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第8話
深青にそう促されても、隆春はどこかぼんやりとしたまま周囲を眺め、立ち尽くしている。まるで、この事務所が本当にあるのかどうかを確かめているようだ。深青は失礼な、と憤慨したがそれを表情に出すほど子供ではない。
深青は明日も早い。七時には起床して実家へ行き、母の支度を調えてやってから九時までには事務所を開けねばならないのだ。隆春の伊達や酔狂に、いつまでも付き合っているヒマはない。
あからさまに大きくため息をついて、深青は切り出した。
「水澤、話がないんならこれで」
「あ、いや……」
「たぶん違うと思うけど、借金の申し込みならお断りだよ。保証人にもならない。俺よりももっと適任が水澤の周りにはいるだろう? そいつらに話せないようなことを俺に依頼に来たんなら、それこそお門違いだ」
立て板に水、といった風に深青がたたみかけるのに、らしくもなく隆春は狼狽したようだ。学生時代にすらこんな風に話したことがなかったのだから、優男然とした深青の口から出るきつい言葉に、驚いたのかも知れない。
「いや、俺は……その、謝りたくて」
深青は思い切り怪訝とした表情になってしまう。一体、何を謝るというのか。それほどの関係が過去、深青と隆春の間にあったことはない。
「その、大学時代の俺の態度……悪かったと思う」
今更、何をこの男は言っているのだろう。隆春が深青を嫌っていたのと同様に、深青も隆春を嫌いだった。それはお互い様で、大学を卒業して三年以上が経過した今、改めて謝るほどのことなのだろうか。そもそも、そんなことをずっと考えていられたのだとしたら、そちらの方が余程気持ちが悪い。
「こんな時間に訪ねてきて言うほどのこととは思えない」
深青はバッサリと切って捨てた。それ以外、どう受け止めて良いのかが分からなかった。敢えて言葉にするとしたら、ものすごい『違和感』なのである。深青の言葉に萎れた様子を見せる隆春も、三年も前の学生時代のことを持ち出す隆春も、更にはその頃の態度を謝罪する隆春も。深青の知っている隆春は、我が強く、人の輪の中では常に中心にいて、尊大で、他人を卑下することを厭わなかった。
「あのとき見下してごめん、そう言って気持ちがすっきりするのは、水澤、お前だけだって事に気がつかないのか? お前はそんなにバカなのか?」
できるなら深青は、一刻も早く帰宅したい。ここで見たくもない隆春の顔を拝謁している時間なんて、一秒とて惜しいのだ。こんなに不機嫌な態度を取って、言葉でも責めているのに、隆春は一向に帰る気配を見せてはくれない。
「申し訳ない……あのとき俺はまだ子供で、自分の気持ちを持て余していて……。でも、仁科が個人事務所を開いたって噂で聞いて、もしかしたら……って」
深青が事務所を開設したことと、大学時代の素行を謝罪することに、何の関係があるのだろうか。深青は苛々としながらペットボトルの蓋を開け、緑茶を口にした。ペットボトルの表面に浮いた水滴がじっとりと手を濡らし、嫌な気分が更に増す。
突然、事務所のフロアに両手を付き、隆春が額を擦り付けるようにして頭を下げた。どう見ても、どこから見ても土下座でしかない。深青は状況に全くついていけなかった。
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