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#37 墓(下)
★
「ねえタケ、水子供養って知ってる?」
六時間目の授業が始まる前の休み時間。教室移動のため廊下を歩いていた際、ふと思い立ってタケに話を振った。
「水子供養?水子ってあれ?お腹の中で死んじゃった赤ちゃんのこと?」
「そうそう」
「地蔵のイメージあるなー。水子地蔵っていうの?何か怖い話とかでよく出てくるよな」
「やっぱそのイメージだよね」
「んで、その水子供養が何だって?」
「なんかさ、この辺でやってるお寺とかないのかなってふと思って」
急にそんなことが気になるのもおかしな話だと思うが、真剣な俺を見てタケも茶化したりせずに「うーん」と唸る。
「そういや、あんま聞いたことないよな。馴染みもない」
「だよね~」
「俺の母ちゃんとかそもそも墓作んの嫌いなんだよね」
「え、何で?」
「金かかるから」
あはは、と軽やかに笑ったタケに、「あ~……」とタケのお母さんを重ねる。親子揃ってからりとしているのだ。
「そういう風に、何かしら事情があって水子供養しない人もいそうだよな」
「んん……確かになぁ」
よく考えてみれば、墓参りで件の水子のもとへ訪れたことはない。ひょっとしたら俺に気を遣って兄と父だけでお参りをしに行っているのかもしれないが、そうでないのなら、そもそも水子供養をしていないということになる。
やはり詳しいことは直接尋ねた方が早そうだ。
帰ったら早速兄に……と、思ったそのとき。
ブーッ、ブーッ。
カーディガンのポケットに入れていたスマホが振動した。
何だろう、と取り出すと、一緒に兄のお守りも着いてくる。そういえば同じ方に入れていたか、とポケットの中へ押し戻そうとすると、
「……え」
白いお守りの端に、血が滲んでいた。ぬるりとした感触が鮮血であることを知らせる。
横から覗き込んできたタケも「げ!何それ!」と声を上げた。困惑しながらも震え続けるスマホに目を移すと、発信元は兄。
電話なんて珍しい。それに、貰ったお守りがこんなことになっているタイミングで。
何となく感じる嫌な予感に眉を顰め、俺は電話を取った。
「……もしもし?」
『ひな?』
「うん。なに?」
『……いや、別に』
何故か安心したような声で兄はそう返してきた。
何なんだ?わざわざ電話までしてきて『別に』とは。
「何だよ。何かあった?」
『いや、何も』
「何もないのに何で電話してくんだよ」
『はは。それな』
「いや『それな』って……」
……何だか様子がおかしい。
短い受け答えだが、いつもより覇気がないというか……風邪でも引いたみたいな。こいつが風邪引いたことなんかほっとんどないけど。
それに、やっぱりあのお守りのことが気になる。
「じゃあ」と電話を切ろうとする兄を「待って!」と止める。
「お兄、具合悪いの?」
『別に』
「でも何か変だよ」
『変じゃねぇよ』
「変だよ。……ねえ、今どこ?」
『……駅だけど』
「分かった。そこにいてね」
『え。ちょ、』
兄の戸惑う声を聞きながら、俺は電話を切った。
「タケ。先生に早退したって言っといて」
「え」
「俺ちょっと行ってくる」
「どこに」
「お兄迎えに」
「マジか」
何で?という顔をしながらも、タケが「分かった。言っとく」と言う。
何か事情ありげな雰囲気が伝わったらしい。こういうときに食い下がらず察してくれるところも、たくさんあるタケの好きなところの一つだ。
「ありがと!ノートも頼んだ」
「字めちゃくちゃきたねーけどいい?」というタケの声に「知ってる!」と答えながら、俺は小走りで教室へ引き返した。
兄は恐らく何かを隠している。
そうじゃなきゃ、今の電話は不自然だ。
暇でふざけて電話したのなら一切冗談を言わないのはおかしいし、何か言いたいことがあって電話してきた訳でもなさそうだった。
体調が芳しくないらしいことだって、お見通しだ。
待ってろよ嘘つき。すぐ駆けつけてやる。
★
霊園を抜け出し何とか日入駅まで戻ってきたが、体力の限界だった。
目眩がひどい。気が遠くなりそうだ。
何とか足を引きずるようにして、人気のない日陰まで来る。壁沿いに腰を落とすと、脱力感に大きな溜息が出た。
垂れ流れていた血は、霊園を出ると何故か自然に止まった。今はただズキズキと痛むだけだ。
── "かあさん" は、『陽向を殺すのはやめた』と言ったが、本当かは分からない。
そう言って俺が油断したところで陽向を狙うつもりかもしれないし、そうでなくてもあの霊媒体質だ。何が起こるか分からない。
常に目を光らせておかなければいけないことに、変わりはない。
とにかく、"かあさん" をどうにかすることを考えなければ。
どうする。どうすればいい。
今日みたいに正面から当たっても、また砕けるだけだ。
考えろ。時間はもうないぞ。
──自分のスニーカーを見つめてひたすら思考を巡らせていると、不意に頭上から声がした。
「大丈夫?」
見上げれば、陽向が俺の顔を覗き込んでいた。
自分の目が、信じられないものでも見たように開いていくのが分かる。
「……何でいんだよ、授業中だろ」
「お兄だったら、授業中でも駆けつけるでしょ」
当たり前のように言ってのける陽向に呆れ半分、……正直、嬉しさ半分。
「それよりほんとに大丈夫?だいぶ具合悪そうだね」
陽向は心配そうな顔をしていた。
その顔が、 "かあさん" の幻影で電車に轢かれて死んだ陽向と重なる。
「……ひな、笑って」
思わず、そんな言葉が口をついて出てきた。
「へ」と目を丸くする陽向に、もう一度「笑って」と呟く。
「きゅ、急な無茶振り……んん……こ、こんなん?へへ」
困ったような顔をしながらも、にへらといつもの間抜けな笑顔を作った陽向が、どうしてかどうしようもなく愛おしくて。
気が付けば俺は、衝動的に陽向を抱き寄せていた。
「おわ!ちょ、お、お兄!」
立っていた陽向は、引っ張られて俺の足の間に膝をつく。
小さくて薄っぺらい胸が暖かい。鼓膜を揺らす心音が、紛れもなく生きていることを知らせた。
生きている。息をしている。それだけで、こんなにも満たされるのか。
……"かあさん" の幻影のせいだ。安堵感に思わず手が震えるのは。
「……よしよし」
不意に、陽向が俺の背中に手を回した。
背を滑る暖かい手に、思わず目を瞬かせる。
「やっぱり変だね。早く家に帰ろう」
頭上で優しく響く小声に、痛くなるほど胸が狭くなった。
「ひな、愛してる」
そう呟いた俺に、陽向が「えっ」とだけ残して固まる。
そして少しの間の後、
「な……何、急に……変なの……海外ドラマの家族みたいなこと言うじゃん……」
恥ずかしいのを誤魔化そうとしているのか陽向が軽口を叩くが、その声はか細く震えている。
見上げると、陽向が真っ赤な顔で眉を八の字にしていた。
俺と視線が合った陽向はハッとして、慌ててぎゅっと俺の頭を自分の胸に押し当てる。
「い、今見ないで」
掠れた小さな声で抵抗した陽向に、ただ抱き締められる。
……心音が激しい。こんなにうるさい心臓を無防備に晒す方がよっぽど恥ずかしいと思うのだが。
そのまま数秒静寂が続いてから、陽向はひと呼吸置いて呟いた。
「……俺も、お兄のこと大好きだよ」
最上の慈しみを込めたような甘く優しい声に、ドクンと心臓が跳ねる。胸の奥が締め付けられて、どうしようもなく痛かった。
その感覚に、俺は『あ』と腑に落ちるものを感じた。
……俺、好きなのか。陽向のこと。
家族愛じゃない。
間違いなく、恋愛感情だ。
長年埋もれていた記憶がふと蘇るような速度と温度で、それは降り落ちてきた。
好きなのか。
いや、好きだったのか。
自分でも気付かない内に、当たり前のようにこいつを好きだった気がする。それほどまでに、胸に馴染む感情だった。
あぁ、墓場まで持っていくことが増えた。
そっと手を離すと、少し遅れて陽向も俺を解放した。まだ赤い顔のまま、陽向が照れ隠しのように笑う。
(あー……可愛いな。うん。すげー可愛いわ)
改まってそんなことを考えたのがおかしくて、何故か俺まで笑えてきてしまった。
★
家に帰り一息吐いたところで、俺はその話を切り出した。
「あのさ。 "おかあさん" のことなんだけど……」
「あー……」
リビングのソファで兄の肩に凭れながら言葉を考える。
何から話せばいいんだろう。
「病院でね、お腹の中に……その、"おかあさん" と一緒に死んじゃった子が入ってきたときにね、"おかあさん" の記憶とか想いが混ざり込んできたんだけど……」
そう話しながら無意識に自分の腹を擦っていた俺の手を、兄がそっと止めて「うん」と相槌を打つ。
兄のその手をきゅ、と握って、俺は続きを語った。
「そのときにね、『 "おかあさん" はこの子への未練がすごく大きいんだ』って分かったんだ。それで、色々考えたんだけど」
うん、と静かに相槌を打つ兄の顔を覗き込む。ぴく、と僅かに兄の肩が動いた。
「水子供養ってしたの?」
「……あー、なるほどな」
さすが、一発で俺の言いたいことが分かったらしい。
やはり俺は、この世に縛り付けられている "おかあさん" の無念を晴らす鍵は、あの子が握っていると思うのだ。
兄は考え込むように顎に手をやったが、すぐに口を開いた。
「したっちゃしたし、してないっちゃしてない」
「何だそりゃ」
「かあさんの供養の方で手一杯だったらしくてさ、ずっと後回しにしてて、結局落ち着いた頃にかあさんの実家で供養したんだよ」
「実家で供養?」
「ちっちゃい仏壇作ってな。ひなは当然行ったことねーけど、俺もかあさん死んでからそっちの家にはほとんど行ってないから、今その仏壇がどうなってるかは全く知らん」
「そっかぁ」
「父さん再婚してお互いクソ気まずいだろうし仕方ねぇわな」
「ストレートに言うなそういうことを……」
呆れる俺を横目に、兄が「でも」と言う。
「正直、水子の方はとっくに成仏してると思う」
「……そ、っか。そうだよね……」
「何ならもうどっかで生まれ変わってんじゃねぇの。それだけ年月も経った」
──それでも、 "おかあさん" はまだこの世に囚われ続けている。
「……どうしたら、 "おかあさん" を助けてあげられるのかな」
ぽつりと呟くと、兄は驚いたような顔で言った。
「……助けるって」
「……だって、すごく辛そうだったんだもん。こっちまで胸が痛くて張り裂けそうだった。本当は今すぐにでも解放されたいのに、それが叶わなくて……なんか、諦めてるみたいだった」
「お前のことずっと、──……怖がらせてきた相手なのに?」
「それとこれとは別だよ。お兄が "おかあさん" のこと危ないって言ってるのも分かってる。分かってるけど……このままじゃあんまりだよ」
『私が何をしたと言うの』。
"おかあさん" の声が、今でも頭に蘇る。
いつだって、人の命が奪われるのは突然だ。その人が善人だろうと悪人だろうと、……二人分の命を抱えていようとも、関係ない。
そんな理不尽に苦しめ続けられるなんて、あんまりだ。
兄が徐ろに俺の頭へ手を伸ばす。そして俺の頭を一撫ですると、そのままデコピンをした。
「いたっ!」
「お前はほんと、馬鹿で素直で救えないお人好しだな」
「貶されてるという解釈でいいか?」
「そーだよ」
兄が屈託なくクスクス笑うのを見て、少しホッとする。
「ちょっと元気出てきたね」
「……だから別に何ともねーって」
「はいはい。バレバレの嘘吐き続けたいならお好きにどーぞ」
「生意気な」
「わっ!あー!やだやだやめて!あははは!」
突然身体を擽られて笑い声を上げる。ニヤつく兄の手をパシッと取って止めると、その掌に一筋の切り傷が走っていることに気が付いた。傷口が赤く腫れていて、まだ生傷であると分かる。
「わ、何これ。いたそ……」
「あ?……あー、別に」
「……お兄、言葉選び間違ったね」
先ほどから『別に』を聞き続けているので全く信用できない。
しかし改めて「この傷どうしたの?」と尋ねても、また「何でもねーって」と返ってきただけだった。
……そういえば、今日はどこに行っていたのだろう。でもそれを聞いたってきっとやっぱり、『別に』とはぐらかされてしまうのだ。
俺は兄の手を頬に当てて、祈るように言った。
「お兄、危ないことしないでね」
この兄は、現実的で淡白なように見えるのに、時折危うい雰囲気を感じさせるのだ。
俺のためなら、自らを投げ出してしまいそうな。
俺の言葉に、兄は少し笑って言った。
「……お前が心配するようなことはねーよ」
ほら、また嘘吐いた。
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