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#38 暁
俺は、その日自分のしたことを一生忘れないだろう。
☆
兄と寝床を共にするようになって数日経ったある日のことだった。
ふ、と意識が覚醒した。部屋は夜闇の色を残しながらも薄明るく、どうやら今は明け方らしいと分かった。
目の前には壁。ころ、と寝返りを打つと、すぐそこには仰向けに眠る兄の姿がある。
──その横顔を見た瞬間、何故かすうっと頭の中が空っぽになった。
俺は起き上がり、兄の腰に跨る。
ギ、とベッドが軋んだ。身体が勝手に動くのを、頭が傍観しているような感覚だった。幽体離脱でもしているような。
俺は、何の疑問も抱かず兄の首に手をかけた。
ぐ、と両手で握り込み、容赦なく力を込める。親指で喉仏を圧迫するように。
兄の顔はすぐに歪み、掴んだ喉から呻き声が鳴る。
「ぐッ……う゛、……な、に゛、」
「……」
苦しげな兄の声が耳に入ると、俺の頭の中で "誰か" が呟いた。
《迎えに来たよ、夕ちゃん》
嬉しそうなその声を脳が認識すると、途端に頭の中が声で溢れ返った。
《夕ちゃん、苦しいね、ごめんね、でもあとちょっとだからね》
《ああ、はやく、ママのところに来て》
《夕ちゃんの大事な "この子" には、もう手出さないから》
《おねがいはやく、ママさみしいよ》
《我慢しないで楽になって、ママが絶対幸せにするから》
《言った通り、ちゃんと来たでしょう?だから夕ちゃんもこっちにおいで》
《ねえ、夕ちゃん。夕ちゃん、夕ちゃん夕ちゃん夕ちゃん夕ちゃん夕ちゃん夕ちゃん》
《ねえ、はやく死んでよ》
「!!」
一際はっきり響いたその声に、俺はハッとした。
瞬間、感覚と意識が自分の身体に戻ってくる。我に返った俺は、自分の下で呻く兄を見て慌てて飛び退いた。
「ゲホッ、ゲホッ!……っあ゛、」
上半身を起こし、自分の首を抑えて苦しそうに咽る兄を呆然と見る。
俺は今、何をしていた?
(……お兄の首、絞めてた)
自分の両手を見つめる。この手で、俺は間違いなく兄の首を絞めていた。
あと少し解放するのが遅かったら、どうなっていた?
見下ろした両手が、ぶるぶる震えだす。
取り返しのつかないことをするところだった。
いや、たまたま取り返しがついただけで、俺が恐ろしいことをしたのに違いはない。
兄を、お兄を、殺すところだった。
この手で。
「……ひ、な」
嗄れた声で名前を呼ばれる。
──仄暗い部屋で、兄の目が、乱れた前髪の隙間を縫って俺を捉えた。
僅かに濡れて光る栗色の瞳と視線が合うと、俺の目からは涙が零れてきた。
「……あ、ごめ、なさ、っごめ」
意思を無視して勝手にぼろぼろ溢れてくる涙を、必死で拭う。
何泣いてんだ俺は。泣く資格なんかないだろ。
ギ、とベッドが音を鳴らす。ビクリと震えて顔を上げると、兄が俺に手を伸ばしていた。
「ひな、」
「っ!こ、来ないで!」
俺は首をぶんぶん横に振って後退る。とん、と背が壁についた。もっと離れなきゃ、もっと、じゃないと俺、今度こそ、
(──今度こそ、お兄を殺しちゃうかもしれない)
身体どころか意識すら乗っ取られた先ほどの感覚を思い出し、鳥肌が止まらない。
抗う隙すらなかった。あんな風に簡単に、俺は操られてしまうのか。
ガタガタ恐怖に震えながら涙を拭っていると、突然強い力で引き寄せられた。
嗅ぎ慣れたその匂いが鼻孔を擽ると俺はすぐにハッとして、兄の胸を押し退けた。
腕の中から這い出てまたすぐに距離を取るが、兄はそれを許さないというように俺の肩を掴む。
「やだ、やだ、離してっ!」
「ひな、もう大丈夫だから」
「離してよぉ、ころしたくない」
「ひな、ひなってば」
「やめて、いやだ、離し……っ」
「陽向」
「!」
ぴしゃり、と一喝するように、兄が俺を呼んだ。
情けない話、俺はその声にびくっと固まってしまった。喧嘩したときくらいにしか聞かない、厳しい声。
「"かあさん" だろ。分かってる。もういないから大丈夫」
気配はどこにもない。
その言葉を聞いて、俺は恐る恐る兄の顔を伺った。
俺と目が合った兄は、こわい顔をふっと緩めた。
「だからおいで」
兄が腕を広げ、やさしい声で言った。
駄目だ。近付けない。近付きたくない。
『大丈夫』なんて言われたって、怖い。俺はこの手で大事な、大好きな家族を殺しかけたのに。
泣く資格もなければ、その腕に飛び込む資格もない。
ぶんぶん首を振って拒む俺を見て、兄は大袈裟に溜め息を吐きながら言った。
「あーあ。俺が慰めて欲しいから腕広げて待ってんだけどなー。あんなに怖い思いしたのに誰も甘やかしてくんないのかー」
「!」
詭弁だなんてすぐに分かったが、それでも俺は焦ってしまった。
俺が犯した過ちだ。兄の願いを俺が無視してどうする。
俺はおずおずと兄に近寄った。本当は、正義感を建前に自分が心細かっただけかもしれない。あぁ、いつまでもこうだから頼ってもらえないんだ。自分のことばかり。
俺は酷い自己嫌悪に駆られながら、兄の腕に収まった。
兄は満足そうにぎゅうっと俺を抱き締めて、耳元で囁く。
「うそ。怖かったっての」
そんな訳ない。完全に寝入っていたときに首を絞めたのだ。流石の兄でも、命の危険は感じたはずだ。
……俺が負い目を感じないように、何でもなかった振りをしているのだ。
甘やかされてばかりの自分が本当に嫌になる。
自分の情けなさに涙が出て、それがまた嫌で堪らなかった。
「お前になんか俺は殺せねーよ」
ひどく優しい悪口を言いながら、兄は俺の背中をとん、とん、と叩いた。
やめてよ、ああどうしよう、安心してしまう。こんなことしてもらう資格ないのに。
そんな俺の焦りなど知らないような優しい声が、小さく小さく丸まって耳に届いてくる。
「大丈夫」
「……っぅ」
背中を叩かれる度、ねじが緩むみたいに涙腺が緩んだ。ぽろぽろ涙が零れだす。
「ごめ、ね、ごめんねぇ」
「謝んなくていい」
「ごめんなさいぃ、」
「ひな、いいから。謝んないで」
俺の方がごめん、と兄が呟く。何でお兄が謝るの、と俺はまた泣いた。
「お前につらい想いばっかさせてるから」
「ち、ちがう、俺がわるいんだ、俺が、もっと、」
もっと頼れる弟だったら。
そう願う声は、自分の嗚咽にかき消されてしまった。
──《迎えに来たよ、夕ちゃん》
──《夕ちゃんの大事な "この子" には、もう手出さないから》
──《言った通り、ちゃんと来たでしょう?だから夕ちゃんもこっちにおいで》
──《ねえ、はやく死んでよ》
……あの声は、"おかあさん" だ。俺を乗っ取ったのは、間違いなく彼女だった。
でも、その彼女がどうして実の息子を殺そうとしたのかは分からない。
分かるのは、俺の代わりに兄が殺されかけたことと、彼女と兄が何か言葉を交わしたこと。
俺は何も知らなかった。兄は俺に、何も話してくれなかった。
でもそれは、お兄が悪いんじゃない。
俺が、いつまでも守られなきゃいけない弱い弟だからだ。
お兄。
俺、お兄がもっと頼れるように、しっかりするから。
だから、だから、
「あ、あやまんないでよぉ」
お兄が何でも背負い込んじゃうのが、俺はつらくて仕方ないよ。
お兄が俺を大事にしてくれていることを知っているから、俺は何もできない俺が嫌なんだ。
俺だって、お兄が大事なんだ。
言いたいことは山ほどあるのに、嗚咽でつかえて上手く言葉にできない。
俺は結局、泣き疲れて眠るまで兄の腕の中で泣いてしまった。
・
・
・
「ひな、起きろ」
「ん……」
「ひーな、バカ陽向。おい」
「んっ」
覚醒しかけたところ、鼻をつままれて無理やり目覚めさせられる。
唸りながら目を開けると、兄が立って俺の顔を覗き込んでいた。
……外出するような格好。待て、今何時だ?やばい、遅刻す……
「あーあー寝てろバカ。言っとくけど休日だからな。土曜日。ポンコツになっちゃってんじゃん」
飛び起きかけた俺の肩を布団に沈めながら、兄がぼやく。
あ、朝からバカだのポンコツだの……本当にさっきまでの優しい声と同一人物か?
と、思わず心の中で悪態はついてしまったものの、正直いつもの不遜な態度に安堵感を覚える。流石に大泣きし過ぎたという自覚があったので。うん。
正気になった今、先程と同じように甘やかされてしまったら、俺の羞恥心が血の涙を流すだろう。
……ああああ俺何であんな泣いちゃったんだろう!恥ずかしい!!
「ポンコツバカの愚行見届けたかったけど、あいにく出席必須の補講があんだわ。とりあえずお前はその不っ細工な顔どうにかしろ」
散々な言葉と共に投げられたのは、凍ったペットボトルだった。うわっ、ちべて。
「え、俺そんなひどい顔してる?」
「目がやばい。そのまま外出られたらうちがご近所から変な風評被害に合うからマジやめろな」
「そんなか!?」
し、仕方ない……。そんなに言うならとりあえず顔をどうにかしよう。
寝転がったまま冷たいペットボトルを目に押し当てると、兄が部屋の扉へ向かいながら口早に言った。
「もう行かねえと。父さんは出かけた。お守りは新しいの用意した。俺の帰りは夕方。あとはー……」
何かあったかな、という様子で虚空を仰いだ兄が、思い出したように俺のもとへ戻ってくる。
「明け方のは気にしないこと」
ニ、と笑って俺の頭をわしゃわしゃ撫でつけると、兄は「じゃ」とだけ残して部屋を出て行った。
とっ、とっ、とマイペースな足音が遠のいていく。
……結局甘やかされてしまった。
それに、言いたいことがたくさんあったのに。聞きたいことも。
俺は一旦「ふう」と息を吐いて脱力した。
この相当酷いらしい目をどうにかして、それからの話。
今日は一日暇な予定だったが、明け方の件でとある用事ができた。
(あの人に会いに行こう)
兄に危険が迫っている今、悠長にはしていられない。解決の糸口は、すぐにでも見つけなければいけないのだ。
水子について何かできることをしようと思ってはいたが、それもあれやこれやと考えるには時間と頭が足りない。
"おかあさん" についての情報整理も兼ねて、もっと多角的な視点が欲しい。
兄が全てを話してくれる確信のない今、俺にできる精一杯のことはその『視点』を増やすことだろう。
俺でも兄でもない、第三の視点。
それに相応しいのは、彼のはずだ。
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