもんね》  激昂していた "かあさん" は、不意に落ち着いた態度で同情するように言った。共感を示して、俺の心に付け入ろうとしているのか。 《あの子のせいで夕ちゃんはこんなに必死に心を割いて、あの子のせいでいつも気が抜けなくて、あの子のせいで自由に大学も選べなくて……全部全部『あの子のせい』じゃない。夕ちゃんはもっと、自分の好きなように生きるべきなのに……あの子はいっつもへらへら笑ってるだけで、夕ちゃんの苦労なんて知りもしない。本当、最悪な弟》 「……」 《夕ちゃん、もう無理しなくていいのよ。あと少しで、重荷もなくなるからね。ママが、あんな子消してあげるから。あの子のお母さんみたいに》 「…………」  母が、座り込む俺の目の前に手を差し伸べる。 《ね、だから……》  もう、諦めよう?  ──俺は、"かあさん" の手を振り払った。 「"かあさん" 、勘違いしてるよ」 《……何を》 「俺は一度も、『あいつのせいで』なんて思ったことない」  俺を諦めさせたいなら、もっと違う方法を取るべきだったな。"かあさん"。 「いっつもへらへら笑ってるだけ、って言った?それでいいんだよ。俺はあの間抜けな笑顔が見たくて必死になってるだけだから」 《……》 「初めて会ったとき、『こんな馬鹿みたいに素直な奴いんのか』と思った。俺はあんなに素直な性格じゃないから、新鮮だった」  あの頃のあいつはまだ人見知りで全然懐いてこなかったけど、それも面白くて。  だんだん俺に心を開いていくのが手に取るように分かって、初めて誰かに対して『可愛い』なんて思った。  世話してやりたい、笑わせたい。  ずっと一人っ子でマイペースに生きていた俺は、そんな風に人を想ったことなんて一度もなかった。  狭い世界で前だけ見ていた俺は、自分とは全くタイプの違うあいつに会ってから横や後ろを見るようになって、俺の生きる世界が存外広いことを知ったのだ。  あいつがいなかったら、今の俺はいない。 「何もかも俺とは正反対で、弱くてビビリで世話の焼ける奴だけど、最悪な弟だなんて思ったこともない」  俺は立ち上がり、表情のない "かあさん" の顔を見つめ返した。  ──かあさんって、こんな小さかったんだな。いつの間にか身長を追い越していたことさえ気付かなかった。  俺は母の目を見て言った。 「愛してるから、重荷じゃない」  母は数秒間押し黙って、それからクスクス笑い出した。 《……そっか。ふふ、ふふふ。間違えちゃったね、ママ》 「……」 《そっかぁ。愛してるんだぁ。パパと同じように》 「……そうだよ」 《……ママと、同じように?》 「そうだよ」  "かあさん" は、少しだけ満足そうに微笑んでから言った。 《じゃあ、殺そう》 「!」 《夕ちゃんの本当の家族は、パパとママと "この子" だもの》 「陽向と母さんだって俺の家族だ」 《そんなに弟のこと大事にしてくれるなら、きっと "この子" も幸せになれるね》 「……何言ってんだよ」 《ん?何って、》   "かあさん" はニヤリと口を歪めた。 《夕ちゃんを殺すのよ》 「……は?」 《あの子を殺すのはやめた。その代わり夕ちゃんを殺したら、夕ちゃんはあの子のことが心配で成仏できないでしょう?そしたら、またママと一緒にいられるよね。パパは霊感がないから簡単には手を出せないのが残念だけど……でも、あの子のお母さんも霊感はなかったから。頑張ったら殺せると思うの。夕ちゃんはすごく霊感が強いから、力を合わせたらきっとすぐにパパも連れて来られるね。そしたら家族3人揃って、 "この子" も入れて4人で。また一緒に暮らせるね》 「マジで、何言ってんの……?」 《あぁ、夕ちゃん。でもね、残念なお知らせがあるの。実はね、ママ "この子" がどこにいるのか分からないのよ。探してあげたいんだけど、ママはお家とここと……あと、ママが死んだあの病院にしか行けないから……。夕ちゃんなら霊感が強いから、居場所に縛られたりしないかな?お化けになったら、"この子" を探すの手伝ってね》 「……」  ダメだ。言葉を交わせるようになっても、意志の疎通ができないことには変わりないらしい。  ……陽向を殺すのをやめた、と聞いたとき、少しばかりホッとしてしまったことだけは墓場まで持って行こう。  ──もちろん、 "かあさん" に殺される気は更々ない。 「俺のこと、そんな簡単に殺せると思ってんの?」 《ううん。夕ちゃんはとっても霊感が強いから、流石のママでも簡単にはいかないと思う。だから、もう少し待っててね》  そう言うと、 "かあさん" は長い前髪の下で笑った。 《すぐに迎えに行くから》  ──次の瞬間、俺の意識は霊園に戻ってきた。 「!」  辺りを見回す。もう "かあさん" はどこにもいなかった。  それを確認すると、徐々に自分の呼吸の荒さに気が付いていく。早鐘を打ち続ける心臓とこめかみを伝う冷汗を、俺は黙って受け入れるしかなかった。  ふと、自分が母の墓前に跪いていたことに気付く。屈服するようなその姿勢に薄気味悪くなり、俺はすぐに立ち上がった。  瞬間、ふらりと目眩がする。  ……切りつけた手から血が垂れ流れていた。そんなに深く切ったつもりはないのだが、交霊の代償だろうか。 (……貧血とか、初めてだな)  身体が重くて仕方ない。頭の中が無重力空間になっているような妙な心地だ。  ……貧血どころではない気がする。精神力や生命力も大幅に削れたようだ。  とにかく、家に帰りたい。  この時間ならまだ陽向は学校だろうか。  顔が見たい。声を聞くだけでもいい。  ……早く会いたい。  俺は唯一残った気力を振り絞って、霊園を抜け出すべく足を踏み出した。

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