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第9話 背中
カードキーと扉に書かれた番号を交互に見ながら廊下を歩いた。床に敷き詰められた絨毯のせいか、歩くたびに足が少し弾む。
そして立ち止まり、持っていたカードを扉の窪みに挿入した。カチリと軽い音がした後、ドアノブが動いた。
「……わあ」
先に入室した僕は思わず声を漏らした。後ろにいた奏は「何だよ」と言いながら覗き込もうとしている。
部屋は狭かった。観光用でない、ビジネスホテルだから仕方がない。ベッドが部屋の半分を占めている。そのベッドに問題があった。
シワ一つない真っ白なシーツに包まれたそのベッドは大きかった。…二人並んで寝られるくらいに。
扉付近で立っている僕を追い越して、奏は奥に進んだ。そして重い荷物をドサリと置き、振り返る。
「シャワー浴びてくる」
「え、ああ…うん、分かった。僕も後で浴びるよ」
僕は整えられたベッドシーツを崩さないように、出来るだけ隅に座った。
水が落ちる音が僅かに聞こえる。ほのかなシャンプーの香りが鼻に届いた。
思わずため息をついた。自分が馬鹿になってしまったような気がしたからだ。
意識しているのは、僕だけじゃないか。
両頬を手のひらで叩いた。ジンワリと痛みが広がる。こんなに落ちつきのない姿を奏に見られたくなかった。
テレビの電源を入れる。聞いたこともないようなニュース番組が放送されていた。この地域ではメジャーなのだろうか。内容なんて殆ど頭に入ってこないのに、見続けた。静かな部屋にいるとおかしくなってしまいそうなほど、緊張していた。
「もう終わったぞ、蓮」
バスルームのドアが開き、湿気と共に奏が出てきた。髪は濡れ、顔は紅潮している。ボリュームを失った髪から、水が滴る。それは涙のようだった。
僕はうん、と返事をすると立ち上がった。この動揺がシャワーが終わるまでに治るのを祈りながら。
♢♢♢
水温調節に手間取ったが、シャワーはすぐに終わった。結局冷静になれないまま体を拭く。
水を止めた途端、辺りは静かになった。同じ部屋に奏が本当にいるのか心配になるほどに。
僕は丁寧に髪の水分を拭き取った。こうすれば短い髪は短時間のドライヤーですぐに乾くのだ。
扉を開けると、部屋が薄暗くなっていた。蛍光灯は消え、間接照明のみが室内の光源だった。
オレンジ色の温かい光に戸惑いながら、僕は浴室から出た。
「……奏。もう眠いの」
ベッドの上で微動だにせず、背を向けて座る奏に声をかけた。何故か小声で。彼は僕の呼びかけに振り向いた。
思わず、息を呑んだ。彼の濡れた瞳に込められたものが、心に入り込んできた。視線が合った瞬間、顔が熱くなる。奏はとろんとした眼で僕を上目遣いで見つめた。心なしか、頰がいつもより紅い気がした。
「「あのさ」」
二人の声が重なった。同時に口をつぐむ。気まずさから目を逸らし、声を出した。
「…僕から、いい?」
奏は頷く。ピアスが軽い音を立てて揺れた。
「僕がこれから言うこと…嫌だったらすぐに教えて」
「ああ、わかった」
僕はベッドに腰掛けた。奏と背中合わせになる。
「多分、僕は君の隣で大人しく眠れないと思うんだ。この部屋で…いや、ベッドの上で奏といると冷静でいられなくなる……。僕はこれから君と、その……」
しどろもどろになって言葉を放つ。奏の背中はピクリとも動かない。
「君と、いやらしいことしたいって気持ちが、治らないんだ。僕、奏のことを抱きたい。…少し前までこんな具体的なこと考えなかったのに。今日はなんか…」
「もういいよ」
奏の背中が僕から離れた。軽くなる。
「分かったよ、お前の気持ち」
低く、かすれた声が背中越しに聞こえる。振り返るのが怖い。顔を見れない。心臓が激しく動く。胸が痛いほどに。
「蓮、俺を見て」
僕は硬くなった首を無理やり動かした。
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